吉山・六
この症状が他者にうつるものだとして、始まりはどこだ。
スタッフや患者が症状を訴え始めたのはいつからだ。
私がこの現象に悩まされるようになったきっかけはなんだ。
「……眼鏡、か?」
私が若苗眼鏡店で眼鏡を新調してから、約一ヶ月後。その頃から、私は黒いものを見始めた。
それから更に一ヶ月ほどして、「黒いものが見える」という患者が増え始めたのだ。
そしてそれは検査スタッフにも広がり、その結果森田と権藤が死んだ。
本当に眼鏡が原因でこんな事態に陥るだろうか?
あまりにも馬鹿げていると思いながらも――私はその考えを、笑いとばせなかった。
思い当たる普段と違う行動が、眼鏡を新調したということくらいしかないのだ。出不精で知り合いも少ない私には予定というものがあまりない。
そういえば若苗眼鏡店では、工場から届いたレンズを祈祷していると言っていた。
その祈祷が呪いの類であったなら、どうだろうか。
しかし疑問も残る。
問題の少女の姿は、眼鏡を外していても見える。声も聞こえてしまうのだ。視界が確保できるかどうかが問題だというのは、もう何ヶ月も悩んできた私だからこそよく知っている。
もしかしたら、眼鏡から私の眼球に何かがうつってしまったのだろうか。最初は眼鏡のレンズに憑いていた『何か』が、私の目の中にある水晶体というレンズにうつってしまったのでは。そうやって私の眼球に焼きついてしまったから、眼鏡を外していても少女が見えてしまうのでは。
そう考えると、机上に置いた眼鏡が急に気味悪くなってきた。私は目がかなり悪いから、眼鏡なしで運転して帰宅するのは無理だ。今日帰宅する為には、どうしてもまた眼鏡を掛ける必要がある。
眼鏡以外の選択肢となると、検査室にある使い捨てのコンタクトレンズだ。だがいくら掃除したとはいえ、権藤があんな死に方をした検査室だ。そこにあるコンタクトレンズを使う気には、どうしてもなれなかった。権藤を死に追いやったのは私かもしれないというのに、なんとも自分勝手なものだ。
今日も掛けて帰らなければいけない眼鏡は、机上に静かに載っている。
サイドから見たときの鮮やかな三色の層が印象的な、少し厚めの、存在感があるセルフレーム。
このたった一本の眼鏡欲しさに新幹線に乗って出かけるほど、惚れ込んでいたはずなのに。
いまや机上にあるその眼鏡は、化け物のようにしか思えなかった。
***
「あれ? 先生、眼鏡前のに戻したんですか?」
翌朝。受付の準備を進めていた兵動が、私の変化に目ざとく気づいた。
「ああ。たまに気分転換がしたくてね」
完全に嘘である。あの若苗眼鏡店で買った眼鏡を、もう二度と掛けたくなかっただけだ。しかし真実を述べても、この会話に何の意味もない。ゆえに私は、兵動に当たり障りのない答えを返した。それにあの眼鏡を買う前、私は日によってころころ眼鏡を替えていた。そのときの生活スタイルに戻っただけだ。
「見えますか」
眼鏡を替えても、少女の声は耳の中に響き渡る。
「本当に綺麗に見えますか」
当然だ、と心の中で呟いた。
「なんかその眼鏡掛けてると、『ああ、吉山先生』って感じで落ち着きますね」
検査室の準備をしていた小林からは、そんな言葉を貰った。
そういえば以前は眼鏡を色々と替えていたものの、今日掛けてきたフレームが結構気に入っていたので使う機会が多かった。どうやら小林の記憶には、このフレームを掛けている私が強く残っているらしい。
兵動や小林と言葉を交わすと、私はいつものように診察室に引きこもった。鞄の中からスマートフォンなどを取り出して机に置き、鞄をロッカーにしまい、ハンガーにかかっている白衣に袖を通す。
パソコンを起動して室内の照明を消すと、住み慣れた暗闇が私を包んだ。
やはり眼鏡を変えてみたところで、なにも変わらない。少女の存在が煩わしいこの異変は、完全に私自身にうつってしまったようだ。
眼鏡を替えたところで、逃げ場などない。
午前の診察を終える頃には、カーズアイテムかどうかの鑑定を頼んでいた鑑定士からスマホにメールが届いていた。そう、あの眼鏡は昨晩のうちに鑑定に出しておいたのだ。
どきどきしながらメールを開封する。依頼についての謝辞に続き、鑑定結果が書かれていた。あれやこれやと数値が並んでいるが、一言にまとめると「ただの眼鏡」だ。
そんなはずはない。
現にこうして私に異変が起きているのに。
そう思ってもう一度メールを読み返すが、おこなわれた鑑定はごく一般的なもので疑うようなものはなにもなかった。
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