第46話:噛み合わないパズル
「さっきは刺激が強すぎた? ごめんね、順一くん。今から、ちょっとやり直そっか」
典子は、すっかり家庭教師の口調だった。彼女は、潤滑剤を手に取ると、それを自分の指と、彼の先端に、丁寧に塗り込み始めた。
「まずは身体中のいろんなところで、お互いの体温を感じ合おう。焦らないでね……。一回、気をやったから、次はもっと持つよね?」
彼は息を荒くして、典子の胸を掴んで牛の搾乳でもするような手つきで揉み始めた。
「順一くん、違う。それ、あたしがそういうのが好きな人かどうか確かめてからするんだよ。……そう、最初は優しく触れて、そこから相手の顔や声を確かめて探っていく。……うん、そう。あたし、そうやって下から持ち上がるみたいな触れ方、好きだよ」
彼女は、まるで母親が子供に箸の持ち方を教えるように、根気強く、性行為の基礎を彼に教え込んでいく。
幸いにも順一は素直で、吸収が早かった。目の前の人間を観察するよう伝えただけで、何の衒いもなく、典子の顔を見て、その声に耳を傾けて、肌の感触を楽しんでいく。
──やばい、才能あるかも。
彼には、典子の顔にふとした乱れがある時、それが拒否的なのか肯定的なのかを読み取る観察力があるようだった。
典子がどちらともつかない声を漏らした時、自分でもそれが何かわからないのに、彼はそれをより強めて、知らないうちに心地よくさせられていく。
「あ、あ、順一くん、順一くぅん、もっとぎゅっとして、きゅって」
典子は、演技を捨てて、甘い声を素直に発した。
彼は、触れられると弱いが、触れるのには天性の才能がある。そう思わせるほど、巧みに、典子の身をくねらせていく。
彼の鼻息は少し雰囲気に欠けているが、それでも自分の感度が高まっているのがわかる。この男性は、挿入を焦って相手を困らせるような、自分勝手なところがない。
典子は、いつしかだらしなく、淫らな息を漏らして、彼の名前を連呼するばかりになっていた。
──あう、あう……。この人、予想よりすごいよぉ。二人とも興奮してる。心置きなくオプション業務のキスマーク遂行できそうだよぉ。
「ねえ、順一くん、あたし、もう我慢できないよぉ。ね……ゴム、しよ?」
そういうと、彼は別人のように落ち着いた顔で、避妊具を取り出し、装着した。
──あ、くる。くるんだ。お尻、力抜かなきゃ。
彼は典子に正面から近づく。そして、その足を左右に開かせて、そのまま身を重ねていく。
「あ、潤滑剤は?」
「潤滑剤?」
彼は遠慮なく、それを押し通してきた。典子の金切り声が上がった。順一は腰をぐいぐいと押してくる。
──あれ? 違う、そっちの穴じゃないよぉ!
それは、まごうことなき女性の器官を貫いていた。
「ね、ねえ、順一くん……」
彼は、ひたすら、うっ、うっ……と唸りながら、腰を速く動かすことに専念していた。
「ちょっと待って。いつもそうするの?」
「あ、うん」
早くも二度目の暴発が、あった。
──えっ、なにこれ?
その暴発は、挿入から二分と経たずして終わった。
──はやっ。早すぎる。もっと息が詰まるような熱さを与え合ったり、近所迷惑な声とか出し合ってるうちに噛みついて、吸い付いてやろうとしたのに、なにこれ?
彼は身を離して、額の汗を拭った。
「入れただけで、あんな声が出るなんて、びっくりして。早くなっちゃった」
「あ、はい」
典子は顔はもう完全に冷めていた。あの金切り声は、これから来る初めての体感を少しでも緩和しようとして、わざと出したものだ。
そして、それは不発に終わった。
──いや、別にいいんだけど。でもなんで?
なんだかやる気がなくなって、その場に倒れた。
「聞いていい?」
「……なに、瑠衣ちゃん」
「麻里奈ってさ……こういうのと違うこと、求めてこない?」
唐突な問いに、順一は首を傾げた。
「え……? 違うことって……?」
「んー……例えば、だけど」
典子は、彼の胸に自分の胸を押し付けながら、わざと、悪戯っぽく続けた。
「……こっち、とか?」
彼女は、するりと彼の上から降りると、くるりと身体の向きを変え、四つん這いになって、彼に美しい脂肪のついた臀部を向けて揺らした。
「……興味、ない?」
それは、彼女が一夜漬けでマスターした完璧な誘い方のはずだった。
しかし、返ってきたのは、熱のこもった吐息ではなく、困惑に満ちた声だった。
「る、瑠衣ちゃん……? 何言ってるの……?」
彼の声は、明らかに動揺していた。それは興奮によるものではない。ただ、理解できないものを見た時の、純粋な戸惑いだった。
典子は、ゆっくりと振り返った。
順一は、顔を真っ赤にしながらも、どこか怯えたような目で、彼女を見つめている。
「麻里奈と、したことないの? ……お尻のこと」
その言葉に、順一は、まるで侮辱されたかのように、声を荒らげた。
「あ、あるわけないだろ! 麻里奈は、そんな子じゃない! すごく、清楚で……優しい子なんだ! そんな変態行為、彼女が望むはずがない!」
その声には、嘘も見栄もなかった。
ただ、自分の恋人を心から信じている男のまっすぐな言葉だけがあった。
──えええええぇ……あたしのこと、変態扱い?
部屋を支配していた甘い空気は消え去って、冷たい沈黙が落ちてくる。
典子の頭の中で、決して交わることのない二つの言葉が、激しく衝突していた。
──依頼者の鏡綾彦は言った。『姉は、それにしか感じない』と。
──被験体の羽深順一は言った。『彼女が、望むはずがない』と。
どちらかが、嘘をついているのか。噛み合わないパズル。
──うーん、根本から何かが違っているのかも。
綾彦は、麻里奈の本当の欲求を知っている。
そして順一は、麻里奈のそんな姿を全く見たことがない。
──そんじゃ、答えは一個しかないよね。麻里奈さんは、順一さんの前でだけ『普通』を演じているんだ。
典子はようやく、この奇妙な依頼の核心に近づいた気がしてきた。
これは、単なる寝取りや、嗜好の問題ではない。
自らの本性を「異常」だと信じ込み、それを必死に隠しながら、「普通」の恋に救いを求めようとする一人の女の悲痛な思いが隠れているのではないか。
典子は、まだ困惑した顔でこちらを見つめる順一の姿を、静かに見つめ返した。
あたしも、「近親相姦」や「アナルセックス」を、なるべくなら関わりたくない、狂った変態の性癖と見て、嫌悪感を抱いていた。
だが、それに支配されている当事者にしてみたら、深刻で、命懸けの悩みとして、自問自答を繰り返しているかもしれない。
そして、きっとそれは、鏡麻里奈さんの中で、現在進行形として続いていることなんだ。
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