最終話:新たな均衡

 1951年6月21日 午前10時

 ジュネーブ、国際連盟本部跡


 レマン湖から吹く朝の風が、古い建物の壁を優しく撫でていた。1920年に建設された、戦争開始以降機能不全に陥っていた国際連盟の本部。かつて世界平和への希望を託され、そして失敗に終わった国際協調の象徴。その建物が今、人類の新たな挑戦の舞台となっていた。


 大会議場は、厳粛な空気に包まれていた。円形のテーブルには、四つの核保有国の代表が着席している。アメリカ、ソビエト連邦、ドイツ、日本。つい数ヶ月前まで、互いに核の照準を向け合っていた国々が、同じテーブルを囲んでいる。


 メアリー・オッペンハイマーは、アメリカ代表団の席に座っていた。黒いスーツに身を包んだ彼女の顔は、疲労の色を隠せなかったが、その瞳には静かな決意が宿っていた。5ヶ月間の激しい交渉、技術的な詰めの作業、そして各国の疑心暗鬼との戦い。すべてが、この瞬間に集約されようとしていた。


 彼女の隣には、ヴェルナー・ハイゼンベルクが座っていた。ドイツ代表団の科学顧問として参加した彼は、この5ヶ月間、メアリーと共に核兵器の国際管理システムの技術的詳細を詰める作業に没頭していた。かつて敵国の科学者同士だった二人は、今や人類の未来のために協力し合う同志となっていた。


 会議場の壁には、巨大なステンドグラスがはめ込まれていた。朝日を受けて、赤、青、緑、黄色の光が床に複雑な模様を描いている。その光の中に、平和への希望と、過去の失敗への警告が同時に宿っているように見えた。


「本日、我々は歴史的な一歩を踏み出します」


 議長を務めるスイス大統領、エドゥアルド・フォン・シュタイガーが立ち上がった。68歳の老政治家の声は、年齢を感じさせない力強さを持っていた。


「核兵器国際管理条約。これは、人類が自らの生存をかけて選択した道です」


 条約文書が、各国代表の前に置かれた。全50条からなる詳細な取り決め。すべての核兵器を国際機関の管理下に置き、どの国も単独では使用できないようにする画期的な内容だった。


 メアリーは、条文を改めて読み返した。第1条から第50条まで、一字一句が5ヶ月間の苦闘の結晶だった。


 【第1条:目的】


「本条約は、核兵器による人類絶滅の危機を回避し、恒久的な平和を確立することを目的とする」


 【第5条:国際核管理機構の設立】


「すべての核兵器は、新設される国際核管理機構(INMA)の直接管理下に置かれる」


 【第12条:使用の条件】


「核兵器の使用は、4カ国すべての同意がなければ不可能とする」


 【第23条:査察制度】


「各国は、無条件で国際査察団を受け入れる義務を負う」


 【第35条:違反への制裁】


「条約違反国は、自動的に他の3カ国からの核報復を受ける」


「ドイツ代表」


 議長が呼びかけた。ハインリヒ・ヒムラーは体調不良のため欠席し、代理として外務大臣のヨアヒム・フォン・リッベントロップが出席していた。


 リッベントロップは立ち上がり、ペンを手に取った。その手は、微かに震えていた。千年帝国の夢を、事実上放棄する署名。しかし、他に選択肢はなかった。


 彼がサインする様子を、ハイゼンベルクは複雑な表情で見つめていた。祖国ドイツが核の優位を失うことへの寂しさと、人類が破滅から救われることへの安堵が、彼の心でせめぎ合っていた。


「日本国代表」


 梅津美治郎首相が立ち上がった。69歳の老将軍は、杖をついて署名台に向かった。彼の顔には、深い疲労と、そして奇妙な解放感が浮かんでいた。


 署名の前に、梅津は一瞬目を閉じた。脳裏に、昭和天皇の言葉が蘇る。


『朕は安堵している。これで、日本は真の平和国家として再出発できる』


 天皇は、核使用に深い憂慮を示していた。そして、梅津は思い出していた。仁科芳雄の未亡人、静子のことを。


(あの勇敢な女性も、きっと喜んでいるだろう)


 静子は、1949年7月の靖国神社での抗議の後、憲兵に連行された。しかし、国際世論の圧力と、何より昭和天皇の特別な配慮により、半年後に釈放されていた。天皇は、彼女の勇気を「真の愛国心」と評し、密かに保護を命じていたのだ。今日、彼女も日本から駆けつけ、会場の別室で条約調印を見守っているはずだった。


 梅津は深く息を吸い、署名した。筆が紙に触れる音が、静寂の中で響いた。かつて関東軍参謀総長として満州を支配し、大東亜共栄圏の夢を追った男が、今、その夢の終焉を認める署名をしていた。


「ソビエト連邦代表」


 ヴャチェスラフ・モロトフが立ち上がった。スターリンの側近として知られる彼の顔は、いつものように無表情だった。しかし、その目の奥には、計算高い光が宿っていた。


(これで、ドイツの脅威から解放される。たとえ我々の核を手放しても、相手も同じだ)


 モロトフは素早く署名した。実利主義者の彼にとって、これは感情的な決断ではなく、純粋に戦略的な選択だった。


「アメリカ合衆国代表」


 メアリーが立ち上がった。会議場の全員の視線が、彼女に集中した。この若い女性科学者こそが、世界を変えた張本人だった。


 メアリーは、胸ポケットから兄の写真を取り出し、そっとテーブルの上に置いた。セピア色に変色した写真の中で、ロバート・オッペンハイマーが優しく微笑んでいる。


「署名の前に、一言申し上げたい」


 メアリーの声は、会議場に静かに響いた。


「私の兄、ロバート・オッペンハイマーは、1942年に事故で亡くなりました。もし彼が生きていたら、間違いなく原子爆弾を完成させていたでしょう。そして恐らく、その使用も」


 会場がざわめいた。


「しかし同時に、兄なら必ずその制御方法も見出したはずです。彼は常に言っていました。『科学者の責任は、発見することだけでなく、その発見を人類の幸福のために使う道を示すことだ』と」


 彼女は、ペンを手に取った。


「今日、我々は兄が見出したであろう答えに、ようやく辿り着きました。遅すぎたかもしれません。多くの犠牲を払いました。ロンドン、ニューヨーク、パリ、沖縄......失われた命は戻りません。しかし、これ以上の犠牲を防ぐことはできます」


 彼女の声が震えた。


「そして、ここにもう一人、記憶すべき人がいます。マハトマ・ガンディー」


 会場が静まり返った。


「彼は今年の1月15日、断食の末に亡くなりました。最後まで非暴力を貫き、核の恐怖に対しても、魂の力で抵抗し続けました。彼の死は、暴力では何も解決しないことを、世界に示しました」


 メアリーは、震える手で署名した。


「これは終わりではありません。始まりです。核のない世界への、長い道のりの第一歩です」


 署名が完了すると、議長が宣言した。


「これをもって、核兵器国際管理条約は成立しました」


 拍手が起こった。最初は遠慮がちだったが、次第に大きくなり、やがて会議場全体を包み込んだ。それは、安堵と希望と、そして生き残ったことへの感謝の拍手だった。


 ハイゼンベルクがメアリーに近づいてきた。


「オッペンハイマー博士」


 彼は静かに言った。その声には、深い敬意が込められていた。


「あなたの兄に会いたかった。彼なら、もっと早くこの結論に達していたでしょう。多くの犠牲を払わずに」


 メアリーは、微笑みながら首を振った。


「いいえ」彼女の声は優しかった。「兄がいたら、世界は違う道を歩んでいたかもしれません。もっと良い道か、もっと悪い道か、それは誰にも分かりません。でも」


 彼女は、窓の外を見た。レマン湖が、夏の陽光を受けてきらきらと輝いている。


「遅くても、間に合いました。人類は、自らを滅ぼす一歩手前で踏みとどまることができました。それが、兄の不在が教えてくれた最大の教訓かもしれません」


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 午後3時

 ジュネーブ、プレス・センター


 条約調印のニュースは、即座に世界中に配信された。ロンドンの廃墟では、生存者たちが涙を流しながらラジオに耳を傾けていた。東京では、人々が皇居前広場に集まり、万歳を叫んでいた。ベルリンでは、学生たちが「核なき世界」のプラカードを掲げて行進していた。


 しかし、誰もが理解していた。これは完璧な解決ではないことを。


 占領地の解放、戦争責任の追及、放射能汚染の除去、被爆者への補償......解決すべき問題は山積みだった。不信と憎悪は、簡単には消えない。傷跡は、何世代にもわたって残るだろう。


 それでも、人類は絶滅の淵から、かろうじて踏みとどまった。それだけでも、奇跡と呼ぶべきことだった。


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 1951年10月15日 午前11時

 ニューメキシコ州、ロスアラモス近郊


 砂漠は、秋の柔らかな陽光に包まれていた。10月のニューメキシコは、一年で最も美しい季節だ。サボテンの花が咲き、砂漠も生命の息吹を感じさせる。


 オッペンハイマーの墓の周りに、人々が集まっていた。それは、かつてない光景だった。


 ヴェルナー・ハイゼンベルク、エンリコ・フェルミ、エドワード・テラー、そして世界中から集まった科学者たち。仁科芳雄の未亡人・静子も、遠く日本から駆けつけていた。静子は、あの連行事件の後、国際的な注目を集め、今や平和運動の象徴的存在となっていた。かつて敵味方に分かれて核開発を競った者たちが、今、一人の科学者の墓前に集っている。


 メアリーは、新しく彫られた碑文を見つめていた。


『J・ロバート・オッペンハイマー 1904-1942


 我は世界の破壊者とならざりし者


 その不在により、世界に警鐘を鳴らした者』


「今日は、兄の命日です」


 メアリーが静かに語り始めた。


「9年前の今日、兄は交通事故で亡くなりました。それは偶然の事故でした。しかし、その偶然が、世界の運命を変えました」


 ハイゼンベルクが前に進み出た。彼の手には、白い菊の花束があった。


「我々は過ちを犯した」


 彼の声は、深い後悔に満ちていた。


「科学を、破壊の道具にしてしまった。原子の火は、人類を温めるためではなく、焼き尽くすために使われた。私もその一人だった」


 彼は、墓石の前に花を供えた。


「しかし、オッペンハイマー博士。あなたの不在が、我々に考える機会を与えてくれた。もしあなたが原爆を完成させていたら、それは『必要悪』として正当化されていたかもしれない。しかし、あなたがいなかったからこそ、我々は自分たちの行いの恐ろしさを、身をもって知ることになった」


 フェルミが続いた。老いた物理学者の声は、震えていた。


「ロバート、君は生きていれば原爆を作っただろう。それは確実だ。君の頭脳なら、我々の誰よりも早く、効率的に」


 彼は、空を見上げた。雲一つない青空が、どこまでも続いている。


「しかし同時に、君ならそれを制御する知恵も生み出したはずだ。君は常に、科学の両面性を理解していた。創造と破壊、希望と絶望、光と闇」


 仁科静子が、静かに前に出た。黒い着物に身を包んだ彼女の姿は、砂漠の風景の中で異質でありながら、不思議な調和を見せていた。


「私の夫も、最期は後悔していました」


 彼女の声は、日本語訛りの英語だったが、その思いは確かに伝わった。


「『科学は人を幸せにするはずだった』と。でも、その後悔が、今日の平和につながったのです。犠牲は無駄ではなかった。そう信じたい」


 彼女は振り返り、メアリーを見た。


「あなたの勇気に感謝します。私は夫を偽りの英雄にしたくなくて、真実を語って連行されることを覚悟しました。が、天皇陛下が『真の愛国心とは真実を語ることだ』と仰って、私を保護してくださいました。そして、あなたの放送が世界を変えた。オッペンハイマーの名は、破壊ではなく、救済の象徴となりました」


 彼女は、持参した線香に火をつけた。紫煙が、砂漠の風に乗って空に昇っていく。東洋と西洋、かつての敵と味方、すべてを超えた追悼の煙だった。


 エドワード・テラーが、重い口を開いた。


「私は、水爆の設計を始めていた」


 告白のような言葉に、全員が彼を見つめた。


「メアリーがあの放送をしなければ、完成させていただろう。そして世界は、本当に終わっていたかもしれない」


 彼は、メアリーを見た。


「君の勇気に感謝する。そして、ロバートにも。彼の不在が、君に勇気を与えた。それが世界を救った」


 最後に、メアリーが墓石に手を置いた。花崗岩は、秋の陽光を受けて温かかった。


「ロバート、見ていますか」


 彼女の声は、風に乗って砂漠に響いた。


「世界は変わりました。完璧ではありません。傷跡は深く、不信は残っています。でも、人類は学びました。核の恐怖を知り、それを制御する道を選びました」


 彼女は、新しい報告書を墓前に置いた。それは、国際核管理機構の第一回報告書だった。


「すべての核兵器が、国際管理下に置かれました。今すぐには不可能でも、我々は地球上から核兵器を完全になくしたい。これはそのための最初の一歩です」


 風が吹いた。それは秋の冷たい風ではなく、春の訪れを告げるような暖かい風だった。まるで、ロバートが微笑んでいるかのように。


「あなたが恐れていた破滅は、避けられました」


 メアリーは、涙を拭いながら続けた。


「皮肉なことに、あなたの不在が生んだ悲劇でした。でも、その悲劇から、人類は学んだのです。科学は諸刃の剣だということを。そして、その剣を鞘に収める勇気が必要だということを」


 集まった科学者たちは、それぞれの思いを胸に、黙祷を捧げた。


 かつて世界を破滅の淵に追いやった者たち。今、平和の守護者となろうとしている者たち。その転換点に、一人の科学者の不在があった。


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 同日午後

 メアリーの家


 追悼式の後、メアリーは自宅に仲間たちを招いた。質素な家だったが、温かい雰囲気に包まれていた。


 壁には、兄との写真が飾られている。子供時代、大学時代、そして最後の写真。すべての写真で、ロバートは優しく微笑んでいた。


「これからどうする?」


 ハイゼンベルクが、コーヒーを飲みながら尋ねた。


「原子力の平和利用を進めます」


 メアリーは答えた。


「兄が本当に望んでいたのは、それだったはずです。エネルギー問題の解決、医療への応用、宇宙開発...原子の力は、正しく使えば人類を幸福にできます」


「国際原子力機関の設立か」フェルミが頷いた。「いいアイデアだ」


「でも、今度は慎重に」テラーが付け加えた。「二度と、同じ過ちは繰り返さない」


 窓の外では、夕日が砂漠を金色に染めていた。それは、長い悪夢の終わりと、新たな夜明けの始まりを告げる光のようだった。


「ロバートも、きっと喜んでいるよ」


 フェルミが、写真を見つめながら言った。


「彼の夢は、形を変えて実現した。原爆ではなく、平和という形で」


 メアリーは、兄の写真を手に取った。


「ありがとう、ロバート」


 彼女は、写真に語りかけた。


「あなたがいなかったからこそ、世界は目覚めることができた。あなたの不在は、最大の遺産となりました」


 夕暮れの光の中で、写真の中のロバートは、いつもと変わらない優しい笑顔を浮かべていた。


 それは、すべてを許し、すべてを理解する、慈愛に満ちた笑顔だった。


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 エピローグ 2001年10月15日

 ニューメキシコ州、オッペンハイマー記念館


 それから50年後。


 オッペンハイマーの墓の隣に、巨大な記念館が建っていた。「核廃絶と平和の殿堂」と名付けられたその建物には、世界中から年間100万人が訪れる。


 展示室には、あの時代の記録が保存されている。ロンドンの廃墟、沖縄の慰霊碑、そしてメアリーの放送の録音。


 最も印象的な展示は、最後の部屋にあった。


 そこには、たった一枚の写真と、短い文章があるだけだった。写真は、若き日のロバート・オッペンハイマー。そして文章。


『彼は原爆を作らなかった。


 だからこそ、世界は救われた。


 時に、不在は存在以上に雄弁である』


 記念館を訪れる人々は、この謎めいた言葉の前で立ち止まり、深く考え込む。一人の科学者の偶然の死が、どのようにして世界を変えたのか。歴史の「if(イフ)」は、永遠の問いかけとして、人類に教訓を与え続けている。


 窓の外では、ニューメキシコの砂漠が、50年前と変わらない姿で広がっていた。ただ一つ違うのは、もはやそこに核実験場はないということだった。砂漠は、再び生命の場所となっていた。


 それこそが、ロバート・オッペンハイマーへの、最大の追悼だったのかもしれない。


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 後世の歴史家たちは、20世紀を「恥辱の世紀」と記録した。人類が愚かにも、自らの手で地球全体を絶滅の淵まで追い込んだ世紀として。


 しかし、一部の歴史家は、それを「希望の世紀」とも呼んだ。絶滅の淵に立たされながらも、最後の一歩で踏みとどまる勇気を持った人々がいたから。その勇気が、21世紀への扉を開いたのだと。


 メアリー・オッペンハイマーの勇気、名もなき放送技師たちの決断、仁科静子の真実を語る勇気、そして一人の科学者の不在が残した教訓。


 それらすべてが、人類に与えられた最後の機会だったのかもしれない。


 世界はいびつな均衡の上に成り立っている――。





【完】

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