吉山・四

「はい」


 返事をすれば、ドアが開いて若い女性が顔を覗かせた。検査室のスタッフである森田だ。


「あの、吉山先生。少しいいですか?」

「どうした?」

「井上さん……あ、さっきの男の患者さんなんですけど、やっぱり黒いものが見えて気になるって言ってるんです」

「分かった。もう一度入ってもらって」


 森田からカルテを受け取り、席につく。


 診察室に戻ってきた井上さんにどんな検査をするか説明をしたが、中止と言ってもレンズを使い続け、六回の点眼に戸惑いを見せていた彼が、私の説明をしっかり理解してくれたかは怪しい。


 診察室の外で待機していた森田に検査項目を伝えると、彼女は「はい」と心地いい返事をしてくれた。つやのある茶髪のポニーテールを揺らしながら、井上さんを伴って検査へと向かう。


 それから十分も経たなかっただろう。


 診察室に上がってきた検査結果は、それは健康で綺麗なものだった。


 その結果をもとに飛蚊症だと説明したものの、井上さんは意外と疑り深い。

 最終的に、他院への紹介状を書くこととなった。


 紹介状を書いた先は、駅近の一等地に建つ加賀病院だ。大学時代からの友人である加賀玄士くろしという男が、父親とやっている病院だ。小さなクリニックのうちとは違い、手術や入院までできるそれなりの規模の病院だ。患者が希望するなら総合病院への紹介状も書くが、特に希望がないようであれば加賀病院に紹介していた。


 別に互いの利益がどうのというわけではない。総合病院より加賀病院の方が待ち時間も短かろうというだけだ。設備が整っているし、個人病院というだけで選択肢から外すのはもったいない。


 もちろん患者の受診が難しいようであれば、別の病院への紹介状を書く。そのへんはさすがに私だって患者の意思を第一とする。単なる偏屈なおっさん医師ではない。


 紹介状と聞いて満足したのか、井上さんはそれ以上ごねずにコンタクトレンズの処方に必要な検査を受けて帰っていった。傷だらけな上に黒いもやが見えると訴えているわりに、よくそんな眼に異物を入れたがるものだ。


 まあ、そんな井上さんの視野の問題は、他の病院へ行ったとしても解決しないと思うが。


 ここ二ヶ月ほど、私は「黒いもや」について訴える患者の紹介状をもう三十枚近く書いていた。うちのような小さなクリニックにしては、異常な数字だ。

 そしてうちに戻ってくる返事は、どれも同じ。


『異常なし。飛蚊症の可能性あり。経過観察』


 誰が診ても、なにも見つからない。

 そういうものなのだ、これは。


 私にもその「黒いもや」は見えている。明るい場所で見えるそれはうっすらとしたなにかが漂っているという状態から、最近では少し濃くなってきた気がする。


 そしてそれが見えているときは、耳元でさわさわと声のようなものが聞こえるのだ。なにを言っているかは分からないが、か細い声は少女のそれに似た音をはらんでいる。


 中古で買ったクリニックの物件は、もちろん心理的瑕疵物件ではない。呪われるのは嫌なので、そのへんはちゃんと鑑定士も間に入ってもらって調べた。


 ならば、なんだこの現象は。

 

妙な呪いが流行っているという話もまったく聞かない。

 まあとりあえず、眼を閉じていたら黒いもやは見えないし、声も聞こえない。それだけは分かっている。


 背もたれに体を預けて目を閉じているうちに眠気がこみ上げてきて、私はうとうとと惰眠をむさぼり始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る