第41話 警笛

 あの日から一週間が過ぎようとしている。しかし初老人からも居酒屋『たぬき』の女主人である姉からも連絡はなかった。きっとレコードは見つからず、私との約束を果たす事が叶わないと思った初老人は気を使い、私との縁を切るべく決心をしたのだと思う。


 盲目の初老人は私の名を聞くことを一度もしないで『おひとよしさん』を貫いたのは、これ以上、目の見えぬ者のために自分の時間を裂くな、という思いがあったのだろう。


しかし初老人と約束した「来週の日曜日、午後三時、居酒屋たぬきで・・・」この言葉を私は守った。


 盲目の初老人を初めて見た駅である武蔵浦和駅まで独り電車で向かい『この駅で二週間前にハムサンド!と突飛なことを言われたのがきっかけになった』ことを思い出しながら改札を出て居酒屋『たぬき』の前に立った。


 赤い布の暖簾は掛かっておらず、古びれたガラスの引き戸の真ん中には張り紙がされていた。



 一身上の都合により、しばらくの間おやすみさせていただきます 居酒屋 たぬき 店主



 私は貼り紙を読んでも、ゆっくりガラス戸を左に滑らせてみた。鍵は掛かっておらず、ガラス戸をガラガラと音を立てて開けるとカウンターの黒い椅子には割烹着を着ていないお姉さんが座っていた。

 敷居を跨ぎ、一歩だけ足を店の中に踏み入れた時だった。お姉さんの座っているカウンター席のテーブル台の上には白い布で覆われた正方形の四角い箱とLPレコードが一枚、並べて置かれているのに気が付いた。


 「おひとよしさんだね、きっと来てくれるだろうって思っていた。良雄もね、おひとよしさんとの約束をちゃんと守ってレコードを持って帰ってきてくれたよ。ご自宅に持ち帰って聴いてあげてください」


 お姉さんはカウンターに座り込んだまま振り向く事なく私にそう言うと、頭を両の手で抱え込むようにして腰を丸め、うなだれていった。


 「私が行けばよかったんだ、私がレコードを取りに行っていれば良雄は死なずに今日、あなたに会えたのに、なんで私が行かなかったんだろう」


 お姉さんの声は震えていたが、その言葉ははっきりと聞き取れ、泣き声を混ぜながら後悔の言葉を続けた。


 「駅のホームを歩いていたの、でもね上り列車のホームではない下りのホームを歩いていたの。黄色い点字ブロックの内側を杖でなぞるようにしながら歩いていたはずなの、でもね逆だったの、上りと下りのホームを間違えちゃったから、杖がなぞっていたのは点字ブロックの外側だったの」


 盲目の初老人はエスカレーターを降り切ると点字ブロックに誘導されるがまま駅のホームを移動していた。点字ブロックの感触を杖先で確認できれば、そこから先は左右に杖を振らずに五十センチメートル前方を滑らせるようにしてなぞって進んでいく。たいがいの盲人は駅のホーム、階段、コンコースに埋め込まれている点字ブロックを確認できると前方だけに集中力が注がれる。



 ー ない、点字ブロックが途中で無くなっている。壊れて一部分が無くなっているのか、その先はどうなっているんだ ー


 ー ない、どこにも凹凸がない、僕はどこを歩いているんだ ー


 盲目の初老人は迷路に入ってしまった。右手に持った白杖を高く挙げてヘルプ・サインを迷わず掲げた。


 ー ない、誰からも声が掛けられない。人の少ない時間帯だからか、もしかしたら方向そのものを間違えているのか、だとしたらすべてが逆だ ー


 盲目の初老人、村尾良雄は白杖を左に大きく廻すようにしてアスファルトをなぞりながら身体の向きも左側に廻して方向を真逆に変えようとした。慎重を期すため体の向きを変えながらも、白杖の先で点字ブロックを探していたその瞬間、白杖の先がホーム自体を見失しなってしまい、点字ブロックはどの方向からも感触を伝えてはきてくれない。


 「貨物列車が通過します。危ないですので黄色い点字ブロックの内側までお下がりください」


 録音されている女性の声のアナウンスが命の危険を教えてくれていた。村尾良雄は再度、白杖を高く突き上げた。


 「だれか、私を誘導してください。どこに立っているのか判らなくなりました。だれか、だれかいませんか!」


 駅のホームの端にいた初老の人間が突然消えた。初老人は白杖とレコード盤の入ったビニル製の袋を持ったまま駅のホームから転落してしまった。その数秒後には貨物列車が通り過ぎていく線路の上に横向きに倒れ落ちた。


 初老人は右手を前方に出して這い上がろうとした。白杖は落ちた時に手から離れてしまい、どこにあるのかわからない。しかしレコードは、これだけは手の指をビニルの淵に絡ませてあり見失うことはなかった。


 右手の指先がコンクリートの壁に触れた。その壁に向かい大きく息を吹きかけてみた。吐き切った呼吸はまっすぐに初老人の顔に跳ね返ってきた。


 ー この壁の上方がホームなのか ー


 右手だけを上へ上へと指でなぞるように触っていくと淵があるのがわかる。人さし指と中指、くすり指の三本だけでホームの端を掴み、全体重をたった三本の指に任せて立ち上がろうと必死になった。


 ー 指が外れたら終わりだ ー


 「だれか、助けてください。ここにいます」


 盲目の初老人は左手に持ったままだったレコードをホームであろう平坦な場所まで肩を持ち上げて置くことに成功した。この時、両方の手が駅のホームの淵をかろうじて掴むことはできたのだが身体を這い上がらせることはできなかった。


 貨物列車は駅のホームに侵入する直前になって、転落しホームの端に両手の指だけを掛けて立ち上がろうとしている初老人に気が付き、何度も警笛を繰り返しながら急ブレーキを掛けた。


 鉄と鉄が擦れて、甲高いブレーキ音だけが響き渡り列車は急停車した。

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