庭園の恋人

酒田青

前編

 この庭から出られないという愛しい女を、僕は連れ出そうとしている。女は、そんなことをしても無駄だ、じきに自分はあの庭に戻ると言うが、抵抗する様子はなかった。ただ諦めた様子だ。


 女は庭には自分が必要だと言った。自分も庭にいないと生きていけないと。そんなことはないだろう。庭の外にはいくらでも世界が広がっており、鬱蒼とした木が茂ったこの庭のアイリスの白よりも白い入道雲も、庭を彩る建物を飾るタイルの青よりも清々しい青い空もある。


 あと、小鳥が、と女は言った。小鳥がいなければ自分は生きていけないと。ああそうだった。いつも女につきまとう白黒の小さな小鳥。この小鳥は追い出してしまわなければならない。僕は乗用車の窓を開け、女の肩にちょこんと留まっていた小鳥をつまもうとする。抵抗する小鳥はばたばたと暴れるが、狭い車内だ。うっかり僕と女の間に落ち、そこをすかさず捕まえると、僕は窓から小鳥を放った。


 女が、あ、とつぶやいた。


 僕は車のアクセルをぐいっと踏み込むと、追いかけてくる小鳥を置き去りにした。いい気分だった。女は呆然とした様子で自らのひざを見つめる。


 しかしそれは既に始まっていた。隣にいた女は息が荒くなり、頭痛を訴え始めた。あたまがいたい。小鳥をかえして。女はそれを繰り返した。僕は構わずアクセルを踏んだ。しばらくして、女は尋常でない声で叫んだ。


 小鳥を、返して! 庭に、帰して! 私は、私はこのままだと死んでしまう!


 女の顔は血管が浮き、目は血走り、見開かれていて、白いデーモンのようだった。僕の肩を異常な力で握るので、僕は思わずブレーキを踏んだ。心臓が強く打っていた。女は、頭を抱えて絶叫し続けた。


 その間、僕はあの庭園にまつわるうわさを思い出していた。たどり着く前の村で、庭園に深く関わるなと言われた。親切そうな小母さんが、僕にこう言ったのだ。


「あの庭園は呪われているんだよ。あそこは未完成の人間しかいないんだ」


 僕は今、それをやっと理解し始めている。



          *



 僕は夏休みに自動車で一人旅をしている、ごく普通の大学生だ。ほうぼうを回り、車中泊をし、時には旅先で出会った人に泊めてもらったりする。きままな旅だ。観光地と化した古城や湖や田園地帯はのどかでいい。都市部に住む僕には、何もかもが珍しい。誰も彼もが親切だ。草原に寝ころんでいると、どうだいと酒を勧めてくれたり、へたくそな僕のスケッチを珍しげに眺め、心からの賛辞を贈ってくれる。


 ただ、退屈していた。旅を始めて三週間、そろそろ毎日の変わり映えのなさにうんざりし始めていた。


「学生さん、退屈してるんだろう」


 優しそうな丸顔の小母さんが僕に手作りのスコーンとブルーベリーのジャムののった皿を渡してくれた。僕はありがたくそれをいただき、その日のおやつにした。紅茶がほしいところだと思ったら小母さんはしっかりと用意してくれていた。彼女の家の軒下にある、手作りのテーブルに移ってお茶の時間にすることになった。


「この辺はどこも同じだからね。風景はきれいだけれど、都会から来た若い人は飽きてしまうだろうね」


 小母さんの子供である十二歳の少女は、僕を遠くから見てくすくす笑っている。紅い頬が生き生きとして、かわいらしい。


「何か面白い場所がありますか?」


 僕は彼女の言葉を否定したけれど、彼女が何かいいことを教えたがっていることに気づいてそう聞いた。彼女はじっと考えていたが、


「学生さん、ここから道をずっと行くと、面白い庭があるんだ。そこには家が二、三軒建っていて、研究施設をやってるんだよ。そこの人と仲良くなってごらん。勉強になると思うよ」


 面白そうだ。僕は学術的なことに飢えていたのかもしれない。早速行ってみようという気になった。


「ただし、そこの人の中でも、動物を連れた人と仲良くなってはいけないよ」

「どうして?」


 動物を連れた人、という言葉が異様な響きを持って聞こえた。


「あんまり大きな声では言えないけれど、呪いだよ」


 僕は目を見開いて驚く。この二十一世紀末に、呪いだって?


 彼女は言いにくそうに、庭園の呪いの話をし始めた。僕は気もそぞろに「動物を連れた人」について考えていた。正直言うと、僕は好奇心に駆られていた。


「というわけで、そこの責任者夫婦には話しかけていいけれど、それ以外の人のことは関わらないようにしなよ」

「わかりました」


 僕は微笑み、最後の紅茶を飲み干した。約束を守る気なんてなかった。そもそも、何も重要だとは思えなかった。僕は聞き流し、その庭園を目指した。




 庭園は丘の上にあり、坂道をホンダの青いシビックで登っていくとすぐだった。歩きだとあの村からは遠いだろうが、二十分もかければ着く。柵の前に車を停められそうな平らな場所があったので、停める。庭園は木の柵で囲まれていた。大工の仕事だろう、しっかりとした造りで簡単には壊れそうもないが、入り口は扉すらなかった。むしろ「ようこそ」とペンキで書かれた木札が下げられ、小さく「カザルス・コネクタイト研究所はこの道を真っ直ぐ」と書かれている。コネクタイトというのが研究している対象で、カザルスというのは研究者夫婦の名前だろうか? 道らしい道はあるが、獣道のような踏み固められただけの道だ。僕はゆっくりと歩き始めた。


 広い庭だ。青いいがぐりがたくさんついた栗の木に、立派なオーク、樫の木に、生垣ではない野放図なブナ。アジサイも大きな株に育ち、ポテンティラが木陰にぽつりぽつりとした鮮やかなオレンジ色の花を咲かせている。背の高いリトルム・ウィルガトゥムが穂のような形に赤く咲いているし、ヤグルマソウはカラフルに花弁の多い花を咲かせている。セージ、ラベンダー、ローズマリーのようなハーブもあり、香りがする。どこからか小鳥の声がする。小さな動物の気配も。あちらこちらに小鳥の家があり、ここは庭を、あえて鬱蒼とさせていると感じた。


 道を進んでいくと、建物が見えた。小さなタイル張りのコテージが二棟に、大きめの立派なカントリー・ハウスらしい家が見える。貴族の別宅のようなその家は、この鬱蒼とした庭によく似ている。壁はアイビーが伝い、建物の前にはリスや小鳥のための餌場や水を飲める小さなせせらぎと池があり、全く気取っていない。


 歩いていくと、まず出会ったのは小鳥だった。白と黒のスマートな体型の鳥で、おそらくはハクセキレイだ。餌場ではなく、道の途中にある木の枝で、芋虫を飲み下していた。やけに近い。人なれしているようだ。ちっちっ、と舌を鳴らして呼ぶと、素直に伸ばした手の甲に乗る。チュッ、チュイッと美しい声でさえずる。体の模様も寄木細工のようで美しい。僕は思わず微笑んだ。


「どこにいるの?」


 女の声が聞こえた。振り向くと、僕は女と目が合っていた。素朴なカーキ色のワンピースを着た、赤毛の女。おそらく僕と同い年の、二十歳前後だろう。女は恥ずかしそうに微笑んだ。それが何とも、かわいかった。


 小鳥が体重の移動を感じさせないほど軽やかに飛び、女の肩に乗った。チュイッと鳴いて、不在をわびたように聞こえた。女は「いいよ」と小鳥を許すかのような声で笑ったので、本当にそのような会話が成り立っていたのかもしれない。


「君はこの庭園の人? 庭園っていうか、森みたいな場所だけど」


 僕が訊くと、女は「そう」と答えた。頬骨が丸くなって、明るい笑顔になった。


「ここで音楽家として暮らしてるんだ。カザルス夫妻に用?」


 僕としては彼女の音楽家としての暮らしについて質問したいところだったが、やっと用を思い出したのでうなずいた。


「案内するよ。来て」


 僕は女について行った。アイロンをかけていないのか、長い赤毛の下にある、ワンピースを重ねた白いシャツはしわだらけだ。けれど逆に味になっていた。女の歩き方は十二歳の少女のような、跳ねるような喜びに満ちたものだった。


「君、名前は? 僕はチャールズ」

「私はダナエ」


 ダナエは、振り返りながらにっこりと笑った。




 博士夫妻は研究室から出てくると、白衣を脱いで僕に挨拶をした。


「お忙しいところすみません。下の村で博士たちの庭園に行ってはどうかと勧められたので」


 コンラッド・カザルスとアン・カザルスの夫妻は、温かい人たちだった。恰幅のいいコンラッドは無精ひげを生やして何となく庭師のようだし、やせ型のアンはぱっと見は真剣質そうだが、ちょっと抜けているところがあるようだ。今はうっかりつけっぱなしにしていた眼鏡型拡大鏡を慌てて外したところだ。


「君は大学生? 専門は?」


 コンラッドが訊くので、僕は渋々答える。


「経営学です。父の勧めで」

「将来は会社の経営を?」


 アンが訊く。


「そうです。父の会社は家族経営なんですよ。今時古いですよね」


 僕が答えると、


「そう? 私は家族経営は安定しやすい一つの経営の形だと思うけど」


 とアンが言った。そうだろうか? 確かにそうとも言えるかもしれない。コンラッドが口を挟む。


「私たちも家族というあり方を大事にしててね、今の研究もそれに根づいてる」

「コネクタイト、でしたっけ」

「そう。コネクタイト。興味ある?」


 アンが言うので、僕はうなずいた。本当はそうでもなく、今はダナエに興味津々だったが。


「connectとtightでコネクタイトなんだ。緊密に繋がる。動物や自然とね」


 コンラッドが僕をある部屋に連れて行ってくれた。そこは、広い植物園だった。小鳥が籠に入れられ、様々に鳴き交わしている。


「これらは皆繋がっている。植物と動物がね」


 意味がわからず、彼の顔を見た。コンラッドはひげもじゃの顔をくしゃくしゃにして微笑んだ。どうやら僕に謎を与えるのが楽しいらしい。


「DNAコンピュータのことは知っているかい? DNAの塩基配列を用いて情報を記憶させるというコンピュータ装置のことだよ。あれはまだ研究初期段階だからこのコネクタイトとは関係がないんだけれどね、少し似た部分がある。それは、生物の生体をコンピュータ化させるということだ。生物の細胞の中に、タンパク質でできた生体ナノマシンを入れる。それは生物の生体を改造するマシンでね、生物の一部を受信機や発信機を備えたコンピュータに作り替える機能があるんだ。ごらん、このランを。下にこぶがあるだろう。この部分が生物コンピュータになっていて、情報の受信・発信をしている」


 確かに、蘭の葉の下に大きなこぶがあり、妙に膨らんでいた。


「元々植物はそれぞれとの相性があり、この植物の横にはこの植物が生えない、この植物があるとこの植物はよく育つ、などの作用としてアレロパシーという言葉があるくらいだ。もちろんそれは動物にも作用する。動物にも植物や他の動物との相性がある。それを強化するのがこのコネクタイトなんだ。植物や他の動物との相性の力を増幅し、それぞれと繋がり、新しい動植物の世界を作る」

「それがあると環境問題が解決しますね。他の動植物の感覚がわかるなら、彼らに対する同情心も湧く」


 僕が言うと、コンラッドは面白そうに笑った。


「君は優しいんだね。私はそれよりも、新しい人間を作ってみたいよ。感覚だけでなく、知識を溜め込んだり、検索したりを金属のコンピュータなしでこなす、世界とコネクトされた人類をさ」


 さっと背中が寒くなった。僕の顔色を見て、コンラッドは手を振って笑った。


「冗談だよ。そんなことは少なくとも私が生きている間は実現不可能だ。私は素直に地道に動物と植物を繋げて、今のところは小さな環境でそれを確実に実現することに力を注いでいるよ。やってみたくはあるけどね」


 アンが微笑む。コンラッドの肩には、大きなリスが乗っている。




 三人で庭を見て回っていると、ダナエがハクセキレイと共にいて、木の椅子に座ってチェロを弾いているところだった。何とも美しい音色だった。心の底を波で洗われるような、くすぐられるような、息をするのがためらわれるような……。何の曲かはわからないが、知識のない僕を感動させるダナエは天才だと思った。彼女の表情は曲がイメージさせる明るく優しい調べを表している。なんて美しいんだろう。月並みな感想を抱いた。


「すごい! 君の音楽はいつも素晴らしい」


 コンラッドが言うと、ダナエは笑う。僕は先程よりもよりそれに惹きつけられる。今の演奏を聴く前と後では、彼女の魅力は全く違って感じる。素朴な女の子ではない。彼女は素晴らしい。


「彼女って才能があると思わない? チャールズ」


 アンが笑いながら聞いた。僕は大きくうなずく。


「今すぐコンサートを開いたって人が集まると思いますよ。例えばロンドンの小さな劇場から始めて……」


 さっと空気が凍った。何かおかしなことを言っただろうか? カザルス夫婦は口元を強張らせ、ダナエに至っては悲しそうに足元を見つめている。


「私、ここがいい。ここで静かにチェロを弾いていたい」

「でも、それじゃあ誰も君を知ったりしないよ」

「知られなくていい」


 僕は納得がいかず、カザルス夫妻をちらりと見た。アンは首を振り、コンラッドは首をすくめた。ダナエは疲れ切った表情で僕を見上げた。


「私、ここから出てはいけないんだ」


 そんな言い訳、納得できるか。僕は何故か悔しい思いでダナエを見つめた。この女性を、連れ出してみんなに存在を広めたい。そう思うくらい、彼女は魅力にあふれているように思った。


「もう夕暮れ。母屋に戻りましょう」


 アンが僕の考えを断ち切らせるように言った。僕はハッとして周りを見る。すっかり暗くなっている。こんなに夢中で過ごしたのは久しぶりだ。ダナエのせいだ。僕はダナエに恋をしてしまったのだ。


「チャールズ、泊まったらどう? 母屋にも離れにも部屋はあるけど」


 コンラッドが提案する。僕は一瞬考えてからうなずき、礼を言った。


「離れに泊めてもらいます。素敵なタイルの家ですよね」


 カザルス夫妻は微笑んだ。ダナエは目を丸くして僕をじっと見つめた。


 不意に、木々が笑っているような気がした。




 四人での夕食は、とても楽しかった。コンラッドが冗談を言い、アンがまぜっかえし、ダナエはひたすら笑っている。僕はそれを眺め、笑いを深めるコメントをいくつか発し、この面々とはすっかり仲良くなったような気がした。


 ただ、コンラッドはリスを、ダナエはハクセキレイを籠に入れて棚に置いていた。


「さて、私たちは部屋に戻るから、あなたたちも部屋でゆっくり過ごして。狐には気をつけてね、ダナエ」


 アンが言うと、僕とダナエはうなずいて食堂を辞した。


「狐には気をつけてって、どういうこと?」


 暗い道をライトで照らしながら歩きながら、僕はダナエに聞いた。彼女は笑った。


「この子を狐に狩らせるなという意味」


 意味がわからない。ダナエの指さす先にはハクセキレイの入った鳥籠があった。


「君のコテージに寄ってもいい? 話したいことがあってさ」


 僕が言うと、ダナエは少し考えてうなずいた。僕と彼女は彼女の青いタイルで壁を覆われたコテージに向かった。

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