四話 辻斬り
外に出ると夜風が頬を撫で、化粧の白粉の感触が消えた肌にひやりと沁みた。
「……やっぱり、ここやったか」
石灯籠の影に、腕を組んで待つ影がある。藤堂平助だった。酔いもいくらか醒めたのか、にやりと笑ってこちらを見ている。
「藤堂はん?」
琴音が声をかけると、彼は軽く顎をしゃくった。
「さっきの芸者はどうした? あの……綺麗な子」
弥生は一瞬言葉に詰まり、喉がひゅっと鳴った。
「……もう先に帰りはりました。さっきお別れしたんです」
どうにか笑みを作ってごまかす。
「そうか……」
藤堂はほんの少し肩を落とし、落胆を隠しきれず苦笑する。
「惜しいことしたな。もうちょい話したかったんだけどな」
琴音はその様子を見て、にやりと口端を上げた。
「藤堂はん、もしよければ……祇園まで送ってくれはる?」
「あぁ、任せとけ。夜道は物騒やしな」
「ちょ、ちょっと琴音……!」
弥生は小声で抗議するが、琴音は知らぬ顔で背を押す。
――こうして三人の影は石畳に伸び、京の夜を歩き出した。
藤堂はどこか上機嫌に口を開いた。
「さっきの芸者の子、ほんま可愛かったなぁ。笑うとこなんか愛嬌あってさ」
弥生の胸がどきりと跳ねるが、顔には出さず素っ気なく返す。
「へぇ、そうなんや」
「藤堂はん、すっかり気に入らはったみたいやねぇ」
琴音はにやにや笑いながら言葉を添える。
「ええなぁ、あんな子に盃ついでもろて」
「せやろ? なかなかおらんで、あんな子」
藤堂は鼻を鳴らして得意げに笑った。
(……あれ、うちなんやけど!)
弥生は唇を噛み、内心で頭を抱える。
ふと藤堂が弥生をちらりと見やり、首をかしげた。
「……でもな。不思議や。なんか、あの子……お前に似とった気ぃするんよ」
弥生の心臓が跳ねる。だが藤堂はすぐ首を振り、苦笑した。
「いや、そんなわけないか。今見たら全然似てへん」
「そりゃ、当たり前やろ!」
弥生は平静を装い、扇で口元を隠して笑った。
その直後、藤堂がふと眉をひそめる。
「そういや……お前、なんで島原におったんや? 女衆が行く場所やないやろ」
弥生は一瞬言葉に詰まるが、すぐに取り繕う。
「琴音の手伝いしてただけです。裏方におっただけやし」
「……ほんとか?」
藤堂はじろりと睨み、鼻で笑った。
「また妙なことに首突っ込んでへんやろな」
「そ、そんなことあるかいな!」
弥生は慌てて手を振る。
横で琴音だけが、面白そうに目を細めて二人を眺めていた。
やがて、すっと立ち止まると、にやりと笑う。
「じゃあ、うちはこの辺でええわ。藤堂さん、おおきに」
ひらりと手を振り、くるりと背を向けて去っていった。
「……あっ、琴音!?」
弥生は思わず声を上げる。
(ふたりきりは……なんだか気まずいな)
「私もここで大丈夫です」
弥生が言うと、藤堂は首を横に振った。
「なんで。お前の家まではまだ距離あるだろ。送ってくよ」
(……まぁ、少し歩いたら着くし。我慢するか)
琴音と別れ、弥生と藤堂は並んで夜の石畳を歩いていた。
「ほんま、あの芸者の子は可愛かったなぁ」
藤堂が軽口を叩くが、弥生は曖昧に笑うしかなかった。
――コツ、コツ。
背後から迫る草履の音に、弥生の背筋がぞくりと粟立つ。振り返る間もなく、闇から二つの影が飛び出した。
「危ないっ!」
弥生は反射的に藤堂の胸を押し、ふたりは土の上を転がった。
「ぐっ……!」
先に身を起こした藤堂が刀を抜き、弥生を庇うように前へ出る。
「すまん……助かった」
次の瞬間、大柄の浪士が迫る。振り下ろされる太刀は地を割るような剛剣で、土煙がぱっと舞い上がった。
「ちぃっ……!」
藤堂は必死に受け止めるが、腕にのしかかる重みは尋常ではなく、額に汗が滲む。
もう一人は細身で、猫のようにしなやかな足取りで弥生へ迫ってきた。口の端から土佐訛りが滲み出る。
「嬢ちゃん、逃げても無駄ぜよ」
その声に、弥生の胸がひやりとした。――どこかで耳にした覚えがある気がする。
藤堂は一瞬そちらを牽制しようと斬りかかる。だが、大柄の浪士がすかさず剛剣を浴びせ、藤堂を釘づけにした。
(今だ!)
その隙をつき、弥生は踵を返して闇の中を駆けだした。
――前方に、提灯の灯りが揺れる。浅葱色の羽織がふたつ。
「助けて――っ!」
必死の叫びに、先頭の男がぴたりと足を止め、鋭い眼でこちらを射抜いた。斎藤一だった。
だが弥生の背後に迫る影。細身の浪士が刀を振りかざした瞬間――。
斎藤は身を沈め、稲妻のような突きで懐へ飛び込む。金属の火花が弾け、細身の浪士はたじろいだ。
「……ちっ、今日はここまでぜよ」
忌々しげに舌打ちし、闇に退きざま、指先をこきりと鳴らしながら姿を消した。
「案内しろ」
斎藤は追わず、振り返る。
「藤堂はどこだ」
「こっちです!」
弥生が先導し、隊士たちと共に駆け戻る。
そこでは、大柄の浪士がなおも豪快な太刀を振り下ろしていた。
藤堂は必死に応じていたが、力の差は明らかだ。最後の一合で肩口を裂かれ、血がぱっと散った。
「平助!」
斎藤の鋭い声が夜気を震わせる。大柄の浪士はわずかに目を細め、刀を収めると仲間とともに闇へ消えた。
残されたのは、肩を押さえて膝をつく藤堂と、荒い息だけだった。
駆け寄ると、藤堂は片膝をつき、肩を押さえていた。衣は裂け、血がじわりと滲む。
「大丈夫か」
「……ちょっとかすっただけだ。すまん、斎藤さん助かった」
藤堂は息を荒げつつも、弥生を振り返った。
「巻き込んじまって……悪かったな」
弥生は胸を締めつけられるようにして首を振る。
「ご無事でよかった……」
「もう喋んな」
斎藤が鋭く制し、隊士に顎をしゃくった。
「屯所まで連れてけ。医者を呼べ」
「はっ!」
浅葱色の二人が藤堂を支え、素早くその場を離れていく。
残された斎藤は、なおも刀を抜いたまま辺りを一瞥した。夜気の奥に潜む気配を探るように、目が光る。
そして静かに刀を収め、弥生へ視線を戻した。
「……助かった。お前が知らせなければ、平助は斬られていた」
弥生は胸の鼓動を抑えきれず、思わず口を開いた。
「あの辻斬り……いったい誰なんです?」
斎藤は眉をわずかにひそめ、低く答える。
「まだ分からん。……何か気づいたことはあるか」
弥生は息を整え、頭の中の光景をたぐる。
「細身の男は……土佐の言葉を話してました」
斎藤の目が細められる。
「土佐……なるほど。地方の名のある浪士かもしれん。調べてみよう」
短く言い切ると、その声音はさらに沈んだ。
「それに……藤堂を斬った大柄の剣は只者じゃない。ここしばらく、奉行所筋や幕府方ばかりが狙われている。……狙いは幕府そのものだ」
弥生は思わず唇をかみ、喉が鳴った。
――京を揺るがす“人斬り”。 その影が、確かに目の前に現れたのだ。
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