漂流する町

彼辞(ひじ)

第1話 潮の背に浮かぶもの

 八月の朝、レース・ポイント・ビーチの沖は、観光客を乗せたホエールウォッチングの船でにぎわっていた。

 主人公の「私」もその一人だった。強い潮風に吹かれながら甲板に立つと、湿った海の匂いが鼻腔を刺す。船長がスピーカー越しに言う。「今日は鯨がよく出ていますよ。運が良ければ親子連れも見られるでしょう」


 船がゆっくり沖へ進むと、観光客たちが一斉に歓声を上げた。

 灰色の水面が盛り上がり、巨大な鯨の背が姿を見せたのだ。潮吹きが白い霧の弧を描き、陽光を浴びて虹のように輝く。歓声に混じり、私は息を呑む。だが、その背に刻まれた無数の擦り傷のような跡が気にかかった。よく見ると、それは人の顔に似た模様を形づくっていた。


 隣にいた中年の男性がカメラを構えたまま、小声でつぶやく。

「……誰か、こっちを見ていませんか」


 私も思わず目を凝らした。確かに、波間に浮かぶ模様は、笑っているようにも、叫んでいるようにも見える。鯨が海に身を沈めると、模様はすぐに水の下へ消えてしまった。


 船はその後も数度鯨を目撃し、予定通り港へと戻った。観光客たちは興奮気味に土産話を語り合い、甲板を降りていく。だが一人、姿を見せない客がいた。朝から隣の席に座っていた、あの中年の男性だった。


 船員が船内を探したが、彼の姿はどこにも見つからない。救命胴衣も、荷物もそのままだった。ただ、彼の席には濡れた瓶がひとつ残されていた。

 拾い上げると、ガラスの内側に薄く文字が滲んでいるのが見える。光にかざしてみると、それは確かにあの男性の名前だった。


 周囲の観光客たちは首をかしげるだけで、誰も彼の失踪を深く気に留めていないように見えた。

 私は瓶を握りしめたまま、背後の海を振り返る。

 水平線の彼方に、また灰色の背が浮かんだ。潮が高く吹き上がり、霧のような弧を描く。まるでこちらを振り返り、人数を数えているかのように。


 海風が強く吹き抜けた。瓶の表面に残る塩水が、指先を冷たく濡らした。

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