第2話 チュートリアル②

静寂という名の薄い膜が、アリーナ全体を包みこんでいた。

2000席の観客席はすべて空。人の体温さえ残っていない無機質な空間に、一定のリズムでバスケットボールが床を叩く音だけが響いている。


タン…トン…タン…トン…


その音は、まるで時間そのものが呼吸しているかのように規則正しく、しかしどこか不可思議な緊張感を纏っていた。


新設されたばかりのスタジアム。開閉式の屋根の向こうには、硝子越しに澄み切った紺碧の空がのぞいており、まるで天上界から光だけを降ろしているかのようだ。その光は、コート中央に立つ一人の女の肩を照らし、柔らかい陰影を描いていた。


3ポイントライン上。そこに、まるでファッション誌の表紙を飾るモデルのような美貌の女――弍估(にこ)が静かに立っている。

ゴールに背を向け、腰を落とし、微動だにせず、ただ淡々とボールをついていた。


まるで心臓の鼓動のように、彼女のドリブルは一定で、揺るぎがない。そのリズムが乱れることは一度としてなかった。


ここはチーム『small iron of gold』に与えられた本拠地。

オーナーである小鉄がBasketball World Championshipに参加するため、運営から支給された初期型のスタジアムである。チームはまだ発足して間もなく、練習日とあって観客は誰もいない。外野は無音。聞こえるのはボールが床に触れる乾いた音だけ。


そんな中で――


PG(ポイントガード)の座を賭けた『1on1』が、今まさに始まったばかりだった。


挑む者の名は水川連。

高校時代、世代最強と呼ばれ、代表の常連であった男である。

身長191cm、18歳。オールラウンダーでありながら、自らを「フィジカルモンスター」と称する男。鍛え抜かれた身体は、同年代のライバルを粉砕してきた自負を持つ。


そして対するのが――

身長186cm、19歳。無表情にして超絶可愛い容姿を持つ、①番のビブスを付けている弍估。

その筋力は「真のフィジカルモンスター」と呼ばれ、見た目とのギャップは常識を遥かに凌駕していた。


コートの外には、同じく英霊として召喚された男たちが四人、興味深そうに、あるいは退屈そうにその戦いを見つめている。


試合はすでに始まっていた。


水川連からのディフェンスである。

弍估は、ゴールに背を向けたまま、その肩口にわずかな静けさだけを纏っている。彼女の背中は大きくはない。しかし、小さな背中に宿る“なにか”が、空間を支配していた。


水川連は、そんな彼女を見ながら内心で鼻を鳴らす。


――所詮は女だ。


そう思っていた。

いや、疑う余地もなかった。

自分は高校時代、全てをパワーでねじ伏せてきた。

スピードスターと恐れられたライバルも、アメリカから来た将来NBA入りが確実とされた怪物も、最後には力比べで膝を折った。


その経験が、彼の心に確固たる“慢心”を植え付けていた。


だからこそ――

目の前の可愛いだけの女など、同じように押し込めばいいと考えていたのであった。

無防備に背中を見せながら、ただ一定のリズムでボールをつき続けており、特別にフェイクを織り交ぜてくるようには見えない。


「いける」「圧倒できる」「完封できる」


そう感じてしまっていた。


≪ここはフィジカル差を活かし、女の動きを封じこめてやるぜ!≫


判断するより先に、体が自然と動いていた。

後から振り返ると軽い気持ちだったのだろう。

水川連はあまり考えることなくその間合いを一歩、詰めていた。


伸ばした手が、弍估の肩に触れる。

その瞬間――


――――――!


電流のような衝撃が、水川連の全身を駆け抜けた。


≪なんだこれは。この女、地面に根でも生えているのか……!?≫

≪まるで……電柱みたいじゃねぇか!≫


肩を掴んだはずなのに、微動だにしない。

ほんの少しも揺れない。

それどころか、今触れた自分の手の方が砕けそうな錯覚すら覚える。


「馬鹿な…!」


本気で声が出そうになった。


水川連は過去の対戦相手を思い出す。

日本のトップ選手たち。

海外遠征で戦った他国の猛者たち。

その中でも、一際異質だったアメリカの“次世代の怪物”。

体の芯から圧迫されるようなフィジカルを持ち、ぶつかっただけで肺の空気が飛びそうになった相手だ。


だが――

弍估の“重さ”は、それらとは比較にならない。

重いのではない。

“動かない”のだ。


本来、人間ならどんなに強靭であっても、押されればたわむ。

力を加えれば負荷に合わせて姿勢が変わる。

しかし弍估にはそれがない。


そこにあるのは、絶対に揺るがない“構造物”のような存在。


≪この女――動かねぇ……!≫

≪次元が違い過ぎる……訳がわからねぇ!≫


額から汗がにじむ。

心臓がひとつ鼓動を打つたび、背筋を焦燥が駆け上がる。


その時だった。


背中をみせている弍估が、ジワリと体を寄せてきた。


半歩くらいだっただろう。

それだけ。


だが、肩を掴んでいた水川連の体は――押された。


抵抗などできない。

力ではない。

質量そのものが違う。

弍估が背中からわずかに体を寄せてきただけで、水川連の重心はあっけなく後ろへ崩れ落ちていく。


≪ヤバい……膝が……崩れる!≫


高校時代、鬼軍曹と呼ばれた監督に叩き込まれた教えがある。

「チャージには腰を落とせ。重心を下げろ。絶対に上体を浮かすな」

その言葉を反射で思い出し、水川連は瞬時に腰を沈めた。


両足を開き、地面を噛むように踏ん張る。


――しかし。


それでも膝は折れた。

尻もちをつく形で、コートに無様に落とされる。


≪信じられん! この俺が……フィジカルで歯が立たねぇだと!?≫


息が荒くなる。

胸が熱い。

手足が痺れている。


目の前には――

ボールをつきながら背中より体を寄せてきただけの女。


弍估は、そんな水川連を見下ろし、まばたきもせず無表情のまま、淡々とドリブルを続けていた。その無関心さが、水川連にとっては何よりの屈辱だった。


「蚊トンボでも払った程度かよ……」


自嘲が喉で溶ける。


コート外のk-twoが小さく肩を竦める。

彼にはこうなる結果が最初から見えていたのだろう。

水川連へ歩み寄り、手を差し出す。


「よう。兄弟。大丈夫かい?」


声は軽いが、どこか優しさを含んでいる。

水川連は反射的にその手を取ると、ぐいっと引き上げられた。

立ち上がった瞬間、自分の膝がまだ震えているのに気づく。


弍估はというと、勝負が終わったことを理解しているのかいないのか。

背を向けたまま3ポイントラインの外から…


ノーモーション。

ジャンプすらしないまま――シュートを撃ち放った。


あまりにも早い。

まるで脳がその動きを認識する前に放たれたかのような超絶クイック。

当然に水川連ごときが反応すらできない速さである。


ボールは高すぎる放物線を描きながら――

美しい孤を描いて落ちていく。


その軌道は、経験のある者なら誰でも悟る。

「ああ、入るな」と。


コートに、乾いたネット音が響いた。


パサッ。


その音が、水川連の胸に深く刺さる。

“力”と“自信”を砕く音だった。

水川連の中で、完全に停止していた思考回路が、ゆっくりと、しかし確実に再始動し始めていた。頭の奥で固まっていた“理解不能”の塊が、じわりと溶けて流れ出していく。

俺はいったい何を見たんだ。なぜ倒れているのだ。――そんな根本的な問いすら浮かんでくるほど、彼の精神は揺らいでいた。


令和の時代から突如として召喚され、訳も分からぬまま超人たちの中に放り込まれた高校生は、体を起こしてくれた③番のビブスの男に向かい、ようやく言葉を探し当てた。


だが――口から出たのは『1on1』に関する質問ではなかった。

k-twoが放った「兄弟」という謎のワード。

その一点に、彼の思考が強く引っ張られてしまっていたのである。


胸の奥でざわついていた疑問が、ついに声になる。


「k-two。俺達が兄弟って、どういうことだ?」


弍估に完全敗北したことが本能的に理解出来なかったのだろう。

そう。彼は無理にバスケから離れたことを思考しようとしていたのである。

k-twoは大げさに肩をすくめ、口角を上げた。


「おいおいおい。その言葉に食いついてきたのかよ。…まーいいだろう。教えてやるよ。俺も弍估と『1on1』で敗北するまでは、フィジカルモンスターと名乗っていたということだ」


「お前。一体、何の話をしているんだ?」


どういうことだ?

あの女に負けた?

そんな馬鹿な、という思いが湧き上がる。しかし、それ以上に“共通点”という言葉が頭の中で膨らんでいく。


k-twoは、静かに、しかし誇らしげに言った。


「つまりだ。俺も連と同じように弍估の被害者なんだ…」


“被害者”。

その単語が、胸の奥で奇妙に反響する。

自分が今抱いている屈辱感、敗北感、それに近い感情を彼らも味わったというのか?


「そうか。k-twoは俺と被害者つながりの兄弟だと言っているのか…」


「俺と連だけじゃない。ここにいる男達は全員、弍估の被害者だからな!」


「え。全員、あの女にフィジカルで負けたというのか!」


信じられなかった。

ここにいるのは、明らかに強靭な肉体を持つバスケット選手たちばかりだ。

それが、あの華奢にも見える女に? 本当に?

疑問ばかりが雪崩のように押し寄せてくる。


k-twoは断言した。


「そうだ。ボロ負けだ」


その背後には、相当の実力者であろう三人のバスケット選手が立っている。

降参ポーズを取る者、腕を組んで首を振る者、ただ呆然としている者――彼らの表情には、確かに“敗北を認めた者の影”が宿っていた。


特に、ひときわ巨大な男。

220cmはあるだろうか。まるでマンモスのような体格。骨格の厚みも筋肉の密度も、常識の範囲を逸脱している。

そんな男が――負けた?

あの弍估に?


連の思考はまたも停止する。

理解が追いつかず、脳が固まるような感覚。

そんな彼の顔を見て、k-twoがぽんぽんと慰めるように声をかけた。


「そう。落ち込むな。弍估はスーパーサイヤ人だからな!」


「スーパーサイヤ人だと?」


言葉を聞いた瞬間、脳が反射的に拒絶する。

いや、待て。なぜスーパーサイヤ人が現実に?

ここは何の世界だ?


「そうだ。俺達の時代に『ドラゴンボールは実話ではないか』という都市伝説があったことは知っているだろ?」


「k-two。ちょっと待て。さすがにその都市伝説は無理がありすぎるだろ!」


しかしk-twoは真顔だ。


「火のないところに煙はたたない。カメハメ波を撃つことは出来ないにしても、そのモデルとなる戦闘民族は本当に存在していたんだ!」


その真剣さが逆に恐ろしい。

もしかして……いや、そんなはずはない。

連の思考は常識と非常識の境目で揺れ続ける。


「作者の鳥山明先生は未来からやってきた転移者だったという噂くらいなら、さすがに聞いたことがあるだろ?」


「いや。話のハードルは全然下がってないぞ!」


ツッコミながら、心の中では別の問いが渦巻く。

――本当に? 本当にそんなことがあるのか?

自分の常識は、ここでは通用しないのか?


そんな動揺を見透かすように、k-twoは妙に優しい声で続ける。


「連。安心しろ。漫画の世界ではサイヤ人にも弱点がある!」


「弱点だと。俺の記憶が正しければ、サイヤ人には尻尾が生えていたはず!」


「よく知っているじゃないか。そうだ。弍估の弱点はその尻尾だ!」


尻尾?

あの女に尻尾なんてあったか?

いや、そもそも見た覚えがない。

では隠しているのか?

どこに? どうやって?

疑問がまた増える。


そんなやり取りの最中。


ふと連は異変に気づいた。


いや、違う。

“異変”というより“異様”と言うべきだろう。


あの弍估が――


両手を真上に突き上げ

空を見上げて

まるで宇宙と交信するかのように

動かずに立っていたのだ。


まるで別世界の住人のような、その静謐で神秘的な姿。

これまで全く表情を変えず、感情の読めない無表情の仮面のようだった彼女が、突然そんな意味不明なポーズを取り出すとは。


k-twoも恐怖と不安に包まれたのだろう。

慎重に、しかし怯えを隠しきれない声で問いかける。


「弍估。どうしたんだ。何故、両手を上げて、空を見上げているんだ?」


空気が一瞬で張り詰めた。

鼓動がやけに大きく響く。

誰もが固唾を飲んで見守っている。


そして――令和の高校生、水川連だけが気づいてしまった。


そう。

彼は理解したのだ。

弍估が今しているポーズの意味を。

なぜだ?

どうしてそんなことが分かったのか?

自分でも説明できない直感が、彼の口を動かした。


「k-two。弍估は、『元気玉』を集めているんじゃないのか?」


「元気玉だと?」


連は確信をもって答える。


「周囲のあらゆる生物や太陽、大気などから微量な力を集めて、それを攻撃に変えて放つエネルギー弾のことだ!」


途端にk-twoの顔色が変わる。


「おいおいおい。それって、スーパーサイヤ人が、あの魔人ブウを倒したという必殺技のことかよ?」


弍估はゆっくりと、実に満足そうに口角を吊り上げた。

それは、初めて見る彼女の“感情”だった。


――美しい、と思った。

――怖い、と思った。


なぜそんな相反する感情が同時に湧くのか?

分からない。

だが確かに、心が揺れた。


激可愛いドヤ顔――

この世界では、それすら破壊力を伴うらしい。


目が合った瞬間、連は確かに聞こえた気がした。


≪お前、なかなか分かっているじゃないか≫


そんな心の声を――。

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