第39話 大木の精霊
初老人はさらに声を大きくして私に幻想の世界を伝えてきたが、私の視界には自動ドアとその奥に隣接されている、このスクールに通う者たちのための駐車場が整然と広がっている風景だけしか見えていなかった。それでも初老人は見えぬ目を杖先に向けたまま私の右手に指を絡ませて力を込め握りしめてきた。
帰る決心、諦める時である事を私は握り返す手の力で伝えようとした。
「駐車場の端っこまででいい。僕を連れて行ってくれ。そこまで辿り着いてから未練を消して帰ることにしたい」
盲目の初老人の願いを私は受け入れた。
白いペンキで塗られたフェンスに囲まれて、スイミング・スクールの区画は平坦な正方形に仕切られている。フェンスの向こう側は初老人の言うとおり低地が広がっていた。左側には今登ってきた坂道があり、住宅が林立しているが右側になる低地には竹林が朽ちて堆積し、人が入っていけるような場所はどこにもなかった。不法投棄された家電の死骸も存在していて無法地帯となっていた。
「こっちだ、こっちから微かに酸っぱい樹液の匂いがする。間違いない、右だ、右に行けるか?」
初老人には匂うらしい樹液を垂らす巨木の方角に杖先の向きを変えたが、足を踏み入れるにはフェンスを越えなければならず、またその先は腐った竹が幾重にも倒れては重なり合っていて人を導く道はなかった。
「おひとよしさん、連れて行ってくれ。肩に手を回させてくれれば杖がなくても歩くことはできる。百メートルだけでいい。そこまで行って樹液の匂いが強くならなければ諦める」
長く仕切られた白いフェンスの途中にスタッフ・オンリーと表示された出入口をみつけた。ここを開ければ下に続く階段がコンクリートで作られている。施錠はされておらず段数は五つしかない。
初老人の危なげな足取りを一歩ずつ確認しながら降りきると、ミシミシと腐った竹の割れる音がする。その下で堆積しながら溶けて出来上がった汚泥が靴跡の淵から湧き出てきて足元を滑らせた。
「その先のほうに小高い山がある。ゆるやかな上り坂だ。坂の途中の左側に松の大木があったはずだ。どうだ、あるか?」
初老人の左腕の重さを首に感じながら、抱き抱えるようにして腐った竹木を踏みしめる。徐々にではあるが、坂を登っているように感じていた。根を横に這った竹も放置されたまま、天に向かってまっすぐに伸びていて日差しはすべて遮られている。この春に土を割って出てきた若竹も重なり合って視界を消してしまっているので歩を前に進めるには足元にも気を使い、竹林の枝も避けなければならず、さらには蜘蛛が幾重にも巣を張り巡らせている。
私は小枝をひとつ拾い、進もうとしている目の前に張られた蜘蛛の巣を枝に絡ませるようにして歩を進めていった。
夏の日差しを直接、受けることはなかったが初老人の額は汗で濡れていて、私の首に廻された腕や脇からも汗は雫として落ちていった。
歩いた、登り切ったという感覚ではなく、やっとの思いで進んでこられた。初老人と私の登ってきた左側には確かに赤茶けた肌をした松の大木があり、見廻すと焼けて炭化したまま真っ二つに裂かれた木が死んだまま立っている。きっと落雷の直撃を受けたのだろう。倒れることを受け入れなかった木の奥にボロボロに壊れた家屋があった。
「初老、あります。ものすごく大きいですが酷い朽ち方で建っています」
私の言葉に初老人は歩を止め、首から上だけを左に向けた。初老人の体重が私の左肩だけに掛かり過ぎてしまい、左足首は腐った竹の腐敗物に埋もれてしまった。
「そうか、松の大木は朽ちていたか、ならばクヌギの大木ももう死んでしまったか切り刻まれて薪にされてしまったかもしれない」
「いえ、違います。初老、朽ちて建っているのは初老が仰っていた農家だと思います。瓦も落ちて土壁も崩れています。竹で組まれた格子までもが腐っていて今にも建物そのものが崩れそうです」
色を茶に変えた竹の群衆が『ここから先には行かせない』と言わんばかりに農家であっただろう平屋建ての建物を守っているようだった。屋根瓦の大半は落ちて、周辺に砕かれて散っていたし、竹そのものが家屋の屋根を突き破っていて、まるで家主のように立ちはだかっていた。
「進めるか、農家の左側を通り抜ければクヌギの大木が立っていた場所だ。連れていってくれるか、おひとよしさん」
おそらく今、私と初老人が立っている場所が、かつてのキュウリ畑だったのだろう。幾重にも重なっている腐った竹の破片とそこを棲み処にしているダンゴムシや白蟻の群れに土色は隠されてしまっている。
「行けるところまで行ってみましょう。ここまできたのですから目的の場所まで一緒に目指してみましょう。でも、この場所からでさえクヌギの大木のてっぺんは見えませんから切り倒されていると思っていたほうがいいかもしれません」
いま、この現世に存在しない大木であっても私にしがみ付きながら、ここまで歩いてきた盲目の初老人の目にはきっと大木の聖霊は見えるはずだ。私はそう願い、初老人の脚を前へ進めていった。
倒壊しそうな古民家の端をふたりで抱き合うようにして歩き進み、裏手まで辿ると竹の残骸はすべて消え去り、腐葉土と化したクヌギの葉のやわらかく暖かい堆積物の感触だけが足先から伝わってきた。
その感触の伝わる先を目で追っていくと腐葉土を押し上げて太い根を土の中に隠しきれずに露出させたまま、何十メートル先までも地上を這うように根ざしたクヌギの大木が私と初老人を見下ろしていた。
クヌギの大木は人の手によって切り刻まれることなく生き抜き、初老人が再び逢いに来ることを、この地でずっと待っていた。
幹から別れ出た枝と葉のすべてによって陽の光線を遮ってしまう大木が生み出す陰の中に盲目の初老人は白杖さえも使わずひとり、クヌギの大木に近づいていき、樹の皮肌を指で撫でながら樹液が垂れている場所を探り当てた。
樹液を吸うことに夢中になり過ぎていたカブト虫は盲目の初老人の気配に気が付かず、容易く捕まえられてしまった。初老人が父親と一緒にカブト虫を放したクヌギの大木は五十年以上の時を消し去って、ただ黙って立ち続け夏の虫たちの命を繋ぎとめてきたのだろう。
「大きい雄のカブト虫だ。こんなに開拓が進んだ街にでもまだカブト虫は生き続けていたんだ」
私は初老人の元へ歩み寄り、手の内から逃れようと必死に脚を廻し続けているカブト虫を見た。カブト虫のツノは直角に近い角度で左側に曲がっていて、初老人の掌から抜け出し腕をよじ登り、弛んで幾重もの皺が重なっている肘のところで動きを止めた。
「おひとよしさん、ほんとうにツノが曲がっているのか。あの日、父さんと僕がこの森で放ったカブト虫の子孫なのか」
私が初老人の肘からカブト虫を剥がし取り、曲がり切ったツノのカドを初老人の左頬にあてがってみた。
「ほんとうだ、曲がっている。ほんとうに曲がっている。何十年もの間、僕の知らないところで命を受け継いでいたんだ。僕と父さんのカブト虫はあの日から今日までずっと生きていたんだ。あの夏の日から今日までずっとずっと僕が放した命を引き継いで生きていたんだ」
盲目の初老人はそれだけを言葉にするとカブト虫の真っ黒い背を撫でて触り、愛おしさを隠さずに両の掌で包み込むようにしたまま膝を崩し、しゃがみ込んで声を出しながら泣いた。
私が初老人の左腕に手を置くと盲目の眼(まなこ)は私を見つめるようにしながら立ち上がり大木の精霊を見上げていった。
「僕はあの日に戻ってきたんだ。父がこの森のどこかで僕を見つめてくれていたんだ。父さん、僕は勝ったんだよね、誰にも気付かれないところで僕は勝ったんだよね。ねぇ、そうだろう、父さん、僕は父さんと母さんの血を引き継いで今日まで生きてきたんだ。僕のことをずっと見守っていたんだね」
ツノが左に曲がったカブト虫は盲目の初老人の左肩まで登ると動きを止め、光の差さない濡れた瞳をじっと見つめ続けていた。
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