第30話:いんたあみっしょん03
lilyが『Case File.03』の報告書を投下してから数週間。
ダークウェブの非公開学術フォーラム【特異點開發室】のスレッドは、その過激な内容を巡って、未だに賛否両論の議論が続いていた。
沈黙を保っていたスレッドの主が、新たなテキストを投下したのは、そんな喧騒の最中だった。
<lily>
皆さん、こんにちは。lilyです。
私の不在の間も活発な議論が続いているようで何よりです。
『Case File.01』から『03』に至る一連の臨床実験を通じ、現行の恋愛関係──私が『恋愛システム1.0』と呼ぶもの──に内包される、いくつかの致命的なバグが再確認できたと考えています。
<lily>
第一に、未検証の関係性における、自尊心の脆弱性。被験者ペア(Case.01)は、正式な関係を結ぶリスクを回避しつつ、互いの社会的評価を消費することで自尊心を維持する、極めて脆いシステムを構築していました。彼らの関係を支えていたのは相互理解ではなく、他者からの評価という不安定なパラメータだったのです。
<lily>
第二に、性的自己肯定感を基幹OSとする、システムの機能不全。誠実な人物とされた被験体(Case.02)は、その基幹となる性的自己肯定感の破損により、創作意欲や社会的役割の遂行能力といった、全てのアプリケーションが連鎖的にクラッシュしている状態でした。このケースでは、外部触媒(私)によるOSへの直接的な介入(性的成功体験の付与)が、結果としてシステムの強制的な自己修復(再起動)を促しました。
<lily>
第三に、社会的役割(ロール)の特権濫用。聖職者と見なされていた被験体(Case.03)は、「教育者」という信頼される役割を捕食者としての本性を隠すための隠れ蓑として利用していました。これは、システムが特定の役割に対し、性善説に基づいた過剰なアクセス権限を与えている構造的欠陥を示しています。
立て続けに投下される分析。スレッドを監視していた閲覧者たちが固唾を飲んで画面を見守る。
<lily>
これらのバグに共通する根本原因は何か。
それは『恋愛システム1.0』が、暗黙の了解や非言語的な期待、社会的規範といった、極めて曖昧で非論理的なプロトコルに依存している点にあります。
「想いは言葉にしなくても伝わるはずだ」「恋人とはこうあるべきだ」「結婚すれば貞節は守られて当然だ」
これら全てが、バグの温床なのです。
<lily>
そこで、私が次世代OSとして提唱するのが、『耐触性愛(たいしょくせいあい)』という新しい関係モデルの仮説です。
これは、恋愛から一切の「暗黙の了解」を排除し、すべての関係性を明文化された契約に基づいて構築するものです。
lilyの提案に、スレッドに攻撃的な反応が集まり、それを傍から攻撃するような投稿が打ち続いた。lilyは全てを黙殺して、自らの投稿を続ける。
<lily>
【仮説:『耐触性愛』の基本綱領】
●一. パートナーシップのプロジェクト化:
関係の開始時に、双方が目的(精神的安定、経済的協力、性的欲求の充足、子育て等)を明示し、達成目標と期間を定めた「プロジェクト計画書」を作成する。恋愛は「運命」ではなく、共同で遂行する「事業」と再定義される。
●二. 性的資源の非独占的共有(オプション):
性的欲求は、食事や睡眠と同様の生理的欲求の一つと見なし、独占(モノガミー)をデフォルト設定としない。計画書において、外部パートナーとの性的接触を許可するか、その際のルール(報告義務、安全対策等)を明確に規定する。
●三. 定期的な関係性の監査と契約更新:
四半期に一度など、定期的にプロジェクトの進捗を確認し、双方の満足度を評価する「監査」を実施する。状況の変化に応じて契約内容を見直し、関係を継続するか、あるいは円満に「プロジェクトを解散」するかを合理的に判断する。
<lily>
このシステムは、従来の恋愛が内包していた期待の不一致や、偽善、すれ違いといったバグを、構造的に排除できる可能性があります。
私は、バグのある婚姻制度、自由恋愛の存続を否定するものではありません。ですが、それを凌駕する真に知的な生殖と性生活の契約を模索することは有意であると考えます。
もちろん、これはまだ机上の仮説に過ぎません。
この『耐触性愛』が、人間という複雑なシステムに実装可能かどうか。それを検証するため、私は、次なる臨床実験の準備に入りたいと考えております。
その言葉を最後に、lilyのアイコンは「オフライン」に変わった。
スレッドには「死ねよ、壊し屋サキュバス」「淫乱サキュバス、お前が俺たちのチンコも独占してくれんのか?」「今度、弟の童貞もらってくれよ。あいつホモだからさ、お前の好きな家族崩壊のいいサンプルになるぜ」などと、罵声が多く流れていく。
賛同者は、もはやスレッドで発信することよりも、彼女の研究報告に資金を投げ込んで、そこに支持の言葉を並べていた。研究報告へのコメントは、一定額以上の研究資金を投じなければ、許されないからだ。
「あー、思い通り、みんなこっちに有料コメント流してくれてるよぉ。ありがとぉお」
それにしても──と百合川典子は、lilyとして投稿した自分の提案を眺めて、腕を組んだ。
──要するに、『恋愛する前に、まず会社みたいにプロジェクトの企画書を書きましょう』ってことでしょ。でも、そんなのできる?
頬杖をついた。自分の袖とスカートが目に入る。
典子は、桜花女子高等学校の制服に身を包んでいた。なんとなく、よれよれのパーカーより背筋が伸びて気持ちいいから、部屋着代わりに着ている。
──だいたいよ、『お付き合いの目的』『達成目標』『期間』を最初に決めて、『オプションで、他の人とセックスするのもアリにします? その場合の報告義務は?』なんて細かいルールもぜーんぶ契約で縛れるわけないじゃん。
彼女が気持ちとして理解できるのは、自分を壊し屋、最近ではサキュバス呼ばわりして罵倒する連中の方だった。
──で、三ヶ月に一回とか定期的に『最近、満足度どうすか?』って業績評価みたいにお互いを査定して、ダメそうならさっさとプロジェクト解散、はい、さよなら、みたいな。
典子は自分のスカーフを整えながら、「こんな変態みたいな格好を自分がやって、気に入っちゃうなんて、やってみるまでわかんないしねぇ」と、自分のでたらめさを、くすりと笑った。
──そんな変な恋愛や結婚、実際にしたい人ってほとんどいないだろうねぇ。無駄な選択肢なんか作らない方がいい。間違ってそこに向かうはずではない人が迷い込んだら、可哀想なことになっちゃうよ。
パソコンの画面を消して、スマートフォンを取り出し、預金残高の額を確認する。
まだ、結構残ってる。
夕食はちょっといいところに食べに行こうと思った。
面倒なので、制服を着替えるつもりはなかった。
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