Lens, all cleaR.
Akira Clementi
第一章 それは語りかけてくる
吉山・一
治癒魔法は便利だが、万能ではない。
もしも万能だとしたら、医者に知識など不要なのだ。
たぶん。
「残っている薬をまた一日四回使って、一週間後に様子を見せてください。コンタクトはもう一週間中止ですね」
検眼鏡――スティック状の照明機材――と拡大用のレンズをしまい、カルテにペンを走らせながらそう言えば、患者の若い男性はすぐに口を開いた。
「あの、先生。そろそろコンタクト欲しいんですけど。もう家に残りがなくて。今日つけてきたやつで最後なんです」
私と患者の会話は、今日も噛み合わない。
私だって好き好んで何度も再診を指示しているわけではないのだ。
患者の井上さんは、ソフトコンタクトレンズをつけたまま寝てしまい、起きてから無理にレンズを剥がして角膜が一部剥がれてしまった。スリットランプ――眼科で患者に顎を載せさせて、眼に光を当てて診察するあの機器――で見たかぎりでは、傷はあまり治っていない。
そりゃそうだ。
何度レンズの中止を指示しても、井上さんが聞き入れたことなど一度もない。おかげで角膜の傷は、一日使って乾いたレンズを剥がすとき一緒に引っ張られ続けていて完治には遠い惨状を晒している。
それでも井上さんが眼球に治癒魔法を使わなかったのは、「偉いですね」と棒読みでなら褒めてもいいか。
緊急時を除き、眼球を含む全ての臓器への治癒魔法の使用は禁じられている。魔力を凝縮して流し込むという治癒魔法の作用の仕方ゆえだ。どっと流し込まれた魔力は傷を塞ぐものの反動ダメージで臓器の機能が一時的に低下、もしくは臓器が破壊され機能不全となる。
そういった様々な理由から、医者という職業は現代になっても薬や手術で患者を治療することが多い。いつか治癒魔法が対象の年齢など関係なく全ての傷に使えるようになり、病気にまで効果を発揮するようになれば、医者という存在は必要なくなる。しかし今のところその気配はなかった。
それも当然だ。環境破壊や異常気象で地球のバランスが崩れている現代では、魔力の源たるマナは枯渇気味である。魔法なんぞ二、三回使えばエネルギー不足でへとへとだ。
そんなわけで井上さんの治療にはごく当たり前に目薬を使っているのだが……残念ながら、効果は薄い。こいつ治す気あるのか。自分の眼だぞ。
ため息をつきたくなるのをぐっとこらえてペンをそっと置き、井上さんに向き直る。
「井上さんが使っているのは、二週間ごとに交換するコンタクトですよね。レンズの上から点眼できない成分が目薬に入っているので、コンタクトの使用はおすすめできません。そもそも今の傷の上にコンタクトを載せれば、レンズを外す際のダメージで傷を悪化させる危険もあります。今気をつけて対処しないと、角膜上に傷が残って一生視界不良の原因になりますよ」
半分以上は仕事だから、残りはなんとか私の中に残っている親切心から、前回も前々回も話した内容を口にする。
「それに今の井上さんの眼の表面は傷のせいですりガラスのような状態です。こんな状態でいつもの度数のレンズを載せて検査しても、処方できるほどの満足な視力は出ませんよ」
今日も我ながらずいぶんと丁寧に説明したつもりだが、井上さんはかなり不服そうだ。
「でも先生、本当に一枚も残りがなくて」
そんな事情知らんがな。反射的に言い返しそうになって、言葉を飲み込んだ。
それにどうせ、私がレンズの処方箋を書かなかったら井上さんは最後の一枚だという今つけているレンズを何食わぬ顔で洗って使うと思う。使い捨てレンズの使用サイクルを守れない患者は珍しくもない。
コンタクトレンズは場合によっては失明の可能性があるからこその「高度管理医療機器」なのに、それを使う側はただの「雑貨」としか思っていないのだから、眼科医をしている私もいい加減疲れを覚える。
正直、とことん真面目に相手をするだけアホくさい。
眼に傷がある状態では視力サポート関連の魔法も使用できない。それを知らないはずがないのになぜか眼鏡を持っていないような人間に、なにをどう話せというのか。
いくら私たち眼科医が熱心になったところで、現実はこんなにも虚しい。
若い頃世話になった研修先の眼科でもアホくさいとため息をつきたくなる患者を目にしてきたせいか、四十代になった私はついにこう思うようになってしまっていた。
『私の眼ではないから、どうでもいいか』
医者も人間だ。メンタルの限界はある。医師法にスタートダッシュで背いているとか言われても、患者が非協力的なのだからどうしろというのだ。
「……ワンデータイプで、酸素透過性の高いもの。そのレンズで、短時間の装用が処方の条件です」
「それでいいです。お願いします」
自分の希望が叶った井上さんの声が弾む。
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