格子一本の嘘

妙原奇天/KITEN Myohara

第1章 雨を刻む

 午の刻を少し過ぎた頃、壬生の屯所に、乾ききったはずの紙がひとつ転がり込んだ。墨は褪せ、硯の匂いはしない。だが、紙の角にだけ、指の脂がつやを帯びていた。――誰かが昨夜、あるいは今朝、これを誰かに渡した。書いた者と、渡した者は違う。短い行が二つ。「宵、祇園の方。長居の灯あり。池田屋」。その下に、朱で小さく「北」とだけあった。


 土方歳三は紙を二度だけ弾いた。指が紙を弾く音は、簷(のき)を伝う雨の初粒のように座敷に響いた。「宵」と「北」。この二字は、罠の匂いも、本命の匂いも、同じ濃さで漂わせる。


 「総司、読め」


 命じるというより、刀を渡すみたいな声だった。沖田総司は紙を手にした。墨の乾き具合を鼻で確かめ、紙の繊維の毛羽立ちを指の腹で撫でた。硯の水は温かったはず。夏場の墨は乾きが速い。だが、この黒は長く空気に晒されている匂いがする。書かれてから、少なくとも三日は経っている。その三日のうちに「北」を押した指は、油臭い。菜種か、胡麻か。茶屋の賄いの油ではない。行灯に使う油だ。


 「宵は囮かもしれません。けれど、『北』だけは今朝が付け足し。受け渡しの手が灯の油の匂いです」


 「灯の側にいる者、ってことか」


 土方が顎で合図をすると、永倉新八が身を乗り出した。無造作だが、目だけは遊ばない男だ。


 「池田屋、そのままなら派手過ぎる。だが、派手だからこそ見せるには都合がいい」


 「見せの場に囮の文。北に本命。筋は通る」


 土方は扇子を閉じた。骨の音がぱちりと一つ。「三人一組で入る。総司、永倉、島田。俺は見張り線を敷いて、外で拍を合わせる。合図はいつも通り――だが、今夜はお前の“咳”を計算に入れる。総司、頼む」


 沖田は軽くうなずいた。胸の奥に、ほんの小さな砂利が転がるような感触。夜になるといつも、それは少しだけ大きくなる。刀を抜く前に、まず音を整える。それが今の自分の武だ。


 宵が近づくと、京は雨を細く降らせた。祇園囃子の笛は遠く、雨足に削られて、笛自体が雨になったみたいに細くなる。町家の軒は低く、通りは狭い。水は道の凹みに溜まり、そこへ人が通れば細く横に伸びる。夜目にも、水は足の返りを教えてくれる。


 「雨が良い方へ出るか、悪い方へ出るか」


 永倉が半ば冗談で言い、半ば本気で空を見上げた。沖田は返さない。濡れるのが嫌なわけではない。濡れる音が嫌なのだ。湿った草履は返りの拍を鈍らせる。拍が鈍れば、敵の拍と重なる。重なれば、読むべき音が紛れる。


 島田魁が帯の結びを少し締め直した。「罠の音は、最初に鳴る。鳴らせた方が勝つ」


 「鳴らすな。鳴らされた“ふり”をさせろ」


 沖田は短く答え、池田屋へ向かう路地の図を頭に描いた。昼に歩いた道。軒の高さ、庇(ひさし)の角度、雨樋の向き。店先に吊られた行灯が、右から二つ目だけ煤(すす)が少なかった。菜種油だ。火持ちがよく、長居用の灯。そこが中心である確率が高い。


 池田屋の表へ回り込む前に、沖田は一本北の細い路地へ入った。蔵と蔵の間、猫が眠っている。猫の耳は正直だ。遠くの笛より近くの足を聞く。猫の耳が一度だけ北を向いた。すぐ戻る。――そこに、長居の人がいる。猫が恐れない類の、静かに座っている人間だ。囮の場ではない、もうひとつの場の気配。


 「やはり、北に本命がいる」


 独り言のように呟くと、永倉が笑った。「お前は猫まで使うのか」


 「猫は町の耳です」


 「おう、犬はこっちだ」


 永倉は自分の胸を二度、軽く叩いて見せた。冗談が湿らないうちに、三人は池田屋の表へ回る。軒下の灯は濡れている。魚油の匂いが主だが、ひとつだけ、菜種の甘い匂いが薄く混ざる。右から二つ目。沖田はそこで立ち止まり、雨の落ち方に耳を傾けた。庇の端に布が掛けられていて、雨音が一本だけ途切れる。音を殺す工夫がされている。そこに人がいる。


 「段取り、確認する」


 沖田は低く早口に言った。「永倉さん、正面から廊下へ。床の拍を数えてください。島田さんは帳場の裏、梯子から二階へ。私は中庭の雨落ちから二階の灯を見る。合図は『一、二、間、二』。私の咳に合わせて、仕掛け板を外させる」


 「咳を合図に、ね」


 島田が目だけで笑う。「新式だ」


 「夜目には、拍だけが光です」


 表戸を叩く。宿の者が戸を開ける際に、沖田は鞘尻で敷居を軽く一打、間を置き、二打、また間、最後に一打。市中見回りの「安心の拍」。耳に馴染んだ形を先に入れる。人は安心に引き寄せられる。戸口の男の肩が無意識に落ちる。その落ちた肩の瞬間に、永倉の足は廊下を抜ける。島田は帳場の帳簿をわざと床に散らし、「すまねえ」と番頭を追いやる。


 沖田は中庭へ滑り込んだ。雨は細い糸のまま落ちる。庇の陰、格子の向こうに、薄い灯がある。菜種油の灯。火は小さく、だが長く持つ。長居の部屋だ。格子は新しい。一本だけ、太い。目印だ。見張りが、その一本を基準に人影を数える。


 喉に熱がのぼる。砂利が少し大きくなる。来る。――いま、使う。


 沖田は微かに体を引き、咳を上げた。二つ、間、一つ。偽の拍。床下が一瞬、音を拾いそこねる。潜りが柱に耳を当てようとして、上から落ちる簾(すだれ)の音に意識を攫われる。島田が裏から簾を引き落とした。闇。永倉が廊下の柱を鞘で一打、潜りの耳が柱の固さだけを頼りに次の拍の位置を探す――その瞬間に、畳越しに島田の足が落ち、潜りの頭に静かに音を入れる。


 沖田は袖の中から細い簪(かんざし)を出し、太い格子の隣の細い一本、その根をこじった。木が一分、歪む。目印の列がわずかに揺れる。見張りの視線が、一分、遅れる。視線が遅れれば、刃は遅れる。遅れは命だ。


 障子紙の向こうの影が三つ。膝を崩す影、刀を立てる影、手文を持つ影。手文の影は背に壁がない。逃げの間口が一枚分、空いている。見せだ。追わせて落とす構えだ。


 「文を置け」


 沖田は低く言い、指先だけで障子を内に送った。紙が静かに裂ける。風が通る。灯が吸われる。菜種油の炎が小さく揺れ、影が一寸だけ形を変える。畳に落ちた紙は軽い。中身は空。――囮を囮にする。


 火縄の匂いがする。灰が落ちていない。初発。肩が上がる。緊張で狙いは高くなる。沖田は咳を二つ、間を一つ入れ、拍を崩した。火蓋の切る音が咳に紛れ、弾は梁へと逸れた。紙が雪のように舞い、豆障子が破れ、薄闇に白い縁が散る。


 「いま!」


 永倉の声は短く、強い。刃は抜かない。鞘で手首を打つ。帯を搦める。口に手を当てる。声は合図になる。音は回廊を動かす。音を殺せ。


 制圧に必要な時間は、いつも、驚くほど短い。だが短いほど、そこにある工夫は多い。柱の節を鳴らして潜りの耳を釣る。太い格子をずらして目印を狂わせる。拍で射手の肩を上げる。三つ四つの工夫が、十息の間に折り重なり、相手の「読み」を崩す。


 静まった部屋に、雨の音が戻る。沖田はその雨に、違う拍を一つだけ紛れ込ませた。永倉と島田だけが知っている拍。二人が外へ動き、部屋の声が外へ出ないよう、入り口と窓を押さえる。沖田は格子の縁に指をかけ、内へ滑り込んだ。


 手文を持っていた男の口が開いた。「犬め」


 「犬は鼻で読めます」


 沖田は笑いで返し、男の喉に音を置いた。刃の重さを使わない。骨に音だけ入れる。男の眼に、短い驚きが浮かぶ。驚きは拍を乱し、その拍の乱れは動きを遅らせる。


 「本命はどこだ」


 「名を捨ててから問え」


 その、古びた返しの古び方は、新しい。本当に決まっている言葉を、何度も何度も磨いて使ってきた者の口ぶり。古いものを新しく保つ者の匂いがした。そういう者は、名を持たない。名を持つ者を動かす側だ。


 沖田は男の踝(くるぶし)を視線だけで辿った。畳目が逆向きに潰れている。奥へ抜ける通路がある。――だが、今は追わない。追えば拍を外す。拍を外せば、外の「北」を取り逃がす。


 「永倉さん」


 「承知」


 短いやり取りで、永倉は部屋の二人を黙らせ、島田は裏梯子を押さえた。沖田は格子から身を翻し、中庭を抜ける。雨は変わらず細い。雨樋の先で水が跳ねる。溜まりは北に細く伸びている。何度も通った足の返りが水を寄せた跡。北へ。


 蔵の前に立つ。扉の釘が一本、新しい。古釘の黒さの中で、銀に近い鈍色が一本だけ浮いている。釘頭に紙繊維。内から紙を打ち止めにした跡。合図紙だ。火を外に出す時、風で紙がばたつかないように止めるのに使う。火を持ち出す準備が内で進んでいる。


 沖田は扉に耳を当てる。息が三つ。低いのが一、若いのが二。低い息は鼻で吸う。腹で支える呼吸。武家の呼吸だ。若い二つは口で吸う。息が浅い。街の者だ。低い息の男は、声を出すことを惜しまない。惜しまないが、出し方を知っている。必要な音だけを選ぶ。


 「見回りは宿に寄った。戻るまで丑三つ。いま、道は薄い」


 「道」という言い方。寺社を焼く気配。御所を指す言葉を直接言わない。だが、灯の匂いが濃い。菜種油。長く燃やす準備をした火。焙烙玉(ほうろくだま)の類ではない。灯で人を誘い、騒ぎを作り、見回りを乱す。外の拍を崩す算段だろう。


 沖田は短刀で釘の根を噛み、折らずに撓らせ、静かに起こした。音は出ない。扉が紙一枚分だけ開く。そこから灯を指で半分覆う。薄明。影の輪郭だけが浮く。座している低い息の男が、薄い笑いを唇に浮かべた。笑いが口の形だけで、目が笑わない。よく鍛えた者の目だ。目的のために、笑いを形だけで使う。


 沖田は咳を変化させた。二、間、一、間、二。合図。しかし、同時に偽。路地の角で永倉の足音が、偽を本物に変える拍で一度だけ鳴る。島田の足音は鳴らない。鳴らないことが音になる。三つのリズムが、蔵の中の二つの若い息の足を釣る。左へ一歩、右へ二歩。足の向きが半分、ずれる。ずれた足は、腰を抜かれやすい。


 扉を押し、入る。灯を覆い、喉を押さえ、手首に音を入れる。若い二人は地に。低い息の男だけが座を崩さず、膝を一寸だけ浮かせた。立ち上がる気配は強い。だが、いま立つのは遅い。座で殺す技を持っている者は、座の間合いで戦う。間合いが自分のものになるまで、立たない。


 「名を」


 問う。問えば、返しの速度で相手の芯がわかる。男はすぐに答えない。答えの無い返しに時間を使う。その一拍が、意外と重い。


 「名は、外に置いてきた」


 土方なら笑って斬る場面だ。沖田は笑わない。咳が込み上げる。浅い咳ではない。胸の奥が焼ける。砂利が熱を持ち、砂利同士が擦れるみたいな音が出る。――使え。


 「なら、道を言え」


 「道も、外に置いてきた」


 「嘘だ。紙は内で打っている」


 沖田は釘頭の紙繊維を指先で示した。男の目が、一分だけ動く。東。――そこだ。北から東へ抜ける第二の道。御所の灯へ向かう筋。騒ぎの火で見回りを引き寄せ、その隙に東へ主を通す段取り。


 「永倉さん、東を締める」


 「おう」


 永倉が短く答え、路地に消えた。島田は蔵の内で若い二人の帯を搦め、口を布で押さえる。沖田は男の膝の前に膝を置き、目線を上げずに、呼吸の拍を上げた。二、二、一。偽の拍に、男の耳が一瞬、反応する。反応しない者は少ない。拍は、体を勝手に動かす。動かない者だけが強い。


 男は動かない。膝は浮いたまま、腰が沈まない。芯が深い。沖田は太刀を抜かずに鞘で鳩尾(みぞおち)を打つ構えを見せた。見せるだけ。男の鼻が少しだけ膨らむ。吸った息の量が変わる。次の拍を、そこで合わせる。


 咳が出る。拍が壊れる。自分の拍を、咳が壊す。だが、敵の拍も壊れる。壊れた拍の中で、動ける方が勝つ。沖田は一歩だけ踏む。足裏の返りが雨で鈍る。鈍りを読んで半寸浅く踏む。浅い踏みは、戻りが速い。鞘が胸に触れ、音が骨へ落ちる。男の目がわずかに閉じる。そこに縄を入れる。刃はいらない。


 蔵を出ると、雨は少しだけ強くなっていた。祇園囃子は細さを保ったまま、遠さだけが増す。北から東へ、人の足が四つ。ひとつは軽い。女。ひとつはすり足。年。残り二つは武。挟む形。主を真ん中に置く動き。


 沖田は拍を三つ入れた。偽。遠くと近くの合わせ拍。足が半寸、乱れる。永倉が前を塞ぎ、島田が後ろを切る。四つが三つになり、二つになり、一つが膝をつく。一連の動きは、刀を抜かずに終わる。音と間取りだけで終わる。


 その時、胸の砂利が、石になった。石が熱を持ち、喉を塞いだ。咳が止まらない。拍が自分を壊す。耳の奥で笛が遠い。雨は紙を打つ。紙といえば、囮の手文。罠。罠を返した。だが、返しきれたか。まだ宵だ。夜は長い。誰が何を救い、何を零したのか。答えは出ない。


 「総司、戻るぞ」


 永倉が肩に手を置いた。いつもの手の重さ。重さだけで合図になる手。沖田は、笑おうとした。咳になった。笑いと咳は、音からは同じ筋が伸びる。違うのは、誰に向けるかだ。味方へ向ければ合図、敵へ向ければ偽。


 「――次の拍で」


 沖田は言い、三人は雨の糸にほどけた。池田屋の間取りは、まだすべてを見せてはいない。北の蔵はひとつ押さえた。東の道は締めた。だが、紙にはまだ余白がある。余白は罠の居場所だ。罠は余白に住む。余白を埋めるのは、音だ。


 屯所に戻るまでの道すがら、沖田は一度、立ち止まった。小さな社の前。狛犬の耳に雨がかかる。手水鉢に水が満ち、溢れた水が石の縁を伝って、地面に落ちる。その落ちる音が、三つに聞こえた。二、間、一。――耳が拍ばかりを数える。数えていないと恐ろしくなる。恐ろしいのは、敵の刃ではない。自分の呼吸だ。呼吸が音を裏切ること。


 夜。屯所で土方が地図を広げた。京の通りは碁盤目であるようで、実際は家ごとに癖がある。古い町家は、増築に増築を重ね、廊下が曲がっている。直角は、図の上にしかない。


 「北の蔵は押さえた。東の道も見た。おそらく、まだ“西”がある。御所へ直接ではなく、さらに一度、脇に抜ける細い筋」


 沖田が指で図をなぞる。図では直線だが、実際は曲がり、細くなり、また広がる筋。途中に、甘味屋がある。甘い匂いは、菜種の匂いと混じっても目立たない。灯を運ぶ者は、匂いを紛らせる場所を選ぶ。


 「明け方までに、線を二本、三本、薄く張る。厚く張ると気づかれる。薄く、細く、だが拍を合わせられるようにしておく」


 土方は言い、扇子で地図の端を押さえた。「総司、お前は今夜は休め。明け方にもう一度、歩け」


 「歩けます」


 「歩け。走るな。走ると咳が拍になる」


 言い置いて、土方は座を立った。背中が短く揺れた。疲れは誰にもある。誰もが、音を抱えている。


 夜の半ば、沖田は一人で外に出た。雨はあがり、軒から滴る水だけが音を保っている。町は雨上がりの匂いを吐き、土と木と油の混じった息をしている。足音がよく響く。響く音は、いつもよりも遠くまで届く。


 猫が塀の上で伸びをした。耳が右へ左へ、三度動き、最後に北へ向いた。――音は残酷だ。知らないふりをできない。聞こえてしまえば、体が動く。体が動けば、拍になる。拍は誰かに見られる。見られれば、音が音になる。


 池田屋の裏へ回ると、昼に見た太い格子は、夜でも太かった。そこに白い紙片が挟まっている。見張りが目印を見失ったのだろう。紙の角は濡れている。墨は乾いている。――今日の紙ではない。昨日の紙だ。見張りは良くない。良くない見張りは、良くない罠を作る。良くない罠は、予想通り動く。予想通り動くものは、壊しやすい。


 沖田は格子の列を数え、太い一本の二つ隣の細い一本に、指の腹で触れた。固い。新しい。交換したのだ。目印の位置を少しだけずらした。誰かが、こちらのずらしを見て、ずらし返した。――面白い。音は音を呼び、ずらしはずらしを呼ぶ。読みは競技になる。勝敗は、一分、一寸のずれで決まる。


 胸の砂利は、少し小さくなっていた。雨が上がったせいかもしれない。夜風の冷たさが、熱の縁を刈り取っていく。息が通る。通る息は拍になる。拍は、明け方に向けて細くなる。細くなる拍を、細い線で拾う。


 「明け方に歩け」


 土方の言葉が、いまは骨になっている。骨で音を支えれば、咳は音にならない。音にしなければ、敵の耳には届かない。届けたいのは、味方の耳だけだ。


 東の道をもう一度確認し、北の蔵の前の水溜りに靴の返りの跡が新しくないことを確かめ、沖田は屯所へ戻った。夜明けまでの二刻、横になった。目は閉じても、耳は閉じない。雨の名残が瓦を叩く音が、遠くの笛に似ている。笛は雨になり、雨は拍になり、拍は呼吸になる。呼吸は音だ。音は武だ。


 明け方、空が白んだ。路地の端で水が跳ねる。人が起きる音、店が戸板を上げる音、茶の湯が湧く音。暮らしの音は、罠の音を薄める。薄まれば、逆に見える。濃かった夜の罠が、薄い朝の暮らしに浮かぶ。油の匂いは、朝には目立つ。菜種の甘さは、粥の湯気に混じっても消えない。そこに線を引く。線を引いたら、歩く。歩いた拍は、誰かの拍といつか重なる。重なった所で、扉が開く。


 扉の向こうが、罠でないことは、一度もなかった。罠でないときは、戦いではない。戦いは、いつも罠の中にある。罠を設計する者と、罠を解体する者が、同じ紙の上で線を引き合う。


 沖田は帯を締め直し、刀の鞘を軽く叩いた。骨の音が一つだけ返ってきた。音は、まだ味方だ。彼は雨上がりの石畳に足を置き、最初の拍を刻んだ。


 その拍は、池田屋の方へ――そして、そのさらに北へ伸びていった。次の仕掛けの、最初の一打として。

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