第15話

 ハロルドとは隣の席だから、毎日言葉を交わしている。叔母が嫁いだ隣国の貴族である彼に、ビアトリスは親近感を抱いていた。


 だが今日は、いつもより少しだけ距離が近かった。気がついたら目の前に彼の瞳があって、思わず息を呑んでしまった。


 カタンと小さく音がしたのは、ビアトリスがぎこちなく身を離したからだった。頬が紅くなっているのが見なくてもわかった。


 思えばこんな恥じらいを、ウォレスに抱いたことなどなかった。ウォレスには、繰り返される茶会のすっぽかしに怒り心頭で頬が赤らむことはあっても、会話の途中でこんなふうに頬が染まるなんてなかったことだ。


「君の婚約者だって十分非常識だよ。君は何も悪くない」

「え?」


 頬を染めるビアトリスに気がつかなかったらしいハロルドの言葉に、ビアトリスははっとした。


『ルーファス様が、君は何も悪くないと。あの時、私を抱えて下さったときに、そう仰って』


 それは、エレンから聞いた言葉だった。


『それで私、救われたの。ああ私、何も悪くなかったんだわって』


 ビアトリスは、エレンの気持ちがよくわかった。ああそうか、自分は何も悪くなかった。

 ハロルドの言葉で、これまでウォレスに費やした時間が報われるように思えた。


「ハロルド様、ありがとうございます。なんだか心が軽くなったみたい。人様に慰めてもらえるって、これほど勇気が湧くものなのね」

「こんなことで勇気が湧いたの?」

「ええ。ちょっと最近にはないくらい」

「じゃあ、これから毎日君を励ます言葉を考えないとな」

「はあ?それって考えないと言えないってこと?」

「ああ、いや、失敬」


 自分の失言に口元を押さえながら、まだ含み笑いをするハロルドとの軽口めいた会話は楽しかった。


 そこでビアトリスは思った。日和見なのは父ばかりでなく、自分だってそうだった。

 ウォレスとの関係改善を早々に諦めて、アメリアとの近い距離にもエレンのように正当な抗議なんてことはしなかった。


「エレン様はとても勇敢だわ。ご自分のためだけでなく、ご生家の面目のために為すべきことをなさったのだもの」


 ハロルドはビアトリスの言葉を黙って聞いていた。


「はあ。私、このまま流されてしまいたくない」

「流される?」


 ハロルドには、ウォレスとは破談になるかもと話したばかりだった。それで振り落とされないようにと言われたのに、ビアトリスはもう振り回されている。


「婚約者との関係を再構築することを望まれてしまいました」

「嫌なの?」

「ええ」

「君はどうしたい?」

「逃げ切りたい。どうにかして」


 どうにかといって、非力な自分になにができるだろう。だがもう無理なのだ。両親にもブラウン伯爵夫妻にも申し訳ないが、今日のウォレスの言葉を聞いてしまって彼との未来の展望なんて描けない。


「なんとか方法を考えてみます」


 思い切って姉たちを頼ろうか。だが、若妻の姉たちにもそれぞれ婚家での立場がある。ならば手に職を得るべきか。ウォレスに嫁がずとも自立できると示すべきか。


 これから王城の文官か侍女に志願する?いやいや文官は無理だろう。そこまで優秀な頭脳を持っていない自信がある。


「やっぱり、ガヴァネス?ガヴァネスになるべき?ガヴァネスってなにをするのかしら」


 つい最近も考えていたことを再考したところで、扉が開いて教師が入ってきた。

 ウォレスとの婚約逃亡計画について模索するのもそこまでとなった。



「え?ルーファス、それって本当?」

「うん、本当だよ」


 邸に戻ってルーファスから聞いたのは、ティムズの進退についてだった。


「退学してしまわれたのね」

「どのみち殿下の前で令嬢に手を上げてしまっては、側付きのままではいられなかった。近衛騎士への志願も許されないよ」

「故意ではなかったにしても酷いことだったもの」

「仮に過失だとしても、自分の感情を抑えられないことだけでも資質の不足を疑われる。それに、騎士なら女性関係は表に見えてしまっては駄目だろう」


 騎士には誠実と清廉が求められる。近衛騎士には特に品位は重要とされる。そんなことより弟の口から「女性関係」なんて言葉が出て、なんだか落ち着かない気持ちになる。


「ティムズ様はこれからどうなさるの?」

「寄宿制の男子校に編入するそうだ」

「今から?」


 卒業まであと半年ほどだった。ティムズは僅か半年だけを編入した学校で過ごすという。


「王都からそれほど離れていないが、山脈と渓谷に阻まれた自然豊かな環境らしい。それって陸の孤島だよね。卒業後は騎士になれるかもしれないけれど、近衛は無理だろうな」


 本来なら、来年にはエレンとの婚礼を控えていた。夢は幼い頃から近衛騎士だった。なにもなければ王太子の側付きでいられたかもしれない。


「なにもなかったら、なんて考えてる?」

「え?」

「王城はなにかあるのが日常だよ、なにもなければなんて日はない。ティムズは今だからこれくらいで済んだんだ」


 学生のうちだから許された。これが学園を卒業してからでは、ティムズの責任は、父伯爵や生家を巻き込んでもっと重いものになっていた。


「後継から外されたくらいで済んで良かった。そう思うべきだよ。エレン嬢の生家は破談以上を望まなかったらしい。だが、ヒューム伯爵は息子に責任を取らせた」

「後継を⋯⋯」


 ティムズの顔を思い出すと、それは今の彼よりもっと幼く、お互い屈託のない会話ができた頃まで遡った。


「ねえ、ルーファス」

「ん?」

「アメリア様とは、貴方たちにとってどんな存在なの?」


 ルーファスが容易く答えるとは思わなかった。

  

「とても魅力的なお方よね。それで好意を寄せられることが罪だなんて言わないわ。でも、アメリア様もおわかりだったのではないかしら。婚約者のいる令息たちがご自分に好意を抱いているって」


 アメリアに心を寄せるウォレスとティムズ。

 ティムズは今回、騒動になったけれど、ウォレスにしてもビアトリス次第では同じことが起こっただろう。

 火種はまだ消えていない。火の粉は今もアメリアの周りでチラチラと熱を孕んで飛んでいる。


「大丈夫なの?貴方たち。貴方もだけれど、ブライアン様は」


 その先を言わなかったのは、言わずとも通じるからだった。側近候補のもう一人、ブライアンもまたアメリアに惹かれている。

 ブライアンにも婚約者がおり、彼女もエレン同様に、アメリアを優先するブライアンに苦慮していることはビアトリスも知っていた。 


「アメリア様は神話の女神のようだわ。まるで魅了の魔力でもあるみたいに近づく異性を軒並み虜にしてしまう。私、とても不思議だったの。どうして貴方たちはアメリア様を殿下の側に侍らせているの?」


 ビアトリスは、最もシンプルで最も根本と思う質問をルーファスに投げかけた。





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