ナイトイベントで告白予定なんですが、東欧系留学生が強すぎて困ってま す!
Nano
第1話 再会の汽笛
入学式の朝、栗原の田園は薄い霧に包まれていた。東北の春は気まぐれだ。夜の冷え込みが残った土がひんやりと湿り、息を吐くと白くほどけてゆく。遠くの畑では水を張ったばかりの水田が鏡になり、まだ芽吹ききらない若草と曇り空を映し込んでいた。線路跡を辿るように走る小道を歩くたび、霜の残りが靴底で軋み、鼻腔には金属と土が混じった匂いが広がる。
木造の旧駅舎が姿を現した。幼い頃、毎日のように駆け回り、秘密基地と称して遊んだ場所だ。改修されて看板は「くりはら鉄道学園」に変わっている。だけど、柱に刻まれた傷も、雨に濡れるたび微かに錆びの匂いを漂わせる木造デッキも、あの頃の面影を残している。
胸ポケットの内側で、小さな金属片が揺れた。廃線レールを磨いて作ったペンダント。指先で触れると、冷えていた金属が体温を吸い上げ、ゆっくりと温もりを帯びる。俺――佐藤鉄平は、深く息を吸い込み胸に空気を溜めた。列車が発車を待つときのように、鼓動が一定のリズムを刻む。
駅舎の前には、すでに何人かの新入生が集まっていた。お揃いのネクタイに、まだ着慣れないブレザーがぎこちない。朝露で濡れた芝を踏む心理的なくすぐったさと、新しい毎日の始まりに対する期待が入り交じる。
「鉄ちゃん! 霧の中から出てくるとか、まるでヒーロー登場だな!」
背中をどんと押され、ほんの少しよろける。振り返れば、丸眼鏡を曇らせた若柳健が腕を広げていた。彼はいつも陽気で、誰より声が大きい。
「おい、まだ式前だぞ。ネクタイが曲がる」
「細かいこと気にするなって! ほら、このパンフレット見てくれ。実行委員の先輩から頼まれて、俺が昨夜レイアウトを仕上げたんだ。駅舎を背景にして、『未来の鉄路、ここに開通』ってキャッチを入れてあるんだぞ!」
健が差し出したパンフには、旧駅舎の写真が大きく印刷され、その前に立つ学生のシルエットが描かれていた。職人肌の彼が徹夜で描いたにしては珍しく柔らかい色使いだ。
地元の中学鉄研ごと準備を手伝ってきた健が仕上げたとあって、紙面には地域の期待がにじんでいる。
「配る予定か?」
「もちろん。今日来てくれる地元の人にも配るんだ。俺たちの鉄道、ちゃんと見せないとな!」
健の後ろから、タブレットを掲げた沢辺拓也が近づいてくる。常に時間と数値に厳しい鉄道マニアだ。
「鉄平、点呼まで二十六分二十秒。それまでにシミュレーター室の起動チェックと、今日の行事の流れを確認しておきたい」
「朝から相変わらずだな。分かった、式のあとに行こう」
「忘れるなよ。午後の見学ツアーで列車制御室を案内する担当は津久毛だからな。集合に遅れそうで今、寝坊しかけて全力ダッシュしている」
言われたとおり、駅舎の向こうから息を切らしながら津久毛亮が駆けてきた。逆さまに被ったキャップを押さえつつ、俺たちの前でブレーキをかける。
「ま、間に合ったっすか?」
「ギリギリセーフだ。滑ってこけるなよ」
「了解っす! いやー、制服着たまま全力疾走すると暑いっすね」
そんな会話をしていると、旧駅舎の扉が開いた。薄緑色の光が差し込み、霧を裂いて誰かが現れる。
「……鉄平?」
澄んだ声。幼い頃から耳に馴染んだイントネーション。振り向くまでもなく分かる。鈴木あかりだ。
高鳴る鼓動をなだめながら振り向く。霧の向こうで、彼女は制服のスカートを丁寧に整えながら立っていた。黒髪は以前より少し長く伸び、朝日を受けて艶やかに光る。都会の名門校に編入してから数年、LIMEで回ってきた近況写真よりもずっと落ち着いた雰囲気を纏っていた。それでも、いたずらを思いついたときに一瞬だけ目尻が柔らかくなる癖や、話す前に息を吸い込む仕草は変わらない。
「久しぶり。遠くの名門校に行ったお嬢様が、まさか帰ってくるとは思わなかったよ」
「もう、その言い方。……でも、ここでまた会えたね」
彼女が数歩近づく。胸の鼓動が波打つ。あかりの視線が俺の胸ポケットへ落ちる。
「まだ持ってたんだ、そのペンダント」
「あたり前だろ。約束、忘れてないから」
小学生の頃、赤木造人の裏庭でノコギリを片手に奮闘していたあかりの姿が頭に浮かぶ。指を切って泣き笑いしたあの日も、夕暮れのホームで未来を語り合った日も、昨日のことのようだ。
「ごめん、ちょっと触ってもいい?」
頷くと、彼女はそっとペンダントに触れた。指先が震えている。都心での生活の中で、誰にも頼れず自分を律していたと話す彼女の緊張が指先に表れているように感じた。
「東京の学校、きっと大変だったろ」
「うん。周りがすごくて、私、背伸びしてばっかりだった。帰ってきたくても、簡単には言い出せなくて……。でも、鉄平がここで頑張ってるって聞いて、負けてられないなって」
健がニヤニヤしながらこちらを覗き込む。「おお、幼馴染ムーブ! 見せつけてくれるじゃん」。沢辺は呆れたようにメガネの位置を直し、津久毛は真っ赤になって目をそらした。
そこで突然、古びたスピーカーからアナウンスが響いた。
『新入生は旧ホームに集合。これより入学式を開始する』
俺たちは慌てて列を整え、木製の階段を上ってホームへ向かう。欄干の金属が朝露で光り、板張りの床が湿気を含んで僅かに軋む。
ホームには真鍮の汽笛鐘が吊るされていた。新しい命を吹き込まれたように磨かれ、柔らかな光を放っている。田中浩一学園長が旧駅員の制帽を被り、穏やかな笑みで立っていた。
「諸君。今日から君たちは、廃線を未来へ繋ぐ鉄路の守り手だ。汽笛を鳴らし、新たな一日の開通を宣言しよう」
学園長の声は低く、温かかった。呼びかけられ、俺とあかりが前に進む。幼馴染のふたりに与えられた最初の役目。それだけで胸がいっぱいになる。
「せーのでいこう」あかりが囁く。「せーの」で縄を引く。
澄んだ音が霧の中へ広がった。鐘が鳴る一瞬、子どもの頃の記憶が鮮やかに蘇る。石ころを集めて線路に並べ、列車ごっこをしていた頃。あかりが持ってきた手作りの切符。約束の桜並木。
鐘の余韻が消えると、拍手が湧き起こった。健が親指を立て、沢辺は画面に記録時間を刻み、津久毛は「すげー……」とぽつりと漏らす。ホームの端には、見慣れない制服姿のふたり――金髪のエヴァと、銀髪のナタリアが興味深そうにこちらを見つめていた。これから共に学ぶ留学生たちだ。
入学式が終わる頃には霧も晴れ、空には淡い春の青が広がっていた。式場から出て、健たちが興奮気味に声をかけてくる。
「お前ら、最初から飛ばすな! あの鐘の音、最高だったぞ!」
「鉄平、午後のシミュレーター確認、忘れるなよ」沢辺がタブレットを掲げる。
「俺も行きますっす!」津久毛が勢いよく手を挙げ、足元の泥で滑りそうになり健に支えられる。
あかりが袖をそっと引いた。
「鉄平、放課後、桜並木に行かない? 久しぶりに、昔みたいに歩きたい」
今度は心から笑って頷けた。「夕方、またここで」。
汽笛の音がまだ耳に残る中、春の光がホームを満たしていた。俺たちはこれから、何度でも汽笛を鳴らすだろう。その最初の一歩を、幼馴染だったあかりと一緒に踏み出した。
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