第8話:N=3÷零れた叫び

 典子のベッドは、彼女の周到な計画のように広く、深く感じられた。

 桜子の体は、その純白のシーツの海の中央に、まるで生贄のように横たえられた。

 左右に二人がいる。

 右手は康太の熱い胸板に、左手は背後から絡みつく典子の冷たい指に、それぞれ捕らえられている。

 逃げ場は、どこにもなかった。

「……すごい、あつあつですよぉ。桜子先輩の肌」

 典子の声が、桜子の背後から下着の中に指を差し込んで囁く。

 その唇が桜子の耳たぶを、ぬるりと舐め上げた。

「ふぅっ……!」

 桜子の体が、弓なりに跳ねる。

 その動きに呼応するように、桜子の正面にいる康太が、その硬い楔を、桜子の湿った入り口へと押し当ててくる。

「……桜子……俺、もう無理だよ」

 康太の声は、懇願と抑えきれない欲望で、掠れていた。

 桜子は、答えることができなかった。

 肯定も、否定も、もはや意味をなさない。

 典子が、桜子の腰を掴むと、康太の猛りを受け入れさせるように、彼女の太ももに足を差し入れて、左右に開かせた。

「ん……ぁんっ……!」

 抵抗する間もなく、熱い肉の塊が、躊躇なく奥まで突き貫いてくる。視界が、白く点滅した。

 典子は、その桜子の反応を、満足げに確かめると、その白い脚を桜子の腰に絡ませ、今度は臀部の割れ目の中に濡れた指を滑り込ませていく。

「あっ、典子、それは嫌!」

 しかし、典子は聞かなかった。

 前から、後ろから、同時に与えられる、種類の違う快感。

 康太の若く、激しい律動が、子宮の奥を直接的に打ちつける。

 典子の、どこで知ったのかわからない、いやらしい指使いが、男女を超えた人間の神経の最も敏感な場所を、執拗に嬲り続ける。

 桜子の頭の中は、もうぐちゃぐちゃだった。

 思考が、感覚の洪水に押し流されていく。

 自分が誰で、誰に抱かれているのか。もう、分からなかった。

 ただ、三人分の汗の匂いと、肌のぶつかる生々しい音、そして、自分の口から漏れ続ける、聞いたこともないほど淫らな喘ぎ声だけが、現実だった。

「……桜子先輩、お声……もっと聞かせてほしい」

 典子が、耳元で囁いた。

「……いつもの綺麗な声で……鳴いてみせてくださいよ」

 その言葉が、引き金だった。

 桜子の内側で最後まで張り詰めていたプライドが、捨てられた。

「あ……ぁ、ああ……っ。ん……んんっ……! あああああっ!」

 それはもはやアナウンサーになるために磨き上げた、明瞭で、美しい声ではない。

 理性の仮面が完全に割れ、その下から溢れ出した、ただの雌としての、むき出しの本能の叫びだった。

 桜子は泣きながら喘ぎ、喘ぎながら、快楽の果てに追い込まれていく。そしてその瞬間、とうとう彼女の唾に濡らされた指が入ってはならないところに入り込み、動き出した時、記憶が飛んだ。

 桜子が金切り声をあげて、二人の間で激しく痙攣した。その瞬間、康太も同時に大きな奔流を放った。永遠に続くかのような浮遊感があり、気を失った。

 その後も三つの体は、いやらしいリズムで痙攣し、熱い飛沫を散らし、シーツの海で何度も波打った。

 典子の声で、目が覚めた。

 彼が典子と繋がっていた。

 桜子に、嫉妬を覚える体力など、もう残っていなかった。誰が、勝者なのか敗者なのかもわからない。

 三人がシーツの中に沈んで、どれくらいの時間が過ぎたのか──。

 最初に身を起こしたのは、典子だった。

 彼女は、乱れたシーツの中から、何事もなかったかのように抜け出すと、床に落ちていたシャツを羽織り、電気ケトルに水を入れ始めた。

 その横顔に、先ほどまでの興奮の色は、もうない。

 次に動いたのは、康太だった。

 彼は、慌てて自分の衣服をかき集めると、一度も桜子と目を合わせることなく、小さな声で「……帰るね」とだけ呟き、逃げるように部屋から出ていった。

 静寂が、戻ってきた。

 ベッドの上には、桜子だけが一人、取り残されていた。

 湯気の立つマグカップを片手に、典子がベッドサイドに戻ってくる。

「……紅茶、飲みます?」

 その声は、ひどく日常的だった。

 桜子は、何も答えなかった。

 ただ、ゆっくりと身を起こし、床に散らばった自分の服を、一枚、また一枚と身に着けていく。

 最後に、部屋の隅にある姿見の前に立った。

 そこに映っていたのは髪が乱れ、頬もやつれ、目元には泣き腫らした跡と、得体の知れない熱が、まだ燻っている知らない女の顔だった。

 ──これが、私。

 誰からも親しまれる仮面を作っていた。

 それを打ち壊されたところにあった、私の知らない私。

 典子は紅茶を啜りながら、桜子の姿を静かに眺めていた。

 その瞳には、全てを見届けた後の、空虚な達成感だけが漂っている。

 桜子は一度だけ、鏡越しに典子と視線を交わして、彼女の部屋を後にした。

 明け方の冷たい空気が、燃えるように熱い頬を冷ましていく。

 あの部屋で、桜子は何かを失った。

 康太との淡い恋と、典子との不思議な友情、そして、自分は理性ある人間だという傲慢なプライドまで。

 彼女の頭に、社会統計学の授業で学んだ言葉が、不意に蘇る。

 ──サンプル数、3。

 あまりに小さく、そして歪な観測データ。

 あの密室で自分たち三人が、一つの社会実験を行っていたような気になってくる。

 そして、不意に浮かび上がる、謎の数式。

 ──N=3÷零れた叫び。

 あの時間、「百合川典子」という強力な触媒──カタリスト──を投入した時、二つの変数──康太と桜子──の間にあったはずの相関関係は、予測不能な外れ値──アウトライアー──を示し、システムそのものが崩壊した。

 統計学は、人間の行動を数値で示す。

 しかし、あの場で数値化できたのは、自分たちの理性ではなく、本能の強度だけだった。

 典子はその数値を観測し、愉しんでいたのだろう。

 けれど、と桜子は思う。

 ──彼女の仮説は、本当に正しかったんだろうか。

 彼女は私たちの仮面を剥がし、本能を暴いた。

 それは、彼女の勝利に見える。

 でも、もし。

 もしも私の本能の数値が、彼女の予測を遥かに上回っていたとしたら?

 観測者であるはずの彼女さえも、あの渦の中では、ただのサンプルの一つに過ぎなかったとしたら?

 答えは、まだわからない。

 データからはみ出し、グラフを突き破る、生々しい熱量そのものを知ってしまった桜子は、それをも内包するデータの組み立て方、言語化に、思考を巡らせていく。

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