第20話:いんたあみっしょん02

 とある日の昼下がり。

 百合川典子は、大教室のいちばん後ろの席で、社会学の講義を聞き流していた。

 ──町田まちだ教授、現代都市やインターネットの話になると、時代遅れなことばかり言うんだよなぁ。

 教壇に立つ老教授が「現代都市における逸脱行動とコミュニティの変容」について熱弁を振るっているが、彼女の意識はとっくに、机の下のスマートフォンに向けられている。

 画面に映っているのは、神保町の古書店の通販サイトだ。第二部の報酬で買った本はすでに読破してしまい、彼女の知的好奇心は、新たな獲物を求めていた。

「ねえ、典子」

 隣の席から、学友の優樹菜ゆきなが、ひそひそ声で話しかけてきた。

「聞いた? 相馬先輩、静岡のテレビ局に内定出たらしいよ」

「へえ」

 典子は画面から目を離さずに、気のない返事をする。

「三島放送だから、来年にはこっち離れちゃうんだってさ。やっぱり、月村先輩とはダメだったんだね」

 優樹菜は、寂しいような顔をして、その声はどこかウキウキしていた。

 他人の噂話が好きでたまらないのだ。

 講義が終わり、二人は学生食堂で昼食をとっていた。

 優樹菜は思い出したように、声を潜めてゴシップを続ける。

「……それでね、月村先輩のちょっと残念な噂、聞いたんだ」

「ヤバい噂?」

「うん。なんか、風俗にめちゃくちゃ入れ込んでるらしくて……。お気に入りの子に、すごいお金使ってるんだって。この前も、サークルの先輩が歌舞伎町の店から出てくるところ、見たらしいよ」

 典子の反応は、薄いものだった。

「……ふーん」

 彼女は、学食の安いカツカレーをスプーンでつつきながら、頭の中で、lilyとしてデータを処理していく。

 ──なるほど。サンプルA(相馬桜子)は社会的成功のルートへ。サンプルB(月村康太)は代替的な性的欲求への依存ルートか。勉強になるな。

 彼女にとって、かつて友人だったはずの二人は、すでに観測を終えたデータセットの一つと化していた。

 ──もどかしいから、ちょっと刺激を与えてみただけのつもりだったけど、刺激が強すぎてちょっと気の毒なことしたかもなぁ。

 いずれにしても、大人の初心者たちに、責任ある大人同士、ちょっと面白い経験をさせただけ。

 感謝はされないだろうけど、あたしのことを恨んだりしないで、この先も頑張ってほしいな、とだけ思った。

「典子は、なんとも思わないの? 一時期、仲良かったじゃない」

「そうでもないです。二人とも、ちゃんとおさまるところにおさまって、よかったなぁって思っただけです」

 そう言って、ニタニタと笑顔を浮かべるので、優樹菜は「あんた、時々変な顔するよねぇ」と手の甲で口を隠して笑った。

 優樹菜と別れた後、典子は、一人で図書館に向かった。

 静かな書架の間で、先日手に入れたばかりの専門書を開く。

 その時間だけが、彼女にとって何にも代えがたい安らぎだった。

 しかし、その安らぎも、スマホで預金残高を確認した瞬間に終わりを告げる。

 ──うわぁ、またギリギリだよぉ……。

 彼女が入会しているダークウェブ【特異點開發室】は、月額五万円の会員費がかかる。

 あそこでだけ見られるアンダーグラウンドの研究報告や論文は、途方もなく面白い。

 議論する連中も、厳しい知能テスト、人格テスト、そして国立大学入試に相当するという学術試験を通ってる者たちばかりなので、ちょっと他とは異なる議論を進めるから、目が離せない。

 温かみのある紙の本から得られる人類の叡智と、闇サイトの新しい知的刺激。

 これらに触れ続けていくためには、研究資金を稼がなければならない。

 典子は一つ溜息をついた。

 スマートフォンの画面を、古書店のサイトから、あのタマネギ形のアイコンのアプリへと切り替える。

 lily宛に届いた、一件の新しいダイレクトメッセージ。

 それは、新たな「実験支援」の申し込みだった。

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