乾燥機7番は使わないで
1
引っ越して最初の週末、洗濯機を回してみたら脱水の途中で止まった。
中古で譲り受けたものだ。いつかは壊れるとは思っていたが、こんなに早く来るとは。
仕方なく、スマホで近所のコインランドリーを探す。徒歩七分のところに「白鳩ランドリー」という二十四時間の店があった。
日暮れ前、バスタオルとシーツを抱えて出る。
店は道路から少し引っ込んだ場所にあり、前に自販機が二台、横に細い駐輪スペース。ガラス越しに中が見える。
扉を開けると、柔らかい洗剤の匂い。壁際に洗濯機が並び、奥に大型の乾燥機が三段二列で六台。
正面の壁に青い文字で「ご利用案内」と書かれている。
・夜間(22:00–05:00)はお静かに
・取り忘れ衣類は「たたみ棚」に移します
・5千円札・1万円札は両替機をご利用ください
・乾燥機7番は使用不可(メンテナンス中)
・たたみ台の上に供物・紙類を置かないでください
最後の二行だけ、紙が新しく、文字が濃い。
乾燥機を見やる。右側の上段の扉に「7」と数字。小さな赤いランプが点き、コイン投入口には透明の封印テープ。
その下のたたみ台は白く、真ん中がすこし凹んでいる。
端に小さなガラス瓶が一つ置かれていた。中身は空。底にだけ水の輪が、薄く残っている。
洗濯は三十分で終わり、脱水の甘いタオルを大型乾燥機に入れた。
同じ時間帯に来たのだろう、向かいのマンションの住人らしい年配の女性が、洗濯ネットから子ども服を取り出している。
目が合った。彼女は小さく会釈をして、僕の視線の先を見て言った。
「7番は使っちゃだめですよ」
「ええ、メンテナンス中って……長いんですか?」
彼女は少し考え、首を横に振った。
「長いこと、ですね」
その言い方が、灰色の雲のように心に残った。
2
白鳩ランドリーは、思ったより便利で、すぐ通うようになった。
洗濯機がだめになってから三週間、ほぼ隔日に行く。深夜の静けさが肌に合い、誰もいないときは本を読む。
壁際の掲示板には、町内会の回覧のコピーや、鍵の落とし物、猫の里親募集。
その端に、小さな紙がホチキスで留められていた。
【お願い】
取り忘れ衣類は「たたみ棚」に移します。畳まれていましたらひとことお礼をお願いします。
7番の前では立ち止まらないでください。
夜間、台の上にお水を置かないでください。
白鳩ランドリー
「ひとことお礼を」というのが気になった。誰に?
この店に店員を見たことはない。出入口の横に「管理室直通」というインターホンがあるだけだ。
畳むのは管理会社の人か、近所の誰かか。
たたみ台の端のガラス瓶は、夜になると時々、水が一センチほど入っていた。
誰が置くのか分からないが、朝にはいつも空になっている。
水滴の輪だけが、薄い跡になって残る。
3
ある夜、台風が近づいていた。
風が強く、看板がわずかに震える。
洗濯機の中で回るTシャツとタオルを見ながら、ぼんやりスマホのニュースを流す。
河川の水位、運休の予告、避難準備。
扉が開き、若い男性が駆け込んできた。髪が濡れ、フードから水滴が落ちる。
彼は無言で財布から小銭をかき集め、乾燥機の扉を開け、濡れた服を山ごと投げ入れた。
投入口の数字を見て、僕は口を開きかけた。
「それ、7番——」
言う前に、彼は自分で気づいた。
封印テープを見て手を止め、鼻で息を吐き、隣の「6」に入れ直す。
「すみません」
「いえ」
「ここ、長いんですか。7番」
「長いこと、らしいです」
「メンテ……」
彼は最後まで言わず、コインを入れてボタンを押した。
回り始めた乾燥機の中で、色の濃い布がひときわ目立った。ネイビーのコート。
彼はたたみ台にバッグを置き、しばらく風に濡れたフードを握るようにして立っていた。
その姿が、ガラス越しの雨と重なって、妙に静かに見えた。
4
乾燥が終わらないうちに、彼は電話に出て外に出た。
扉の閉まり際に「すぐ戻るから」という声だけ残した。
数分後、別の女性が入ってきた。向かいのマンションの年配の女性だ。
彼女は店内を一度見渡し、たたみ台の端に目をやる。
水の入ったコップが一つ、置かれていた。誰かがガラス瓶の代わりに使ったのだろう。
彼女はそれをそっと台の下に置き直し、台に片手をついた。
そして、7番の前を見ないようにして、小さく頭を下げた。
僕は口を挟むべきか迷ったが、結局何も言わなかった。
彼女は僕に気づき、いつものように短く会釈してから、洗濯乾燥一体型の方へ歩いた。
外の雨音が大きくなり、店の照明が一瞬、弱くなった。
そのとき、奥の「7番」の扉の縁で、ほんのわずかに空気が動いた気がした。
気のせいだ。封印テープは張られている。回るはずがない。
僕は6番の残り時間を見て、席に戻った。
5
午前一時を回り、雨が弱まった。
乾燥は終わり、僕はバスタオルを畳む。
たたみ台の上に、先ほどの若い男性のネイビーのコートがあった。
誰かが、もう畳んで棚に移したのだ。
畳まれた服の上には、白いメモが一枚。
ありがとうございました
誰の字か分からない。
彼は戻ってきていない。
棚の端に、別の畳まれた束があって、そこには「持ち主不明」とある。
古びたチェックシャツ、色の抜けたジーンズ、薄いストール。
メモの字はどれも似ている。筆圧が弱く、細い。
「ひとことお礼を」
掲示の言葉が頭の中にまた浮かんだ。
僕はタオルの端を揃え、知らない誰かに抜き足で頭を下げた。
6
以降、僕も何度か取り忘れをした。
忙しい夜、乾燥をかけたまま眠ってしまう。
翌日に取りに行くと、たたみ棚の僕の名前のところに薄い紙が挟まれている。
「ありがとうございました」とだけ。
僕は小さな飴玉を一つ、棚の端に置いた。
夜に行くと、飴は無くなっている。代わりに、たたみ台のガラス瓶に底一杯だけ、水が入っている。
誰かが畳んでくれる。誰かが水を置く。
誰という主語が、店の中ではぼやけていく。
7
ある日、掲示板に新しい紙が貼られた。
【お知らせ】
先日の水害により、保管物の乾燥を行います。
関係者の方以外は7番の前に立ち止まらないでください。
期間中、たたみ台に花・紙類を置かないでください。
白鳩ランドリー/管理
「保管物」という言葉が引っかかった。
別の日、店の前を通ったとき、エントランスに小さな花束が立てかけられていた。
包装のビニールに水滴がついている。
誰かが持って来て、置き場所に迷い、ここに置いたのか。
夜に行くと、花はなくなっていた。
台の上は空で、ガラス瓶の底だけ濡れていた。
8
九月の終わり、僕は仕事で遅くなり、店に着いたのは午前零時を過ぎていた。
中には誰もいない。
洗濯を回しながら、ベンチでうたた寝をした。
夢の中で、乾燥機の扉が一つ開き、温かい空気が流れてきた。
花のような、でも少し鉄のような匂い。
目を開ける。実際にはどの扉も閉じている。
時計を見ると、夜の一点が過ぎたところ。
僕は眠気を振り払い、洗濯機から濡れた服を出し、乾燥機の「5」に入れた。
そのとき、7番の前に誰かが立っていた。
水色のレインコートのフードを被った、小柄な人影。
扉を見つめたまま、じっと動かない。
僕は声をかけようとしてやめた。
覗き込むような角度になるのが嫌だった。
その人影は、やがてゆっくりと首だけこちらに向け、フードの影の中で、わずかに頭を下げた。
僕も反射的に頭を下げる。
目を上げたとき、そこには誰もいなかった。
足音もしなかった。
風も、起きていない。
乾燥機の温風の音だけが、均一に続いている。
僕はコイン投入口の赤いランプを見つめ、数秒間、何も考えないようにした。
9
翌日、会社の帰りに通りかかったコンビニの掲示板に、行方不明者の情報提供の紙が貼られていた。
若い男性の顔写真。ネイビーのコート。
台風の日から連絡が取れない、とある。
身長、年齢、最後の目撃場所。
「白鳩ランドリー」とは書かれていない。
でも、コートの色と「最後に誰かに電話をして外に出た」という一行が、僕の腹に冷たいものを落とした。
ポケットの中の鍵が、いつもより重く感じた。
帰りにランドリーの前を通ると、扉の横に新しい張り紙があった。
【お願い】
7番の前では立ち止まらないでください。
呼びかけられても、振り向かないでください。
白鳩ランドリー
紙の端が夜風に揺れた。
僕は中には入らず、その夜は自室で眠った。眠りは浅かった。
10
それから、僕は「7番の前を見ない」ことを覚えた。
店にいる間、視線を少し下げて、必要なものしか見ない。
習慣にすると楽だった。
たたみ台にはときどき紙コップの水があり、朝には消える。
棚に畳まれた服は、どれも端がぴたりと揃っている。
メモには「ありがとうございました」とだけ。
それ以上の言葉はない。
冬の手前、マンションの掲示板に、災害時の避難所の案内が貼られた。
地図の隅に「白鳩ランドリー(洗濯・乾燥可)」という小さな文字。
災害時に開放されるのか、とぼんやり思う。
そのとき僕はまだ、あの店が誰のためにあるのかを、半分も知らなかった。
11
十二月の夜、会社の飲み会で遅くなった。
酔いを覚まそうと歩き、ランドリーに寄った。
店の中は暖かく、乾燥機の前にひとり、中年の男性が立っていた。
作業着の上にダウンベスト。袖口が黒ずんでいる。
彼は7番の前に立ち、手に小さな花束を持っていた。
花は白いカーネーション。
彼はそれをたたみ台に置こうとして、掲示の「置かないで」を見て、そっと床に下ろした。
そして、7番に向かって深く頭を下げた。
長い間。
僕は視線を外し、洗濯機のコースボタンを押すふりをした。
彼が出て行ったあと、花はたたみ台の下から消えていた。
代わりに、台の上に小さな紙が一枚。
ありがとうございます
すぐに乾かします
字はいつもの細い字だが、二行目だけ、少し力が入っていた。
12
年末、繁忙で帰宅が遅くなりがちだった。
ある夜、乾燥を回したまま意識を手放し、家で目を覚ますと朝だった。
慌ててランドリーに行くと、たたみ棚に僕の服がきっちり並んでいた。
上に白いメモ。「ありがとうございました」。
その下に、もう一枚、小さな紙。
夜の間は、台の前に立たないで
短い注意。
ここに通う人への共通の合図のようで、誰に向けられたものでもない。
13
年が明け、雪が降った。
ランドリーの前のタイルは濡れ、店の中の床はマットが敷かれていた。
夜、乾燥機にタオルを入れ、ベンチに座って本を開く。
ページの活字が眠気を誘い、いつしか机に頬が触れていた。
目を開けると、店に誰かがいる気配。
入口のチャイムは鳴っていない。
7番の前に、また人影があった。
今度は子どもくらいの背。
黄色いレインコート。袖が長すぎて手が見えない。
その小さな背が、扉の向こうに向かって、何かを言っている。
「——もういい?」
「まだ」
「あと、どれくらい」
「もうすこし」
二つの声は似ていた。
どちらが外で、どちらが中か、分からない。
僕は本を閉じ、視線を足元に落とした。
乾燥機のコイン残り時間の数字が、2から1へ、1から0へ。
扉は開かず、音だけが止まった。
足音はしなかった。
気配も、すっと消えた。
14
春が来て、町内会の掲示に「河川敷の清掃」と「防災訓練」。
その横に、白鳩ランドリーの小さな紙がまた貼られた。
【おしらせ】
保管物乾燥の予定:4/xx–4/xx
ご協力ください。
乾燥機7番は使用不可(従来通り)
たたみ台に紙・花を置かないで
どこか遠い場所で何かが起き、ここに運ばれてくるのだと、ようやく言葉の輪郭が見えた気がした。
保管物。
ここにあるのは、洗濯物だけではない。
15
四月半ば、僕は珍しく昼間に店に行った。
晴れていて、窓から光が斜めに差す。
中に若い女性がいて、棚の衣類を眺めていた。
彼女は一つの束に触れ、指先で端を撫でる。
束の上のメモには、「持ち主不明」。
彼女はそれをじっと見つめ、何も言わずに手を離した。
出て行くとき、彼女はたたみ台のガラス瓶に、半分まで水を入れて置いた。
昼間なのに、と少し驚いた。
夜にはなくなっているだろうと思った。
実際、夜に来ると、瓶は空で、底の輪だけ湿っていた。
16
五月、洗濯機を新しく買った。
これでランドリーに通う回数は減るはずだった。
でも、習慣はすぐには消えない。
仕事で疲れた夜、僕は理由もなく白鳩ランドリーに立ち寄る。
誰もいない店内、一定の温風、紙コップの水、メモの「ありがとうございました」。
ここに座ると、少し安堵する自分がいた。
その夜、たたみ台の端に小さな封筒が置かれていた。
白い無地、糊付けしていない。
封筒の表に、細い字で一行。
7番は使わないで。ありがとう
誰宛か分からない。
封を開けてはならない気がした。
僕は封筒をそのままにし、乾燥機を見ないまま、店を出た。
17
六月、雨が続いた。
夜、ランドリーに入ると、見慣れない男がいた。
濡れた背広、慌てた手つき。
彼は迷いなく7番の前に立ち、コインを投入口に入れようとして、封印テープで手を止めた。
掲示の「使用不可」を見て、舌打ちをする。
僕は「それ、使えないですよ」と言った。
彼は振り向かない。
代わりに、扉に話しかけた。
「そこにあるやつだけ、乾かしてくれればいい。すぐでいい」
僕は喉が渇いた。
口の中が乾く。
彼の肩越しに、扉の縁で空気がほんのわずかに動いた。
彼はポケットから封筒を出し、たたみ台の上に置いた。
白い封筒。
表に、細い字で一行。
お願いします
そして、彼は扉の前で頭を下げ、店を出た。
扉は開かなかった。
乾燥機の音もしなかった。
ただ、たたみ台のガラス瓶の底に、すこしだけ水が増えた。
18
その晩は眠れなかった。
部屋の天井を見ていると、乾燥機の温風の音が耳の奥に残っている。
朝方、うとうとして、短い夢を見た。
干していたシャツが風で落ち、道路の水たまりに浸かる。
手を伸ばすと、誰かが先に拾い上げ、きれいに絞って、僕の手の中に戻してくれる。
見上げると、誰の顔でもなく、扉だった。
丸い窓に映った自分が、少し笑った。
19
七月、駅前の掲示板にまた紙が貼られた。
行方不明者の情報提供。
年配の女性の顔写真。
「最後の目撃:白鳩ランドリー近く」
服装の欄に「黄色のレインコート」とある。
僕は紙から視線を外し、ランドリーに入らず、その日も自室で洗濯を済ませた。
翌日、仕事帰りに店の前を通ると、扉の横に新しい張り紙があった。
【お願い】
呼びかけられても、返事をしないでください。
前を横切らないでください。
白鳩ランドリー
紙は二重に貼られ、下に古い紙が透けて見える。
昔から、同じことが書かれてきたのだろう。
剥がしても剥がしても、文字が残る。
20
八月の終わり、僕は引っ越すことになった。
仕事で別の支店に移る。
引っ越しの準備をしていると、押し入れの奥から、古いバスタオルが出てきた。
白鳩ランドリーに通い始めたころのもの。
端がほつれている。
新しい街でもきっとどこかのランドリーに通うだろうと思いながら、最後に一度だけ、白鳩に行こうと思った。
夜、店に入る。
乾燥機は静かで、誰もいない。
たたみ台のガラス瓶の底だけが濡れている。
僕はバスタオルを洗い、乾燥機「5」に入れた。
回る音。
五分後、扉が開き、温かい湯気が肩に触れる。
タオルを取り出し、たたみ台に置く。
端を揃え、四つに畳む。
メモ用紙を取り出し、細いペンで書いた。
ありがとうございました
それを上に乗せる。
棚の僕の名前のところに置く。
ささやかな儀式みたいに、台の前で頭を下げる。
7番の前は見ない。
店を出ようとしたとき、入口のチャイムが鳴った。
誰かが入ってくる。
僕は振り向かず、扉に手をかけた。
背中の方で、柔らかい声がした。
「7番は使わないで。ありがとう」
振り向いたら、いけない気がした。
僕はそのまま店を出て、夜の空気を吸った。
湿った風が水の匂いを運ぶ。
靴底がアスファルトを踏む音が、少し遠くから返ってくる。
翌朝、最後の荷物を運び出す前に、もう一度店に寄った。
棚の僕の名前のところは、空になっていた。
メモは消え、代わりに白い封筒が置かれている。
封はされていない。
中に薄い紙が入っている。
細い字で、一行。
すぐ乾きます。行ってらっしゃい
僕は封筒を畳み台の端に戻し、瓶の底に残った水の輪に指を当てた。
冷たくも温かくもない温度。
ガラス越しに、扉の向こうの空気を感じる。
そこには洗濯物だけがあるのではない。
取り忘れたもの、返し方が分からないもの、名前のないもの。
それらが、ぴたりと端を揃えられて、畳まれている。
誰が、ではなく、ここが。
店が、そうしている。
最後に扉に向かって、深く頭を下げた。
7番の前には立たない。
見ない。
呼ばれても返事をしない。
台の上に水を置かない。
覚えたルールを、ひとつずつ心の中でなぞる。
それは、お願いではなく、約束だ。
この店と、この町の人たちと、取り忘れと、乾くことのあいだに結ばれた、小さくて、確かな約束だ。
——扉が閉まる前、背中の方で、乾燥機の温風の音が、ひときわ柔らかくなった。
僕は立ち止まらず、外へ出た。
朝の薄い光が、ポケットの中の鍵に触れて、少し温かかった。
(了)
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