加賀・六
「見えますか、本当に綺麗に見えますか」
「ねえ加賀先生。絵麻は綺麗でしょう?」
視界に割り込んでくる絵麻と、兄である義彦。二人の声が重なる。それに混ざるのは、朱塗りの扉が軋みながらゆっくり開く音だ。
問題があったのは、若苗眼鏡店で売られているフレームではない。
レンズだ。
俺と吉山は『個性的なフレーム』という美味い餌につられて、絶対に手を出してはいけないレンズに接触してしまったのだ。吉山は若苗眼鏡店が呪いをかけたレンズを購入し、そこから目の水晶体というレンズに『絵麻』が感染した。
その眼で診察を続けた結果、スリットランプを介して『絵麻』は患者にうつり、そしてその患者から吉山の病院で働いていたスタッフたちへと感染を広げた。
しかしそんな事実など知るわけもない俺は、吉山から紹介された患者を介して『絵
麻』に感染した。そして既に感染しているにもかかわらずその水晶体で診察を続けたばかりでなく、若苗眼鏡店のレンズに手を出し、更に症状を加速させてしまった。
そうして『絵麻』は感染拡大し、ついに親父から眼球を奪ってしまったのだ。
もう『絵麻』は、止めようがない。
吉山は患者の居住地などに応じて他の病院にも紹介状を書いたはずだから、そこでも既に『絵麻』は広がっているはずだ。更に、患者には病院を選ぶという選択肢がある。どうにもしっくりこないと他の眼科を受診して、『絵麻』を運んでいるかもしれない。
もう既に『絵麻』が原因で死者が出ているのだ。
今もどこかで、誰かが眼球をえぐり出して死んでいる可能性があった。
「誰よりも、どんな存在よりも。私たちの絵麻は純粋であり、無垢。一片の穢れもその身には存在しないのです」
義彦の恍惚とした声。だがそれを否定する者がいた。
「嘘つき」
絵麻だ。
「嘘つき、嘘つき、嘘つき」
私に聞こえる絵麻の声が、ヒステリックに叫び出す。
ああそうか。
絵麻が嘘つきと非難し続けていたのは、吉山や俺ではない。
「ふ、ふふふ」
分かった瞬間、つい笑いがこぼれた。
「若苗義彦。おまえはなにも分かっていない。絵麻が俺になんと語り掛けているか、知っているか? 『嘘つき』だ。おまえたちがどんなに清らかな存在に仕上げようとしても、絵麻本人はそれが偽りであると知っている」
義彦の眉がぴくりと跳ねた。
「絵麻を感染させたレンズを広げれば広げるほど、絵麻は誰にも知られたくない己の存在を知られて、もがき苦しむ羽目になるだけなんだよ」
「そんなわけない! 絵麻は救いを求めているはずだ!」
「おまえたちがしていることが絵麻にとって救いだと、なぜ言い切れる? 絵麻本人がそうしてくれと言ったのか? おまえたちはレンズに宿った絵麻がどうなっているのか確認したのか?」
「それはっ」
そのとき、むわっとした風が正面から吹きつけた。見れば扉が完全に開ききり、生臭い空気が溢れ出している。奥からは、ずる、ずる、となにか大きなものが這いずる音が近づいてきていた。
「母さん、加賀先生にきちんと分からせてやってくれ。我が家の絵麻は、誰にも穢されていない無垢の存在だと」
ずるずると這う音に、ぺた、ぺた、と湿った音が混ざり出した。まるで手をついて前に進んでいるような音だ。
ぺた、ずる、ぺた、ずる。
最初に燭台の光に照らされて見えたのは、やたらと長い茶色のうねった毛だった。次に青白い顔が見えたおかげで、茶色い毛が伸び放題のくせ毛だと分かる。
「ア……アア……」
枯れそうな細い声を絞り出しながら、ついにそれが全身を現した。
扉の向こうから出てきたのは、それは大きな蛇の下半身を持つ蛇女だった。巨大な下半身でやせ衰えた上体を起こし、「アアア……」と枯れた声を上げている。
胴体には細い腕が二対生え、白骨死体を抱きしめている。すっかり骨になっていたが、クリーム色がかったセーラー服を着ていたので絵麻の骨だとすぐに分かった。
ということは、階段をずるりずるりと降りてくるこの蛇女が絵麻の母親だ。モンスターというものは人里離れた場所で稀に見つかるが、絵麻の母親がまさにそれだった。
絵麻の白骨が人間のそれであることから、母親も元は人間で、なにかしらの魔法を使ってこの姿になったのかもしれなかった。レンズに呪いをかける若苗家だ。母親になにかしていてもおかしくない。
母親が這うたびに、絵麻の白い骨の足先が床に触れ、から、から、と乾いた音を刻む。
絵麻はいじめを苦に自殺したのか。
それともここで自然死したのか。
もしくはなんらかの儀式により命を放棄したのか。
死因は、不明だ。
だが白骨死体を離さない母親の様子から、彼女が娘を深く愛していることだけは分かった。母親は監禁されているわけではない。きっと自分の意思でこの場所にいる。
そしてここでずっと、レンズに呪いをかけることにより、絵麻を存在させ続けている。
けれども現実とは違う無垢な姿を求められた結果、レンズに感染した絵麻は苦しみ、吉山や俺の親父たちにしたように暴走したのだろう。
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