第5話:臨界前夜

 1943年3月15日 午前2時

 ベルリン、カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所、地下実験施設


 深夜のベルリンは、静寂に包まれていた。


 時折、遠くで防空サイレンの試験音が響くが、まだ連合軍の本格的な空襲は始まっていない。しかし、誰もが知っていた。やがて、この街にも爆弾の雨が降ることを。


 地下30メートルの実験施設では、歴史的な瞬間が訪れようとしていた。


 深夜2時。ヴェルナー・ハイゼンベルクは一人、実験炉の前に立っていた。黒鉛ブロックが整然と積み上げられ、その中心にウラン球が配置されている。天井まで届くその構造物は、まるで現代の祭壇のようだった。2年前には不可能だった純度の黒鉛。若手化学研究員カール・フリッツの執念が実現させた、ホウ素含有量2ppm以下という驚異的な純度。


「いよいよですね、教授」


 カール・フリッツが制御室から声をかけた。彼の精製した黒鉛が、この瞬間を可能にした。若い研究員の顔には、興奮と緊張が入り混じっていた。


「フリッツ君」ハイゼンベルクは振り返らずに言った。「我々は今、パンドラの箱を開けようとしている。その自覚はあるか?」


「はい」フリッツは真剣な表情で頷いた。「でも、開けなければアメリカが先に開けるでしょう」


「そうだな」ハイゼンベルクは制御棒に手をかけた。冷たい金属の感触が、掌に伝わってくる。「では、始めよう。人類の新たな時代を」


 制御棒がゆっくりと引き抜かれていく。1センチ、2センチ、3センチ......機械的な音が、地下室に響く。


 ガイガーカウンターの音が次第に激しくなる。


 カチッ、カチッ、カチカチカチ......。


「中性子束、上昇中。臨界まであと少し」


 フリッツが計器の数値を読み上げる。その声は、抑えきれない興奮で震えていた。


 ハイゼンベルクの額に汗が滲む。もし制御に失敗すれば、ベルリンの中心部で核爆発が起きる。それは理論上の可能性に過ぎないが、完全には否定できない。未知の領域に踏み込むということは、そういうことだ。


 制御棒が半分まで引き抜かれた。検出器の計数率が急激に上昇し始める。


「増倍率0.98......0.99......」フリッツの声が上ずる。「実効増倍率k、もうすぐ1.0です!」


 針が振れる計器、上昇する温度計、激しく鳴る放射線検出器。すべてが、歴史的瞬間の到来を告げていた。


「臨界点、到達!」


 フリッツの叫び声が響いた。実効増倍率kが1.0を超えた。自己持続する連鎖反応が始まったのだ。炉心の温度が徐々に上昇し始め、熱電対が反応を示す。中性子検出器の計数は、もはや個別のパルスではなく、連続的な轟音となっていた。


「美しい」フリッツが計器の数値を見つめながら呟いた。「完璧な指数関数的増加です」


「そして恐ろしい」ハイゼンベルクが付け加えた。「我々は成功した。だが、これは始まりに過ぎない」


 二人は、激しく振れる計器の針を見つめていた。原子核の中に閉じ込められていた巨大なエネルギーが、今、人類の制御下に入った。少なくとも、理論上は。


 ハイゼンベルクは震える手で実験ノートを開き、ペンを取った。


『1943年3月15日、午前2時23分。ドイツ帝国、世界で初めて制御された核分裂連鎖反応の維持に成功。神よ、我々をお許しください』


 彼はペンを置き、上昇を続ける温度計を見つめた。この熱が、やがて世界を焼き尽くす業火となるのだろうか。


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 同時刻、シカゴ

 スタッグ・フィールド、西スタンド地下


 大西洋の向こう、シカゴでは春の雪が街を白く染めていた。


 エンリコ・フェルミは、まだ組み立て途中の実験炉を見つめていた。CP-1と名付けられたその装置は、依然として沈黙を保っている。黒鉛の純度が足りない。制御機構も不完全だ。何より、チームがバラバラだった。


「どうした、エンリコ」


 助手のハーバート・アンダーソンが心配そうに尋ねた。深夜にもかかわらず、フェルミは実験室を離れようとしない。


「嫌な予感がする」フェルミは首を振った。「まるで、どこかで我々を嘲笑う声が聞こえるようだ」


 それは科学者の直感だったのか、それとも単なる疲労による幻聴だったのか。フェルミ自身にも分からなかった。


「少し休んだ方がいい」アンダーソンは提案した。「明日、新しい黒鉛が届きます。それまで休養を」


「そうだな」フェルミは疲れた笑みを浮かべた。「君の言う通りだ」


 だが、実験室を出ようとした時、フェルミは振り返った。薄暗い地下室に鎮座する、未完成の原子炉。それはまるで、彼を嘲笑っているかのように見えた。


 窓の外では、春の雪がシカゴの街を白く染めていた。静かで、平和な光景。フェルミには分からなかった。大西洋の向こうで、すでに原子の火が灯されたことを。そして、その火が世界を焼き尽くす業火となることを。


「エンリコ」アンダーソンが声をかけた。「本当に大丈夫か?」


「ああ」フェルミは頷いた。「ただ、時々思うんだ。我々は正しい道を歩んでいるのか、と」


「それは哲学者の仕事だ」アンダーソンは苦笑した。「我々は科学者だ。真理を追求するのが仕事だろう?」


「真理か」フェルミは呟いた。「真理が、必ずしも人類を幸福にするとは限らない」


 二人は黙って階段を上った。外に出ると、冷たい風が顔を打った。雪は止みかけていたが、空はまだ厚い雲に覆われている。


「明日は晴れるといいな」アンダーソンが言った。


「そうだな」フェルミは空を見上げた。「晴れるといい」


 だが、彼らの前途に待っているのは、晴天ではなく、嵐だった。


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 3月15日 午前10時

 ベルリン、帝国首相官邸


 アルベルト・シュペーア軍需相は、興奮を押し殺しながら総統執務室の扉をノックした。


「入れ」


 ヒトラーは地図に向かっていた。東部戦線の状況は悪化の一途を辿っている。スターリングラードの第6軍は2月に降伏し、ドイツ軍は後退を続けていた。総統の顔には、深い疲労の色が浮かんでいる。


「総統、重要な報告があります」


「手短に頼む」ヒトラーは疲れた声で言った。「東部戦線の立て直しで忙しい」


「ヴォータン計画が、決定的な成功を収めました」


 ヒトラーがゆっくりと顔を上げた。その目に、一瞬、生気が戻る。


「説明しろ」


「今朝未明、ハイゼンベルク教授のチームが、世界初の原子炉臨界に成功しました。これで、原子爆弾への道が開けました」


 ヒトラーの顔が変わった。疲労が消え、瞳孔が開き、頬に赤みが差す。まるで、新しい薬を投与されたかのような変化だった。


「本当か?」


「はい。ハイゼンベルク教授からの報告書です」


 シュペーアは報告書を手渡した。ヒトラーは貪るように読み始めた。技術的な詳細は理解できないだろうが、「成功」「世界初」「原子爆弾への道」という言葉は理解できたはずだ。


「素晴らしい」ヒトラーは立ち上がった。「これで流れが変わる。スターリングラードの復讐ができる」


 彼は窓辺に歩み寄り、ベルリンの街を見下ろした。


「ロンドンを一撃で消せるのか?」


「理論上は可能です」


「モスクワは?」


「それも可能です」


「ワシントンは?」


「航続距離の問題はありますが......」


「問題ない」ヒトラーは手を振った。「まずはロンドンだ。チャーチルの肥え太った豚に、神の裁きを下してやる」


「ただし、総統」シュペーアは慎重に言った。「原子炉から爆弾まではまだ距離があります。少なくとも1年は必要です」


「1年?」ヒトラーの声が鋭くなった。「もっと早くできないのか」


「科学には時間が必要です。しかし、確実に前進しています。アメリカはオッペンハイマーを失い、大きく遅れています。我々が先行しているのは間違いありません」


「半年だ」ヒトラーは断言した。「半年で完成させろ。必要なものは何でも与える」


 シュペーアは内心で溜息をついた。総統の要求は、いつも非現実的だ。重水の生産、ウラン濃縮設備の建設、爆縮レンズの設計、すべてにボトルネックがある。だが、反論しても無駄だろう。


「承知しました」


 執務室を出た後、シュペーアは廊下で立ち止まった。窓の外では、ベルリンの街が春の陽光に輝いている。平和な光景。だが、この平和が、原子の炎によって一瞬で消え去る日が来るかもしれない。


「神よ」シュペーアは呟いた。「我々は何をしようとしているのか」


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 3月17日 午前8時

 東京、理化学研究所


 仁科芳雄は、外務省経由で届いた暗号電報を読んで、衝撃を受けていた。


『至急電。原子炉臨界成功。詳細追って連絡。ヴァルター・ゲルラッハ』


 ベルリンから東京まで、潜水艦による文書輸送か、中立国経由の外交電報。いずれにせよ、2日でこの一次報が届いたのは異例の速さだった。


「どうされました、先生」助手の木村健二郎が心配そうに尋ねた。


「ドイツが成功した」仁科は電報を見せた。「原子炉が臨界に達した」


 木村は息を呑んだ。


「我々も急がなければ」


「そうだ」仁科は立ち上がった。「遠心分離機の製造を加速する。満州からのウランも、来月には届く」


 だが、仁科の心は晴れなかった。ドイツの成功は、確実に原爆完成への道を開いた。そして日本も、その後を追っている。人類は、自滅への道を突き進んでいるのではないか。


「先生」木村が言った。「これは、日本のためです。大東亜共栄圏のためです」


「そうだな」仁科は力なく答えた。「日本のため、か」


 窓の外では、桜のつぼみが膨らみ始めていた。もうすぐ春。新しい生命が芽吹く季節。だが、彼らが作ろうとしているのは、すべての生命を奪う兵器だった。


 仁科は、ふとコペンハーゲンでの日々を思い出した。ニールス・ボーアとの議論。科学の純粋性について語り合った夜。あの頃は、科学が人類を幸福にすると信じていた。


「先生」木村が声をかけた。「実験の準備ができました」


「分かった」仁科は現実に引き戻された。「すぐ行く」


 過去を振り返っている暇はない。今は、前に進むしかない。たとえそれが、地獄への道だとしても。


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 3月20日 夜

 ベルリン、ハイゼンベルクの自宅


 ハイゼンベルクは、書斎で一人、ピアノを弾いていた。


 バッハの『平均律クラヴィーア曲集』。数学的な美しさと感情的な深さが融合した、完璧な音楽。科学と芸術の理想的な結合。


 臨界成功から5日。原子炉は順調に稼働している。データは予想を上回る成果を示していた。だが、ハイゼンベルクの心は重かった。


「お父様」


 振り返ると、10歳の息子ヨッヘンが立っていた。パジャマ姿で、眠そうな目をこすっている。


「まだ起きていたのか」


「お父様のピアノが聞こえたから」ヨッヘンは父の隣に座った。「お父様は、お仕事で疲れているの?」


「少しね」ハイゼンベルクは息子の頭を撫でた。


「お父様は、何を作っているの?」


 ハイゼンベルクは答えに詰まった。どう説明すればいいのか。自分が、人類史上最悪の兵器を作っていることを。


「新しいエネルギーを作っているんだ」彼は曖昧に答えた。「とても強力なエネルギーを」


「それは、良いことなの?」


 子供の無垢な質問が、ハイゼンベルクの心を突き刺した。


「分からない」彼は正直に答えた。「お父様にも、分からないんだ」


 ヨッヘンは不思議そうな顔をした。


「でも、お父様は天才でしょう? 何でも分かるんじゃないの?」


「天才でも」ハイゼンベルクは苦笑した。「分からないことはたくさんある。特に、人間の心はね」


 息子を寝かしつけた後、ハイゼンベルクは日記を開いた。


『1943年3月20日。原子炉は順調に稼働している。フリッツは興奮して、次の段階への移行を提案している。プルトニウムの生産、そして爆弾の設計。すべてが計画通りに進んでいる。


 だが、私の心は不安で一杯だ。我々は、制御できない力を解放してしまったのではないか。パンドラの箱は開かれた。もう、閉じることはできない。


 神よ、もし存在するなら、我々を止めてください。我々には、自分で止まる勇気がないのです』


 窓の外では、ベルリンの街が静かに眠っていた。まだ、戦火に包まれていない、平和な街。だが、それもいつまで続くか。


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 同時刻、シカゴ

 メアリー・オッペンハイマーのアパート


 メアリーは、兄の遺品を整理していた。


 ノート、論文、手紙。すべてに、兄の思考の跡が刻まれている。その中に、一通の未投函の手紙があった。宛名は、ニールス・ボーア。



 ーー✳︎ーー✳︎ーー✳︎ーー


『親愛なるボーア教授


 私は今、恐ろしい計画に関わっています。原子爆弾。それは、戦争を終わらせるかもしれません。しかし同時に、新たな恐怖の時代を始めるかもしれません。


 科学者の責任とは何でしょうか。我々は、パンドラの箱を開ける権利があるのでしょうか。


 先生なら、どう答えるでしょう。私には、もう分かりません。


 ただ一つ確かなことは、この力を人類が制御できなければ、我々は自滅するということです。


 どうか、生き延びてください。そして、戦後、この恐ろしい力を平和利用に導いてください。


 それが、私の最後の願いです。


 敬具

 J・ロバート・オッペンハイマー』


 ーー✳︎ーー✳︎ーー✳︎ーー



 日付は、事故の前日だった。


 メアリーは手紙を胸に抱きしめた。兄は、すべて分かっていた。自分が作ろうとしているものの恐ろしさを。それでも、止まれなかった。いや、止まらなかった。


「ロバート」彼女は呟いた。「あなたが恐れていた未来が、現実になろうとしています」


 その時、ドアをノックする音がした。


「メアリー」フェルミの声だった。「いるかい?」


「どうぞ」


 フェルミが入ってきた。その顔には、深い疲労と何か別の感情が浮かんでいた。


「どうしました、博士?」


「実は」フェルミは椅子に座った。「奇妙な夢を見たんだ。どこか遠くで、激しい熱が生まれる夢を。計器が狂ったように振れて、世界が変わってしまう夢を」


 メアリーは息を呑んだ。


「それは......」


「ただの夢だ」フェルミは首を振った。「疲れているんだろう。だが、なぜか不安でね。君の兄なら、こんな時、何と言っただろうと思って」


 メアリーは兄の写真を見た。穏やかな笑顔。だが、その奥には、深い憂いが宿っていたはずだ。


「兄なら」メアリーは静かに言った。「きっとこう言ったでしょう。『我々は歴史の証人だ。そして、歴史を作る責任がある』と」


 フェルミは頷いた。


「そうだな。我々には責任がある。成功させる責任と、その結果に対する責任が」


 二人は黙って、窓の外を見た。シカゴの夜景が広がっている。平和な街。まだ核の炎を知らない街。


 だが、大西洋の向こうでは、すでに原子の火が灯されていた。


 そして、その火は、もう消すことができない。

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