P.3 MISSION 3:血とインク

 決意を固めたからといって、翌日から世界が薔薇色に変わるわけではなかった。むしろ、地獄の釜の蓋はさらに大きく開かれた。プレブ・サマーは後半に差し掛かり、訓練は実戦を想定した、より過酷なものへと変貌していた。


 その週は、「Wet and Sandy」と呼ばれる地獄の訓練週間だった。その名の通り、俺たちはセヴァーン川の冷たい水に飛び込み、ずぶ濡れのまま砂浜を転がり、全身に砂をまとわりつかせた状態で、延々と基礎訓練を繰り返させられた。戦闘服の繊維にまで入り込んだ砂が皮膚と擦れ、あちこちが赤く腫れあがる。休憩時間は、ない。


 「貴様らのその甘ったれた精神を、この砂と水で洗い流してやる! それでも残るものが、海軍士官としての魂だ!」


 教官たちの怒声は、もはやBGMのようなものだった。俺はただ、機械のように身体を動かし続けた。腕立て、腹筋、スクワット。濡れた戦闘服が体温を奪い、唇が紫色になる。だが、俺は歯を食いしばり、決して動きを止めなかった。俺の視線の先には、常にミラーがいた。


 彼は、エリート家系で育ったせいか、基礎体力も俺より一枚上手だった。だが、この「Wet andSandy」は、彼のプライドを少しずつ削り取っていた。綺麗に整えられていたブロンドの髪は泥と砂にまみれ、その碧い瞳には焦りの色が浮かんでいた。


 その日の午後、チーム対抗のボート訓練が行われた。重いゴムボートを担いで砂浜を走り、沖まで漕ぎ、再び担いで戻ってくるという単純なレースだ。俺とミラー、そしてジャックも同じチームだった。


 「カミヤ! 足が遅いぞ! 貴様のせいで負ける!」


 ミラーが不満をぶつけてくる。だが、俺は何も言い返さず、ただ奥歯を噛み締めて足を前に動かした。ボートを水に浮かべ、乗り込む。ジャックが力強いストロークでボートを引っ張り、俺もそれに続いた。だが、ミラーの漕ぐパドルは、明らかに精彩を欠いていた。彼の体力は、限界に近づいていた。


 「ミラー! 漕げ!」


 今度はジャックが叫んだ。チームが遅れているのは、明らかにミラーのせいだった。


 「うるさい! 分かってる!」


 ミラーが悪態をつきながら、力なくパドルを動かす。その時だった。彼の動きと他のメンバーのタイミングがずれ、ボートが大きく傾いた。俺はバランスを崩し、冷たい川の中へ投げ出された。


 頭まで水に沈み、一瞬、意識が遠のく。泥水の冷たさが、体中の熱を根こそぎ奪っていく。水面に顔を出すと、ミラーが「す、すまん……」と、らしくない言葉を口にした。だが、教官はそれを見逃さなかった。


 「候補生カミヤ! 貴様は仲間を危険に晒した! ミラー! 貴様も連帯責任だ! 二人でボートを担いでゴールまで戻れ!」


 他のメンバーは、泳いで岸まで戻るよう指示された。俺とミラーの二人に、あの重いゴムボートを運べという、無茶な命令だった。


 岸に戻った俺たちは、二人でボートの縁に肩をかけた。


 「……てめぇのせいだ」ミラーが吐き捨てるように言った。


 「なら、俺を置いていけ。一人で運んでみろ」俺は冷たく言い返した。


 ミラーは何も言えず、唇を噛んだ。そこからは、意地の張り合いだった。泥と砂に足を取られながら、一歩、また一歩とボートを運ぶ。肩が軋み、骨が悲鳴を上げる。呼吸は切れ切れになり、視界が白く点滅した。


 何度も膝から崩れ落ちそうになった。だが、そのたびに、隣で同じように苦悶の表情を浮かべるミラーの顔が見えた。こいつにだけは、負けられない。その一心だけが、俺の足を動かしていた。


 どれくらいの時間が経ったのか。俺たちがゴールラインを越えて倒れ込んだ時、太陽はすでに西の空を赤く染めていた。他の候補生たちは、とっくに訓練を終えていた。


 その夜。俺は学習室の椅子に座りながら、鉛のような身体で教科書を開いていた。肩には鈍い痛みが走り、教科書の文字が滲んで見える。それでも、俺はペンを握った。


 昼間の肉体的な消耗は、血を吐くような苦しさだった。だが、それと同じくらい、俺は知識の不足に飢えていた。戦術、航海術、軍事史。ミラーたちが当たり前のように知っていることを、俺は何も知らない。その事実が、たまらなく悔しかった。


 不意に、学習室のドアが開き、ミラーが入ってきた。俺の姿を認めると、一瞬気まずそうな顔をしたが、やがて俺から一番遠い席に座った。彼もまた、教科書とノートを広げている。


 静かな空間に、ページをめくる音と、ペンを走らせる音だけが響く。俺たちは一言も口を利かなかった。だが、その沈黙の中には、奇妙な緊張感と、そしてほんの少しの共感が混じり合っているような気がした。


 昼間は血と泥にまみれて互いを罵り合い、夜はインクの匂いの中で、見えない敵と戦う。


 俺たちの関係は、ただの敵対心だけでは説明できない、もっと複雑なものに変わり始めていた。この美しくも残酷なヤードで、俺も、そしておそらくミラーもまた、自分自身が何者であるかを必死に探していた。


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