第5話 歴史の真実

 従来は、昔から、

「蘇我入鹿は、天皇家転覆を狙った大悪党だ」

 などと言われてきたが、実際には、

「暗殺者側の、嫉妬や妬み」

 というものによる、

「ただの政権クーデターだ」

 と言われるようになった。

 なんといっても、蘇我氏というのは、当時としては画期的な考えを持っていて、

「海外から伝来した仏教」

 というものを受け入れ、さらに、朝鮮半島との貿易も、

「3つある国と対等貿易」

 というものをしていた。

 ということで、

「貿易面での貢献は高いものだった」

 という評価が今では一般的である。

 結果としても、その通りで、

「その後は、大化の改新」

 というものが行われ、天皇中心の中央集権国家の建説を行っていたが、その対応は、結構、

「後手後手に回っていた」

 といってもいいだろう。

「特に、半島との貿易を、百済一辺倒にした」

 ということで、高句麗、新羅の連合軍が、百済に攻め込み、百済が滅亡の危機に立った時、当然、百済は日本に援軍を頼んできた。

 そこで、朝廷は、

「百済復興」

 というものを旗印に、援軍を半島に送ったが、結果は、大敗してしまい、

「高句麗新羅の連合軍が日本に攻めてくる」

 というウワサガ流れ、

「国防に集中しないといけない」

 ということになったのだ。

 実際に、

「筑紫の国に防衛線を築き、いつ攻めてくるか分からない軍に備えなければいけなかった」

 なんといっても、

「一度大敗している相手」

 ということで、しかも、その時は、

「こっちから攻め込んだ」

 というものだったのだ。

 本来なら助けてもらえる百済はすでになく、

「日本という国は、孤立無援だった」

 ということである。

 それが、結果として、

「大化の改新」

 というものが、なかなか進まないということになり、数十年が経っても、国防に費やす日々ということになったのだった。

 そういう意味でも、

「蘇我氏の政策」

 というものが、

「貿易面でも、宗教面でも、先に進んでいた」

 ということから、

「蘇我氏が滅んだことで、日本の歴史は100年さかのぼった」

 と言われているのであった。

 その後の、奈良時代から以降、大化の改新におけるクーデターの張本人としての、

「中臣鎌足の子孫」

 というのが、藤原姓というものを名乗り、

「奈良時代から平安時代を経て、その後、藤原摂関家」

 ということで、政治の中心が、武士に移ってからというのも、

「その権力は、公家の中で、ずっと最高位を保っていた」

 ということになるのであった。

 そんな大化の改新という時代が、古代の中で一番の大事件だったといってもいいし、

「分岐点」

 ということだったのだろう。

 そして、時代は、それから、500年くらいが経ってからのこと、律令制度というものが、大化の改新以降発展してきたのだが、それが、時代の変化とともに、

「武士のおこり」

 ということから、変革していくのであった。

 そもそも、律令制度として問題となったものが、

「荘園」

 という制度であった。

 農地というものは、本来であれば、開墾したものがもっていなければならないのだが、年貢の問題などから、

「寺院などがその領主となる」

 ということから、

「荘園」

 というものが発達していったといわれるが、

「その荘園を守るため」

 ということで、

「武力を持った者たち」

 によって、警護するという考えが生まれてきた。

 それが、

「武士」

 というもののおこりであったが、その土地をめぐって、武士や寺院が、朝廷に逆らうようになってきた。

 それを収めるために、

「武士を使う」

 ということになるのだが、

 それが、次第に、貴族の階級の中に武士が台頭してくることになり、いずれ巻き起こる、

「皇室における、対立」

 というものであったり、

「藤原氏内部や公家同士の内紛」

 などというものから、大きな戦が起こり、そこで、武士が台頭してくるようになるのだが、それが、

「伊勢平氏」

 というものであった。

「保元の乱」

「平治の乱」

 という二つの大きな戦を勝ち抜いた、

「平清盛」

 という人物が、

「武士でありながら、公家の中で、どんどん出世をしていく」

 ということで、

「栄華をほしいまま」

 にしてきたのであった。

「平家にあらずんば人にあらず」

 とまで

「言ったかどうかまでは定かではないが、それくらいの権勢を誇っていた」

 ということである。

 それこそ、平安時代に、その権力をほしいままにした藤原氏にとって代わったということと、さらに、それが。

「武士だった」

 ということで、

「新しい時代の幕開けだ」

 といってもいいだろう。

 平家に関しては、

「清盛暗殺」

ということではなかったが、

「清盛が死去してからというもの、完全に、平家一門は、一気に衰退していった」

 ということで、要するに、

「カリスマがいなくなれば、そこで終わり」

 ということになるだろう、

 それこそ、その後の江戸時代につながる間の、

「豊臣秀吉の時代」

 と同じだといってもいいだろう。

「圧倒的なカリスマ性」

 というものを持っていて、権力のすべてを掌握したかのような二人は、結構似ているところもあったかも知れない。

 だが、清盛とすれば、その後の、

「源氏による鎌倉幕府成立」

 というものから先の、

「封建制度」

 というものとは、若干違った考え方だったのだ。

 清盛の考え方は、

「蘇我氏に似ていた」

 といってもいい。

「平家の基本は、海上貿易」

 というものにあり、

 特に、

「福原の港を開拓して、そこで大陸の王朝である、宋という国と、海外貿易をしていた」

 ということで、

「目は海外に向いていた」

 ということである。

 蘇我氏が、

「対等外交によって、貿易の利益を得ていた」

 ということと同じで、源氏による武家政権という封建制度は、あくまでも、

「土地」

 というものを土台にしたものだったのだ。

 つまりは、封建制度というのは、

「領主に土地を与えてもらい、その土地を保障してもらう」

 という、

「ご恩」

 というものと、

「その代わり、領主が戦をする場合には、すぐに駆けつけて、兵として参加する」

 という、

「奉公」

 というもので結ばれているものとして、

「封建制度」

 というものがある。

 それが、いわゆる、

「中世」

 という時代の、

「武家政権」

 と呼ばれる時代をいうのであった。

 そんな時代において、平家の政権というのは、平安京にあって、公家の中に入っての、

「権力争い」

 というものに、

「戦を重ねて勝ち進む」

 ということから、権力を掌握していき、最後には、

「太政大臣にまで上り詰める」

 ということになった。

 しかし、清盛の考えは、あくまでも、

「階級」

 という問題よりも、その地位を堅固にするということから、

「天皇家との結びつき」

 というものが問題だったのだ。

 だから、

「天皇の后に、自分の血縁を結びつける」

 というやり方であり、当時の権力者である、

「後白河法皇」

 という人物と結びつくことによって、権力を掌握するということであった。

 後白河側としても、

「清盛を味方につける」

 ということで、

「武家の後ろ盾」

 を得ることで、得になる。

 しかも、

「平家と結びつくということは、宋との貿易で、資金力を手に入れることができる」

 ということから、かなりの利益と権力を保つことができるのだ。

 お互いに、利用しあうということが、結局、繁栄をもたらしたということになるだろう。

 しかし、

「後白河法皇」

 というのは、

「うまく使えば、権力をほしいままにできるが、へたをすると潰される」

 ということになりかねない。

 つまり、

「海千山千でなければ、相手にならない」

 といってもいいだろう。

「平清盛」

 であったり、

「源頼朝」

 というのは、

「後白河法皇をうまく使った」

 ということで、一世を風靡できたのであるが、それ以外の武将などは、すぐに、つぶれていったではないか。

 例えば、

「木曽義仲」

 などがそうであった。

「平家追悼」

 ということで、木曽から、破竹の勢いで勝ち上がってきたが、彼は、

「戦の上では天才」

 といってもいいかも知れないが、なんといっても、平安京においての、公家を相手であったりすれば、まったく歯が立たない状態だった。

 結局、

「田舎者」

 ということになり、最終的に、

「都を荒らす暴れん坊」

 ということで、見限られて、滅ぼされてしまった。

 そして、次に、

「後白河の餌食」

 ということになったのは、

「源義経」

 だった。

 彼は、頼朝軍として、平家追悼軍でやってきたが、そこで、木曽義仲に負けず劣らずの活躍で、最後は平家を滅ぼした。

 その功績で、

「検非違使」

 という官職を朝廷からもらったのだが、これが間違いだった。

 というのは、

「東国武士をまとめる」

 ということが、武家政権を保つということになると考えていたので、義経に対して、

「朝廷から官位をもらう時は、必ず頼朝を通し、決して、自分勝手にもらうことは許さない」

 ということであったが、義経は、

「後白河法皇が、いうのだから」

 ということで、

「兄も許してくれる」

 とでも思ったのか、安易に

「検非違使」

 の官職を受け取ってしまった。

 それが、頼朝の怒りを買い、

「鎌倉への凱旋」

 どころか、

「鎌倉に入る」

 ということすら許されず、結局京都に戻り、頼朝が暗殺隊を出してきたことで、

「兄との全面戦争」

 を決意した。

 しかし、相手は、幕府軍であり、こちらは、まさに、

「都落ち」

 という落ち武者同然、勝ち目があるわけもなく、逃亡生活の末に、最終的に、身を寄せた、奥州藤原氏に裏切られ、滅ぼされてしまった。

 それを期に、頼朝は、

「欧州征伐をなしとげて」

 最終的に、

「幕府政権」

 で全国を統一するということになったのだ。

 これが、鎌倉幕府の成立ということになるのだが、あくまでも、

「土地を中心とした封建制度」

 というものであった。

「もし、平家が滅びなければ」

 いや、

「清盛が死ぬ前に、平家の政権が、もっとかっちりとしたものであれば」

 と考えると、蘇我入鹿暗殺の時と同じで、

「清盛の死で、日本の歴史が100年さかのぼってしまった」

 と言われるであろう。

 この500年の間に、

「似たようなことが起こった」

 ということで、

「歴史は繰り返す」

 といってもいいのではないだろうか?

 日本の歴史において、

「二度あることは三度ある」

 といってもいいかも知れないということが起こったとすれば、それが、

「幕末における坂本龍馬の暗殺」

 というものであろう。

 しかし、これが、

「暗殺」

 ということの、三度目ということであれば、二度目というのは、

「本能寺の変」

 ではないだろうか?

 歴史における、

「三大ミステリー」

 といわれる暗殺は、この三つだといっても過言ではない。

「本能寺の変」

 というと、誰もが知っているものとして、

「戦国の風雲児」

 と言われた織田信長が、

「家臣である明智光秀に討たれた」

 という事件である。

 織田信長というのは、いろいろ言われている。

「うつけもの」

 ということで、

「おろか者」

 という仮面をかぶって世間を欺きながら、いろいろな改革であったり、戦の情報戦というような、

「近代的な改革」

 を行っている人物。

 さらには、

「楽市楽座」

 のような、

「自由商売」

 というものを行うことで、商業を活性化させ、国を富ませるということになるというものだった。

 要するに、今の時代から見れば、

「新しい時代への、先駆者」

 ということになるのであった。

 そんな信長を討ったのは、

「明智光秀だ」

 ということであるが、それはあくまでも、

「実行犯」

 ということで、本来の黒幕は他にいるといわれていた。

 なんといっても、

「暗殺される」

 ということは敵が多いということであり、それが、

「出る杭は打たれる」

 ということで、

「先駆者であればあるほど、そんな暗殺計画が多く出てくる」

 当然、

「黒幕説はある」

 というもので、実際に、

「幕末の竜馬暗殺」

 というものにも、

「犯人説というのがいくつもあった」

 ということである。

 信長の場合は、

「朝廷説」

 あるいは、

「室町幕府説」

 というもの、さらには、

「長曾我部元親説」

「羽柴秀吉説」

「徳川家康説」

 などと、かなりいろいろあった。

「政治的な遺恨」

 であったり、

「個人的な怨恨」

 さらには、

「下剋上の精神といってもいい、それこそ、クーデターだったり」

 ということで、

「説がいろいろある」

 ということで、特に信長の場合は、

「勘違いされる部分も多かった」

 ということから、

「出る杭が打たれた」

 といってもいいだろう。

 さすがに、

「群雄割拠の戦国時代」

 一人で、大きな体制に歯向かっていくというのは、なかなか難しく、秀吉が天下を取れたというのも、

「信長が敷いてくれたレールに乗り、反対勢力をことごとく潰していった」

 ということからの天下取りだったのだ。

 そういう意味で、

「天下取りにおいて、信長がいない」

 ということから、

「本能寺の変」

 における黒幕として、

「羽柴秀吉説」

 というのが沸き上がってきた理由も分かるというものだ。

 しかも、状況としては、

「秀吉説」

 というものを裏付けることが結構多かったりする。

「毛利に向かう早馬をmいとも簡単にとらえることができた」

 ということ、

「中国大返し」

 というものを、成功させた。

 ということ、

 そして何よりも、

「信長がいなくなって一番得をする人物」

 ということを考えた場合、

「タイミング的には一番得をするのは、やはり、羽柴秀吉ではないか?」

 と考えられるのである。

 さらに、

「信長の仇をうつ」

 ということまでが、

「秀吉にとっての、本能寺だ」

 と考えれば、

「光秀につくはずの、畿内の戦国武将が、ことごとく、光秀を見限った」

 というのも考えにくい。

 当然、信長を討った後のことは考えていたはずだからである。

 光秀が、

「中国地方に行くか?」

 あるいは、

「本能寺に向かうか?」

 ということは、

「進軍の途中で決定した」

 ということになっているようだが、それなら、本能寺の変の後の作戦があまりにもスムーズだったことを考えれば合点がいかないといってもいいだろう。

「長男の襲撃」

 ということであったり、

「堺で物見遊山をしていた家康」

 を襲撃したり、あるいは、

「別動隊で、安土城に火をかけたり」

 と、いきなり作戦を決めたというわりにはしっかりしているわけである。

 それなのに、

「自分についてくれるはずの兵が、誰も味方しなかった」

 というのは、

「光秀にしてはあまりにも無様ではないか?」

 といえるだろう。

 これに関しては、ひょっとすると、

「謀反を起こせばこちらにつく」

 という密約があったのを、

「あとから、秀吉が見限らせたのかも知れない」

 と思えば、理屈が成り立つというものである。

 それを思えば、やはり、

「羽柴秀吉黒幕説」

 というものが一番強いといってもいいだろう。

 もちろん、いまだに、

「歴史上の最大のミステリー」

 といってもいい本能寺の変という事件である、

 その謎は、誰にも分かるものではないだろう。

 それを考えると、こちらにも、

「時代が100年さかのぼった」

 といえるかも知れない。

 そういう意味で、

「これが三度目の正直だ」

 といってもいいかも知れない。

「蘇我入鹿」

「平清盛」

「織田信長」

 それぞれに共通点があるかも知れない。

 だが、彼らが目指した権力というものは微妙に違い、

「戦う相手も違った」

 ということで、それを、

「時代の違い」

 ということで片付けてしまうと、これが、

「時代は繰り返している」

 という発想から遠ざかってしまうといえるのではないだろうか?

 そういう意味で、

「歴史というものを考える時、時系列をしっかり勉強する必要がある」

 ということで、それも、

「時代はさかのぼるものではなく、過去から未来に続くものだ」

 と考えるだろう。

 しかし、これらの事件を、逆にさかのぼると考えた時、

「それまで見ることのできなかった別の世界が見えるかも知れない」

 と感じるのだ。

 しかも、この三つの歴史というのは、

「続いているようで、実は続いていない」

 それが、

「ターニングポイント」

 というものとなるのだが、それを感じるためには、

「一度、過去から未来を一直線に歴史を勉強し、このそれぞれの時代で、必要部分だけを切り抜いてみる」

 ということで、出てきた答えが、

「それぞれに、関連性がないように見えるが、実際には、大いにつながっているという部分が見えてくる」

 ということになるのではないだろうか?

 それが、

「歴史は繰り返す」

 ということの原点ではないだろうか?


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