加賀・五
咄嗟に吉山の手に触れて最初に伝わってきたのは、氷のように冷え切った異様な体温。遅れて感じたのは、強張った肉の感触だった。
私に「眼を診て欲しい」と言い、二つの眼球を掌に載せて差し出した姿勢のまま、吉山は絶命していた。
俺がこの暗い診察室で話していたのは、本当に『生きている吉山』だったんだろうか。そんな疑問が湧き上がる。
もちろんそのはずだ。あれだけ会話をしたのだから、空耳か何かのはずがない。それにもしも俺が空耳と会話をしていたのだとしたら、この暗闇に沈んだ診察室で、吉山の死体を前にひとりべらべらと喋っていたことになる。そんな想像に、俺は耐えられなかった。
吉山は間違いなく俺の前で生きていて、俺と会話していた。そう信じていたい気持ちが募る。
だが、たった今目前で眼球をえぐり出してみせた吉山は、直前まで生者だったとは思えないほど冷たい。俺に仮説を披露し、眼球をえぐり出した吉山。それは本当に、俺の知っている『生きている吉山』だったのか。
何が起きたのか、理解が追いつかなかった。
吉山が眼球を差し出したのは、まるで彼自身の謝罪とも受け取れた。この異変を拡散し続け、死者を出し、俺の親父から眼球を奪ったことへの謝罪。そう思えてくる。
それでもどうしたらいいか分からず、俺は死者特有の冷気をはらんだ吉山からそっと手を離すと、ドアを開けた。とにかく今は、光が欲しかった。
ドアの向こうから差し込んだ大量の光が、室内を照らす。
間違いなく吉山は、掌に眼球を載せて差し出した格好で死んでいた。眼窩から溢れた血は辺りに飛び散り、吉山の頬を伝い、彼の服を染め上げ、そして乾燥して変色している。吉山が死んでから、随分時間が経過していると証明していた。そのくせ眼球だけはぬらぬらとした輝きを保っていて、たった今取り出したかのように瑞々しい。
俺の視界の中で、何かがきらりと光る。そこにあったのは、吉山のデスクに置かれていた膿盆だった。
次の瞬間、俺はその膿盆を手にしていた。吉山が差し出している眼球を無造作に掴み、うっすら埃のついた膿盆に移す。
吉山は俺に、「眼を診てくれ」と言っていた。
親父の時はそんな暇も考えもなかったが、これはいいチャンスだ。俺や親父と同じ異変が起こっていた吉山の眼球を、実際に調べられる。もし吉山の眼球に何か変化があれば、今俺に起こっている異変を止めるきっかけにもなるはずだ。
眼球入りの膿盆を持ったまま病院を飛び出し、駐車場に停めていた車に乗り込む。向かう先は、我が加賀病院だ。吉山は、眼球を切開して診てくれと言った。それができる場所は、手術室があるうちの病院しかない。
いつものように駐車場に車を停め、膿盆を手に入口に向かう。警備会社のセキュリティを解除してから、スイッチの入っていない自動ドアの鍵を開ける。電源の入っていないドアを手でこじ開け、中に入った。一階に停まったままのエレベーターに乗り込み、手術室がある三階を目指す。
避難経路を示す緑色の誘導灯が照らす廊下を進み、見慣れた手術室のドアを開ける。照明を点け、棚から滅菌バッグに入れられた器具を無造作に掴み取った。
吉山の眼球は彼が素手でえぐり出した上に、剥き出しで俺に運ばれ、そして二度と眼球として使われることはない。もう衛生面を心配する必要がなかったから、そのまますぐに手術台の上に膿盆ごと置いた。手術顕微鏡のランプを点け、接眼レンズを覗き込む。
焦点を合わせると、少し表面が乾燥し始めた吉山の眼球がよく見えた。
同時に、明るい視界の中で、セーラー服の少女が俺の眼球に触ろうと指を近づけてくる。
「嘘つき」
決して苛烈な声色ではないのに、少女の一言は俺の心に鋭い痛みを生んだ。
だが同時に、苛立ちも生まれる。
なにが嘘つきだ。そんなふうに罵られることなど、俺はしていない。少女の姿は問題なく綺麗に見えているのに、なにが不満なんだ。
そんな少女から意識を逸らし、俺は吉山の眼球に集中した。
吉山の手から掴み取った時点で、もう眼球に素手で触れることに抵抗などない。俺は指先で、吉山の眼球を転がした。外見では、特に変化は見られない。
綺麗な角膜にスリットナイフで切れ目を入れ、眼科手術専用の極細のピンセットでそっとつまみ、丁寧に切りながら剥がしていく。光に透かして見てみるものの、やはりクリアだ。傷ひとつ見当たらない。
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