第34話

 ハロルドは、そんなビアトリスを内心でどう思うのか、じっとこちらを見た。


 一秒か二秒、数えたならそれくらい、一瞬のことだったかもしれない。一瞬だったはずなのにいつまでも目が離せない、そんな瞬間だった。


「僕は君を連れていきたいと思っているけどね」


 それはどういう意味だろう。ハロルドは、叔母に会いたいと思うビアトリスに、親切心で言ってくれたのだろうか。


「⋯⋯連れていってくれるの?」

「君が望むなら」


 ビアトリスは、なにか言いたいのに言いたいことが思い浮かばず、はくはくと口を開いては閉じてを繰り返した。


「ち、父に、」

 ようやく出た言葉は吃ってしまった。


「んっ、んっ。父に、話してみます」

「うん」


 ハロルドはそこで前に向き直って、話はそこまでになった。


 今の瞬間、なにが起こっていたのだろう。会話は短いものだった。それほど中身のないものだった。なのに、とても大切なことを話していたような気持ちになって、ビアトリスは騒ぐ鼓動が静まるのを、じっと待たなければならなかった。


 ハロルドは、冬休みには一旦帰国するのだろうか。それともこのままこの国で、卒業までを過ごすのか。


 彼が「連れていく」と言ったのは冬休みのことなのか。それとも、卒業してから帰国する時に案内してくれるという意味なのか。


 ハロルドは真横にいるのに、ビアトリスは彼に確かめたいことを悶々と胸の中で繰り返し考えて、結局その後も、なにも聞けないままになってしまった。




 ベッドの縁に腰を下ろして、ビアトリスは象牙の小箱を手にした。コロンと中から軽い音がするのは、片方だけの真珠の耳飾りが中で転がったからだろう。


 蓋を開いて、ひとりぼっちの耳飾りを取り出した。

 大粒の真珠は、多分隣国のものだろう。叔母の夫は、どんな気持ちでこの耳飾りを叔母に贈ったのか。叔母は、どんな気持ちでこの耳飾りをビアトリスに片方だけ譲ってくれたのか。


 ビアトリスは立ち上がり鏡台の鏡の前に座り直して、左の耳朶に耳飾りを嵌めてみた。満月が近い月灯りの射し込む部屋で、真珠はとてもビアトリスに似合って見えた。

 それはきっと、ビアトリスがあの時の叔母に姿形がよく似ているからだろう。あの幸福に満たされた叔母の笑みを、今もはっきりと憶えている。


 鏡に映る、片方だけ耳飾りを着けた自分の姿に、ビアトリスは語りかけた。


「叔母様。叔母様の気持ちが、今ならとてもよくわかるわ。叔母様の心の中がどれほど温かだったのかも。叔母様は、もう海を見たの?愛するお方の生まれた国で、海のような瞳を見つめているの?」


 ウォレスとの婚約がなくなったばかりであるのに、後ろ髪の一本も引かれずに他のことを考えている。

 ウォレスは正直に、真正面からアメリアへの思慕を語っていたが、ビアトリスは今もひっそり胸の奥に隠したままでいる。


 心を余所に移していたのは、ウォレスばかりではない。


「私も⋯⋯」


 どうして鏡の中の自分は、涙を溜めているのだろう。

 みるみるうちに溢れた雫、大粒の涙が頬を伝って落ちていく。誰かを想うということが、こんなに泣けてしまうだなんて。


「ハロルド様⋯⋯」


 名前を呟いたときに、また一つ涙が落ちた。


「貴方のことが好き」


 ぽろりぽろりと落ちた雫が、膝に置いたままの小箱を濡らす。


「大好きなの」


 この気持ちを隠したまま、ハロルドとはこのままお別れしてしまうのだろう。明日になったらなにもなかった顔をして、彼に「おはよう」と挨拶をして、数学のテストの傾向とかどうでもよいことを話すのだろう。


 叔母がどんなふうに留学生に恋心を抱いたのか、ビアトリスは胸が痛むほどよくわかる。こんな気持ちだったのだ。きっと叔母も、こんな気持ちで留学生に恋をした。


 ビアトリスはそれから、もう一度、象牙の小箱に内緒の言葉を囁いた。

 叔母が呪詛を呟いたと思っていた象牙の小箱は、今はビアトリスの、誰にも打ち明けられない言葉を聞いてくれる。


 幼い頃に読んだ童話には、誰にも言えない秘密を掘った穴の中に向かって叫んだ男の話があった。

 しっかり穴を塞いだはずなのに、秘密の言葉はそのあとに生えた葦が漏らしてしまう。


 ビアトリスの秘密の言葉の言葉も、いつか小箱は外に漏らしてしまうのか。


「お願い、内緒のことなの。誰にも漏らさないで頂戴ね」


 ビアトリスはそう言って、小箱の蓋をそっと撫でた。螺鈿に縁取られた蓮の花は、きっと秘密の門番になってくれると思った。


 ビアトリスは、この気持ちをそっと箱に封じ込めて、これからもこの国で生きていく。

 優しいハロルドは、あんなふうに言ってくれたけれど、彼には彼の帰る場所と暮らしがある。


 ビアトリスはきっと、しばらくは隣国に行くことは叶わないだろう。


「自分の力で行けるようになったら、叔母様、この耳飾りを必ずお返ししますね」


 数学は苦手だけれど、どこかの貴族の侍女になら雇ってもらえるだろうか。幼子のガヴァネスなら、ギリギリいけるかもしれない。

 自分で生きる術を得たなら、父の許しを得なくても自由に旅することもできるだろう。


 楽観的な気質は父に似たのだろう。

 うっかりメソメソしてしまったビアトリスであったが、そのうちなんだかやれそうな気持ちになってきた。


 濡れた頬を寝間着の袖で拭って鏡を見れば、片方だけの耳飾りが、優しく耳元で「頑張れ~」と囁いているように見えた。


「頑張るわ。耳飾り」


 大粒の真珠に向かってそう言って、鏡の中のビアトリスは青い瞳を潤ませたまま晴れやかな笑みを浮かべた。





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