第37話 居酒屋『たぬき』の女主人

 盲目の初老人は決して鼻歌ではない曲を口ずさむというよりは、やや哀愁を帯びた声で私に聴かせるように歌い上げた。歌ったといっても四小節しかない短すぎる曲と詩である。

 

 「切なすぎる曲ですね、それに辛すぎる」


 夕方の五時を過ぎていたが、盲目の初老人とおひとよしさんというあだ名が付けられた私、あとは居酒屋『たぬき』の女主人だけしか店内にはおらず、暖簾をくぐって入ってくる客はまだひとりも現れていなかった。


 「あの時のコンサートの音源があるんだ。自主製作っていうらしいけれど、リハビリセンターが資金を出してLPレコードになっているんだ」


 グラスに残されていた冷酒はすでに雫を垂らしながらカウンターを濡らしていた。初老人の手も濡れていて、女主人が差し出した白いおしぼりを使って自分の手を拭い取ると濡れたカウンターまでも見えぬ目で拭き始めた。


 「もう一杯だけ冷酒を飲んだら今日は帰ろう」


 初老人は顔を天井に向けて今夜、最後の酒を注文した。私はこのあと盲目の初老人とご自宅まで同行する約束になっている。


 「長話をしてしまったね。僕の古い記憶を聞いてくれた君は正真正銘のおひとよしさんだよ」


 褒められているらしいが、私はこの盲目の初老人が育った三芳という街に行ってみたくなっていたし、レコードとして溝に残された『光の輪』という曲を聴いてみたくもなっていた。


 「初老人のお名前は村尾良雄さんというのですね。もし、ご迷惑でなければ私を五円池に連れて行っていただけませんか。来週末のお休みにでも時間を空けておきます」


 きっと初老人の記憶の中にある街の風景とは異なっているだろうが、ツノの曲がったカブト虫たちを放ったクヌギの木だけはまだ生き抜いているかもしれない。


  「おひとよしさん、五円池や雑木の山にもう一度行きたいのは僕の方だよ。四人家族が笑顔で暮らしていた街だからね。僕をあの街に連れて行ってくれるのかい」


 「はい、ぜひ来週の日曜日ではいかがでしょうか」


 「うん、ありがとう、では日曜日の午前十時に、ここで、たぬきの入り口前で待っているよ」


 私と初老人は再会を約束し、ちょっとした小旅行までもご一緒させていただくことにした。初老人は今夜、最後の酒を喉に通すと「お勘定を頼む」とカウンターの向こうにいる女主人に言った。


 「今日はおふたりの出会いを祝福しましょう、私の奢りでいいわよ」


 居酒屋『たぬき』の女主人は勘定を受け取ろうとはしなかった。そしてこう付け加えた。


 「良雄があの頃の話をするのを初めて聞いた。姉ちゃんも今日はなんだか嬉しい気分よ」


 「姉ちゃん、まだ三芳の雑木の山にカブト虫はいるだろうか、五円池は形を残しているだろうか」


 「さぁねぇ、姉ちゃんも数十年も帰っていないから、あの街がどう様変わりしているのか分からないけれど、サツマイモ畑は健在しているらしいよ。あの街から芋を取ったらな〜んにも残らない」


 居酒屋『たぬき』の女主人は盲目の初老人、村尾良雄の姉であり、婚約が解消されたのちは一度も結婚することなく弟のそばに寄り添って暮らしていた。


 「御姉弟なのですね、ご一緒にお暮らしになられていらっしゃるのですか」という私の問いに答えたのは女主人の方だった。


 「いえ、同居はしていないんですよ。一緒に暮らしてしまうと経済的な事情があってね。別々の居住地にしておかないといけないのよ」


 姉である女主人の言葉が意味するものは理解できる。世帯を別にしておかないと貰えるべきものが半減されてしまう。

 言葉にしなくてよい事は口にせず、私は初老人との約束どおり、ご自宅までお送りしていった。住まわれているのは公団だろう建物の一階であり、四段しかない階段の横には駐輪場があった。居住者のものなのだろう自転車が縦に整理されて並び置かれていた。


 「あがっていくかい?」とお誘いを受けたが今日、出会ったばかりの盲目の初老人宅にお邪魔する気にはなれなかったので「いえ、帰ります。来週の日曜日、お姉さまのお店の前でお会いしましょう」とだけ言って別れた。


 今来た道を引き返して、居酒屋『たぬき』の暖簾を横目で見やりながら通り過ぎ、武蔵浦和駅に着いたのは夜の七時を少し過ぎていた。

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