第2話 オオカミ少年

 もちろん、

「嘘をつくということが、正しいことではない」

 ということは当たり前のことだ。

 しかし、

「ウソをつく」

 ということで、助かる人がいて、それが、正しいことだということになるというのも、一つの真実である。

 しかし、

「ウソをつくのが正しいことではない」

 ということになると、実際に嘘をつく人がいると考えると、

「正しいことではない」

 ということを分かっていて、あえて嘘をつくという行為をしていることになる。

 それでも、得をするという人が付く嘘には、信憑性があるが、得をするわけでもないのに、それでも、

「ウソをつく」

 ということだってあるのだ。

 つまりは、

「ウソをつくということが、世の中のためになる」

 ということもあるわけで、これを、一種の、

「必要悪だ」

 といってもいいだろう。

 そして、もう一つ言えることは、

「ウソをつくということで、それを真に受ける人がいる」

 ということである。

 いくら嘘が悪いことといっても、それを真に受ける人がいるから、悲劇が起こるわけで、悲劇が起こらないのであれば、嘘をつくということが、

「悪いことだ」

 ということになるわけはないのだ。

 これは、

「イソップ寓話」

 というものの中に入っている話の中にある、

「オオカミ少年」

 という話を思い起こさせるもので、少年が、

「オオカミが来た」

 といって、

「世間が騒ぐのを面白がって、何度も嘘をつくようになった」

 だが、そのうちに、さすがに村人たちは、オオカミ少年の言葉を、誰も信じないことになったのだ。

 それはそうだろう。

 さすがに、何度も騙されていると、誰が信じるというのか?

 ということで、

「オオカミが来た」

 と言われても、誰も逃げなくなり、その少年を、

「ほら吹き」

 ということで、誰も信用しなくなったということである。

 そのうちに、

「本当のオオカミが現れて、村人は食われてしまった」

 という話であるが、そもそも、

「イソップ寓話」

 というのは、戒めを込めた話が多いと言われているので

「この話には、どのような戒めが含まれているのか?」

 ということを考えると、

「かなり深いところが考えられる」

 というものであった。

 というのは、まず、オオカミ少年が、

「オオカミが来た」

 ということを、村人がうのみにして、全面的に信用したことで、オオカミ少年に、

「一杯食わされた」

 ということになる。

 この時点で考えれば、

「オオカミ少年が、大人をからかうといういたずら小僧ということで、悪者ということになる」

 ということであり、逆に村人に対しては、

「騙されているということを疑わずに、信じたために騙された」

 ということであり、

「正直者」

 ということになるだろう。

 しかし、オオカミ少年は、どんどん図に乗り、子供ということで、どんどんいたずらっが過ぎていった。

 村人の方は、さすがに騙されたことに気づいて、

「あいつのいうことは信じない」

 ということになったというのも、無理もないだろう。

 だから、オオカミ少年が、

「オオカミが来た」

 といっても、今度は誰も信用しなくなったということになる。

 ここまでであれば、

「よくある話」

 ということで、これだけでも教訓になるということだ。

 しかし、この話はここでは終わらなかった。

 オオカミ少年が、相変わらず嘘をついていたので、村人は、オオカミ少年のいうことを全面的に信用しないと考えた。

 だから、

「オオカミが来た」

 ということが本当に起こった時、誰も信用しないのだから、食われてしまうのは、当然だという、悲惨な結果になった。

「じゃあ、教訓というのは何か?」

 ということになるが、最後だけを見ると、

「どんなに嘘をつかれても、本当のことなのかも知れない」

 ということを考えると、

「何があっても、油断してはいけない」

 というのが教えだと考えれば、理屈にはあっている。

 確かに、」

「そのことを強調して訴えたい」

 ということであれば、この話には信憑性があり、理屈の通った話である。

 しかし、道徳的に考えれば、

「オオカミ少年のいうことを、信じようとした大人たち」

 というものを、

「バカなことだ」

 という一刀両断で、

「食われても仕方がない」

 と言い切れるだろうか?

 特に、最後の結論として、

「オオカミ少年のいっていたことを最後まで信じていれば、よかっただけだ」

 ということになるのだろうが、実際に彼らが食われたのは、

「何が正しいのか悪かったのか?」

 ということではなく、

「油断大敵」

 ということだけが結論だということのために、

「子供のいうことの信憑性は関係ない」

 と言いたかったのではないだろうか?

 一つのおとぎ話には、

「必ず何かの教訓が含まれている」

 ということであるが、そもそも、

「その教訓がどこにあるのか?」

 ということを、考えさせるのも、

「おとぎ話」

 というものだ。

 そう考えると、

「物語というのは、教訓めいたものが、ところどころに散らば目られている」

 ということから、

「一つの文節それぞれが、教訓といえるのではないか?」

 とも考えられる。

 特におとぎ話などは、

「教訓が含まれているものだ」

 ということを分かっているので、最初から、

「おとぎ話を、教訓ありき」

 ということで読んでくると、

「どこに、教訓が含まれているか分からない」

 と思えてくるのだ。

 なぜなら、

「その文章のすべてに、今日軍が含まれている」

 と感じないわけにはいかないからであった。

「木を隠すには森の中」

 という言葉があるが、それと同じで、

「一つの嘘を隠そうとすると、本当のことの中に紛れ込ませるのがいい」

 ということで、逆も真なり、つまりは、

「一つの正しいことを隠そうとする場合、嘘の中に隠すのが一番」

 ということになる。

 それこそ、

「砂の中に、砂鉄を隠すようなものだ」

 ということになる。

 しかし、これだって、

「磁石を使えば、簡単に見つけることができる」

 というもので、問題は、

「探そうとしているものが、磁石を使うことで、すぐに判別できる」

 という

「金属製のものだ」

 ということであろう。

 その考え方でいけば、

「オオカミ少年の話」

 というのも、

「木を隠すには森の中」

 という発想が含まれていて、

「教訓がどこにあるのか?」

 ということを考えさせるということが、一番の肝という話だったのかも知れないと思えば、

「ウソをつく」

 ということの本当の意味がどこにあるのか?

 ということを理解できるかも知れないといえるだろう。

「ウソというものは、すべてにおいての悪である」

 というのも、考え方としては間違っていないだろう。

 嘘をつくことで、真実が分からなくなるということであるが、

「そもそも、真実が正しい」

 といえるのかということも問題である。

「知らぬが仏」

 という言葉があるが、

「確かに世の中には、知らない方がいい」

 ということがたくさんある。

 つまりは、

「本当の中に嘘が含まれていて、嘘の中に本当のことが隠されている」

 すべてが、本当であったり、嘘であったりすれば、

「それが本当に、すべてにおいて、正なのか悪なのか?」

 ということが分からなくなる。

 つまりは、

「世の中の正悪というものを見る目が養えない」

 ということだ。

「真実は一つ」

 という言葉をよく言われるが、本当にそうなのだろうか?

 真実というのは、確かに、

「事実を積み重ねたものだ」

 とはいえるが、

「真実というものは、正しいのか間違っているのか?」

 ということは分からない。

 そもそも、

「正悪」

 というのは、

「何に対して、正しいか悪だとか言えるのだろうか?」

「正や悪」

 というものは、その人それぞれに存在するもので、

「自分が正しい」

 と思うことは確かにその人にとっては正義だ」

 ということになるかも知れないが、他の人にとっては、

「悪になる」

 ということかも知れない。

 それこそ、その問題に直面した人が、10人いて、正悪を考えると、立場的に、

「6人が正しいといい、4人が悪だ」

 と言えば、

「多数決の原則」

 というものから、

「正」

 だということになる。

 つまり、

「正に対しての反対のことを言えば、それが嘘だということになり、その環境においては、

「正悪」

 さらに、

「ウソか誠か」

 ということは決まってくるということである。

 そもそも、

「真に受ける人がいるから、嘘が成立するのであり、世の中には、表裏というものがある以上、必ずどちらかが、正しいことだというのであれば、もう片方は、嘘だということになる」

 その理屈を無意識にであるが分かっているということから、

「ウソというものは、必ず存在するものである」

 だから、

「ウソをついてはいけない」

 ということは、逆にいえば、

「ウソか誠かということをちゃんと理解できている必要がある」

 ということで、

「ウソだと言い切るには、嘘か本当かを見分ける力が必要だ」

 ということだ。

 ただ、その状況によって、嘘と真実がコロコロ変わってしまえば、

「社会の倫理」

 というものは保たれない。

 それが治安であったり、モラルであったりというものである。

 だから、

「世の中には、法律というものがあり、その法律をもとに、正悪というものがきめられ、

「公共の福祉、善良な風俗」

 ということで、民主主義であれば、

「多数決」

 というものから

「正悪が決まる」

 という理屈になるのであった。

 だから、裁判などにおいて、

「ウソをつくと、偽証罪」

 というものになるが、しかし、

「何も言わなければ、それは黙秘」

 ということで、権利として認められているという。

「ウソ」

 というものが、本当のことに化けてしまったり、逆に、

「本当のこと」

 と言われることでも、時と場合で、悪いことにされてしまう。

 それが、裁判においての忖度のようなものであり、時と場合によっては、

「正悪」

 というよりも、

「助かるべき人を助ける」

 ということが正しいとされることもある。

 ただ、それも、

「その助けるべき人」

 というのが正しい解釈なのか?

 ということになると、その考えは、

「見つけることができるのだろうか?」

 つまりは、

「交わることのない平行線」

 ということになるのかも知れない。

「ウソか誠か?」

 それとも、

「正悪」

 というもののどちらが、善悪なのか?

 を考えると、結局は分からなくなるのだ。

 それが、結局は、

「オオカミ少年」

 という話の本質なのではないか?

 と考えると、

「はっきりと分からないところが結局は多い」

 ということになるだろう。

 そもそも、曖昧な話というものが多い、

「おとぎ話」

 というものであるが、

「世界各国に散らばっている」

 というおとぎ話であるが、地域も時代も違うのに、なぜか、

「似たような話」

 が多いというのは面白いものだ。

「どんなに人種が違っても、同じ人間の考えること、教訓であったり、何位が正しいのか?」

 ということは、最初から決まっているといってもいいのではないだろうか?

 特に、

「見てはいけない」

「開けてはいけない」

 と言われる、

「見るなのタブー」

 と言われていることが、世界各国にあるというのはそれだけ、

「皆考えることは一緒だ」

 ということで片付けていいのだろうか、

 そもそも、

「元から、日本に伝わっていた話」

 というものではなく、おとぎ話というのは、

「世界から、大航海時代に伝わってきたものを、いかにも昔からあったもの」

 ということで、

「歴史を勝手に作り替えたものなのかも知れない」

 とも考えられる。

 それこそが、

「世界的な大きな嘘」

 といってもいいのではないだろうか?

 世の中において、

「ウソ」

 というものが、

「真に受ける」

 ということから、

「限りのないもの」

 ということになると考えると、やはりどうしても許されないということになるのだろうが、だからといって、それを悪いこととして、解釈できないところもあるだろう。

 世の中には、

「ちょっとした振動が、どんなに遠く離れたところであっても、その影響が大きなものになる」

 という考えがある。

 これは、その時間制にも無限性があるということから、どれほどの力が与えられるか、まだまだ調査の余地があるということであろう。

 それを、

「ウソをついた時の効果」

 というものと並行して考えると、どのような効果を示すかと考えられる。

 それを、

「バタフライアフェクト」

 といい、

「バタフライ効果」

 とも呼ばれる。

それらの言葉が、まるで、

「都市伝説」

 であるかのように呼ばれることで、

「今までの歴史の中で、いかに影響してきているかということを研究するところがあるという」

 これらの研究は、

「今現在の現実というものが、過去の歴史によってつぐまれたものだ」

 ということであるが、

「ひょっとすると、その影響が、どこから紡いでいるものかということを考えると、そこに、バタフライエフェクトが影響している」

 という考え方と、その逆に、

「バタフライエフェクトというものの存在を、今の現実が示していると考えられ、その歴史の真実が、エフェクトを作っている」

 という考え方もありである。

 だから、ある研究において、

「ウソと誠」

 というものの研究。

 さらには、

「バタフライエフェクト」

 というものを、いかに結びつけるか?

 という研究をしているという。

 そのために、その研究所では、

「歴史の研究」

 というものと並行して、

「バタフライエフェクト」

 のよる効果とを結びつけて考えようとしていた。

 そのために、

「タイムマシンの研究もおこなわれていて、ただそれは、

「過去や未来にいく」

 という単純なものではなく、

「過去に行って、歴史を変えることが、タイムパラドックスに結びつくという考えから、歴史が変わらないタイムマシンの研究というものも、一緒に研究されていた」

 だから、その

「歴史を変えない」

 ということを、逆の発想から、

「バタフライエフェクトを利用できないか?」

 ということが考えられるということであった。

「タイムパラドックス」

 というものは、

「過去に行って、過去を変えてしまうと、未来が変わってしまう」

 ということであり、

「へたをすれば、過去を変えたことで、自分が生まれなくなるかも知れない」

 という発想を導くことになるのであって、

「生まれてくることのない自分が、歴史を変えることはできない」

 ということを、

「時間軸の矛盾」

 ということで、実際に、

「何が正しいのか?」

 ということが証明できないということだ。

「生まれてこないと、歴史を変えられない」

 ということ、

「歴史を変えられないのだから、自分が生まれてくる」

 という二つの矛盾したことは、

「過去を変えてしまった」

 ということで、

「一つであるはずの真実」

 というものの可能性を、

「二つにしてしまった」

 ということであり、

「可能性が複数できてしまうと、その可能性の数だけの、パラドックスが生まれる」

 ということになるのであろうか?

「矛盾」

 ということでよく言われることとして、

「タマゴが先か、ニワトリが先か?」

 ということわざであったり、

「ヘビをしっぽから飲み込んでいく時、最後にどうなってしまうのか?」

 ということなど、

「解釈ができない矛盾」

 というのは、もっとたくさん潜んでいるに違いない。

 なぜなら、

「矛盾というのは、可能性の数だけ潜んでいる」

 ということになるのだ。

 それが、

「無限に広がるのが可能性だ」

 と考えると、

「矛盾も無限に広がっている」

 ということである。

 しかも、

「無限という曖昧な言葉ではあるが、可能性と矛盾とは、まったく数を同じくする無限というものである」

 といえるのではないだろうか?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る