蒼い月の下で、明けない夜を待つ

長谷川昏

1.廃屋の男

1.少女と店主

「ただいま」と言って戻れる場所があることはいいことだと、蒼ヶ月あおがつきしゅうは思う。


 その場所がたとえば家と呼ぶには少し環境が悪い所にあったとしても、その家の環境自体がややよくない状態にあったとしても、戻ってもいいと許される場所があることは何よりも安堵できることだった。


「おかえりー」

 その声が家の奥から届く。

 柊は引き戸を閉めて、声の方に歩み寄る。

 一年半前、ある経緯を経て身を寄せることになったのは、『霧雨堂きりさめどう』という骨董店だった。いや骨董店と呼ぶには〝本物の〟骨董店にかなり申し訳なく、がらくた屋と表現した方がたぶんいい。

 店の中はあちこちから寄せ集めたなんだかよく分からない品で溢れ、鬱蒼としている。そのせいで昼間でも室内は薄暗く、築七十年の家屋であることを差し引いてもやはり暗い。当時の建築状況を踏まえれば多少は仕方がないと言えることなのだが、申し訳程度の明かり取り窓も結局それらのよく分からない品々で塞がれているから、この状態に陥るのも至極当然と言えば当然だった。


「ちょうどいいところに帰ってきたな、柊」

 声の主であり、ここの主でもある久夜ひさよ吟次ぎんじが店の奥から顔を覗かせた。

 その顔にはにんまりとした笑みが浮かび、柊はそれにはいやな予感しかしない。

 彼にはここに居候させてもらっている恩もあり、この店で雇ってくれているという主従関係もある。今から繰り出される話が八割方仕事関係だと思うし、そう願いたいが、そうでない場合も些か想定される。

 一番望まないのはこの近くで探偵業を営む瀬戸寺せとでらという男の元に使いに行かされることだった。その男のことを完膚無きまでに嫌っている訳ではないが、好感度はかなり微妙な位置にて継続状態にある。会えば身の危険を感じることが多々あり、彼を避けたり、会うこと自体を回避するのは必然的自衛策だった。


「それ、どんな用件ですか? 久夜さん」

 柊は恐る恐る訊ねる。

 久夜は再びにんまりと笑うが、にんまりと言っても彼が見せるものは決して醜悪なものではない。

 久夜は二十代半ばほどに見えるかなりの美男子だった。着古したシャツに色褪せたジーンズ、もしくはくたびれた作務衣をいつも身につけ、足元はいつも擦り切れた下駄。僅かくせのある髪もわざとそうなのかいつも伸びっぱなしで、どうにも適当な感じだが、全体的にそんなずぼら感が漂っていても色気のある美形さは霞んでいない。

 近所にある女子校に通う生徒達が、彼の姿を見るために店の前を行き来するのを見かけたことがある。彼女達の目に映るものの否定はしないが、皆見た目に騙されているのは確かだと柊は思う。


「何、どうした? そんな警戒して」

 そのようなことを腹で考えていたのを察したのか、久夜が訊く。柊はいつものように平静を取り繕って答えた。

「いえ、別に」

「なーに怯えてんだよ。もしかして俺が無理難題を言うとでも?」

「ええ、まぁ少しは」

「あのなぁ……俺がお前に何かを強いたことなんかあるか?」

「それについてはないとは言いません」

「そうかぁ? なんだか俺達の間にはまだまだ色々と誤解があるようだな。俺はいたいけで生真面目な十七才の少女を、それはそれは蝶よ花よと盛り立てて、ものすごーく大事に扱ってるつもりなんだけど」

「今の言葉全てを肯定はできませんが、大事にしてもらっていることは認めます。ここに住まわせてもらって働かせてもらって感謝してます」

「だろ? だからそういうことなんだって。つまりは俺が無理難題なんか言う訳がないってことに全てが繋がってくんだよ。なぁ柊、俺のこの目を見てみろよ。すんごく誠実だろ? まぁ本当はこんなこと言わなくても、ちゃんと伝わってんだろうとは思ってるけどな」


 柊は相手の顔を見返しながら、次の言葉を続けられず黙った。

 何かを言おうとしていたのは確かなのだが、全てが急激に意味のないことのように思えてきた。

 今彼が見せた表情は、昨日一見さんのお客に店の奥でずっと埃を被り続けていた壺を売りつけていた時のものと、酷く似ている。

 こののらりくらりとした男には何を言っても勝てない。いつも自分が全力で回避するあの瀬戸寺でさえ、拮抗する可能性は僅か残すもののたぶん勝てない。


「……それで久夜さん、さっきの用件は?」

 なんとなく承諾した振りをして柊は話を元に戻した。久夜は思い出したような顔をすると表の方に目を向けた。

「えーと柊、それじゃ今からドライブな。竹繁町たけしげちょうの方。なんか掘り出し物があるんだってさ。そういう電話があった」

「そうなんですね、分かりました」

「それでちょっと遠出になるし、帰りはどこかでメシ食って帰ろうか。掘り出し物があるっていうなら金も入るだろうし、思いきって水銀亭すいぎんていのステーキとか」

「久夜さん、そんな取らぬ狸の皮算用はやめてください。もし外で食べるのだったら吉田屋の牛丼でいいです」

「ええー、どうせならもっといいもの食ってみようとか考えてみたらどうだよ、柊。ほら、水銀亭ならちょっとしたデートみたいだし」

「デートはしなくていいです。それと久夜さん、今思い出したのでついでに言っておきますが、夜中に人の布団に入ってくるのはやめてください」

「ああ、そのこと? それはさぁ、俺も時には人肌恋しい日があってさ。それに布団には一緒に入ってるだけで何にもしてないだろ?」

「何もしないのは当然ですが、それでもやめてください。この際だから強く言っておきますが、一体何なんですか、あれ。私は人肌恋しい時用の電気毛布でもないですし、それ以前に久夜さんの恋人でもないですし、そうなる予定もないです。全く意味が分かりません。大体久夜さんは……」

「あーあー、分かったって、もう二度としないしない。ほら柊、いいから暗くなる前に出発出発」


 続けようとした言葉は遮られ、久夜に背を押され流されるように店の外に押し出される。隣接する駐車場にさっさと向かうその後ろ姿を柊は仕方なく追うが、たぶん久夜は途中で弁明するのが面倒臭くなったのだと理解する。


 全体的に適当でだらしないところも多々あり、ついでに時に嘘つき。

 でも自分を〝あの場所〟から救ってくれたのは彼で、自分がいても許される場所を作ってくれたのも彼であるのは、揺るぎない事実だと柊は思う。

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