第43話:姉は、僕との関係を続けながら
lilyからの返信を受け取った『K』の動きは、迅速だった。
週末の午後、典子は都内のホテルのラウンジで、その人物を待った。
窓際の席からは都会の喧騒が、まるで音のない映像のように流れていく。
やがて一人の青年が、姿を現した。
指示した通り、手に白い薔薇を持っている。
──彼に間違いない。マジであんな恥ずかしいものを持ってきている。
典子は、立ち上がり、彼の元へ歩いていくと、真正面から声を掛けた。
「Kさん、……で、お間違いないでしょうか?」
青年は、「あなたが……」と口を開けた。
あのlilyがこんな小娘とは思っていなかったのだろう。しかし、その青年の姿も典子の想像とは少し違っていた。
ひどく若い。少年と言っていい。
金髪を軽く遊ばせた、ファッション雑誌から抜け出してきたような美青年──。
年の頃は、典子とそう変わらない。しかし、その自信に満ちた佇まいと、相手を値踏みするような視線は、彼がただの若者ではないことを示している。
彼は、
典子は、LILYの仮面を被り、無表情のまま頷いた。
「はじめまして。lilyです。本日は、お時間いただきありがとうございます」
「どうも。……思ったより、お若い、普通のお人なんですね」
綾彦は目の前に座る、どこにでもいそうな地味な女子大生を見て、軽く拍子抜けしたような顔をした。
軽く挨拶を済ませた後、典子は彼をカラオケボックスに誘った。周囲に人がいない防音の空間。しかも監視カメラと内線電話が備え付けられている。未知の人物と秘密の相談をするには、打ってつけの場である。
二人は一曲も入れることなく、ドリンクバーの飲み物だけを置いて、顔を突き合わせた。
「それで、早速ですけれど……ご依頼の件」
典子は彼の油断を誘うように、少しだけ気弱な学生を演じながら本題に入っていく。
「メッセージでは『姉君を解放するため』とありましたが、もう少し詳しくお聞かせいただけますか」
綾彦はそこで初めて、作り物めいた笑みを浮かべた。
「ええ。姉の
淀みない言葉に、姉を想う弟の優しさがあるのは明白だった。
だが、こんな若者がたったそれだけのために、五十万円もの大金を使うのは、どうみても不自然だ。着こなしているジャケットも靴も痛みが目立つ。
──綾彦くん、この依頼で、相当……無理をしているよね。
典子は、そこを正直に聞いた。
「依頼主に嘘があってはならない……って書いてあるの読みましたよね?」
「はい。依頼に至る個人的動機は、テキストではありませんが、今はっきりとお伝えいたしましたが」
彼の顔を見ても、これが嘘か本当かはわからない。人は簡単に人を騙せる。嘘を見抜くことなど、できない。だが、彼に隠し事があることは間違いないと直感した。
──うん、それじゃ、こっちも嘘をついてみよう。
典子は、あまり美味しくない紅茶を飲みながら、カラオケ画面に目を向けて言った。
「計画と著しく乖離した目的が発覚した場合、契約は即時破棄するってありましたが、あなたにはまだ隠していることがありますね?」
そう言って、カップをローテーブルに置き、バッグを手に立ち上がった。
「……あたしからはこれ以上、言うことはありません。会計だけお願いしますね」
すると、彼は慌てたように「ま、待ってください! すみませんでした! 話します、話します!」と声を上げた。
足を止めて、彼を見つめる。
「では……どんな事情があっても気にしませんから、お話になってください」
二人は座り直して、改めて向き合った。
「……恐ろしいです、あなたは。見た目以上に」
こんな見た目じゃ舐められるだろうな、と化粧っけない自分の顔を思い出しながら、典子は「そうでしょう?」と、みんながきっと想像しているであろうlilyを装って、不敵に笑った。
しかし、内心では強い怯えと不安が走っていた。
──バレてない、バレてないよね……適当な思いつきのカマかけ。
彼はこれまでこの世の誰にも言ったことのない秘め事を、ここに少しずつ白状し始めていく。
「僕は、姉を取り戻したいんです。……僕と姉は、ただの姉弟じゃない。二人で一つなんです。鏡の、合わせ絵のようなもので」
二人で一つ……これはちょっと危険な思い込みの少年だと、典子は思った。
少しばかり顔が緊張しそうになる。こんな時は笑顔を出すしかない。何かあったら、とにかく笑顔、笑顔は全てを隠すブラフとなる。
「姉と僕は、恋人同士でした」
笑顔でその目を見つめる。
──へえ、恋人……。姉さんと弟さんがねぇ……よくある……いや、いやいやいや、ないよ、そんなの小説の中だけでしょ、えっ、なにそれ、リアルにあるの? 姉と弟が恋人同士って普通に言っちゃう!?
しかし、今のは普通にではなく、彼女が仕事の上で必要だからと仕向けて、告白させたことであって、彼にとっても普通に行っているつもりはなかった。
「今も……そうです。彼女の身体も、心も、すべてを理解しているのは、世界で僕だけです。……あの関係を始めたのだって、姉の方からなんだ」
近親相姦──。
その、あまりに重い告白を、典子は表情一つ変えずに受け止めた。もちろん、心の中の典子は、冷静なはずがない。
──ふええ、姉から開始して弟がその関係に執着してるから、愛し合っての結果だろうけど、それちょっと想定外すぎるよぉおお!
彼は典子の目を見るのを避けるように、マイクを手に取り、それに触れながら告白を続けていく。
「姉は、僕との関係を続けながら、『普通』の恋愛にも憧れている。だから、あの平凡な男をリハビリの道具みたいに使っているだけなんだ。でも、そんなまやかしは終わりにしたい。あの男では、姉の本当の姿……彼女の持つ深い性的欲求を満たすことなんて、できっこない」
「適切なデバッグを施すために確認させてください。……その、性的嗜好について、メッセージでお聞きしました。それも本当のことなんでしょうか?」
綾彦は、ふっと自嘲するような顔をした。
「僕も初めての関係で、まさかアナルセックスを求められるなんて想像もしなかったよ。僕は姉のそれで童貞を卒業したんです。彼女は、それにしか感じない。僕にそう教えたんです」
つまり、鏡綾彦の性行為は、鏡麻里奈とのアナルセックスだったということである。
典子は、内心の軽い嫌悪感を押し隠し、静かに頷いた。
「なるほど。背景パラメータ、理解いたしました。羽深順一という被験体にデバッグを施すのに、有益な情報ありがとうございます」
「僕は……多くを望みません。lilyさん、あなたが彼の体のどこかに、明白な跡を残してください。他の女性と性的接触を行った痕跡。それを見れば姉は彼に失望して、関係も終わるはずです」
「わかりました。それでは本日より実験を開始いたします」
綾彦は、自分のすべてを理解されたことに、満足したような、そして、どこか怯えたような、複雑な表情を浮かべていた。
典子は、静かに席を立つ。
──近親相姦に、アナルセックス。……冷静な顔をして聞いていたけれど、ヤバいでしょ、この人たち! これまでで一番狂った依頼じゃない!!
しかし、典子の心中がどれだけ悶えていようとも、lilyが実験開始を宣言したからには、実行するしかない。
彼女の頭の中で、計画のシミュレーションが超高速で始まっていく。
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