第45章 ―― 崩れ落ちた後の静寂

玉座の間には、重く張りつめた沈黙が広がっていた。

その静けさを破るのは、ただ一人――長子の王子の、痛みに満ちた悲鳴だけだった。


切り落とされた腕からは血が溢れ、赤い水たまりを作って床を染めている。

揺れる松明の光がその血を照らし、まるで罪そのものが形を持ったかのようだった。


「うああああっ! この化け物めぇぇっ!」

王子は床の上でもがき、絶叫した。


ヘイタンは荒い息を吐きながら、剣を握ったまま立っていた。

その表情には勝利の喜びなどなく――ただ、深い疲労と哀しみが宿っていた。


彼は一人の衛兵を見据え、低く命じた。


「止血を施せ。」

「……出血で死なせるわけにはいかん。まだだ。」


衛兵たちは慌ただしく布を裂き、王子の断ち切られた腕に巻きつける。

苦痛と憎悪に歪んだ顔で、王子は叫び続けた。


「見ろよ! この俺をどうしてくれる! あの忌々しい奴がやりやがったんだ!」


その怒声を、静かに見つめる影があった。

メアリ――彼女はゆっくりと視線を横に向け、床に倒れ込むローズを見下ろした。


その目は、もはや姉妹の情を映していなかった。

あるのは、冷たく透き通るような蔑み。


「もうわかったでしょ、ローズ?」

メアリはゆっくりと歩み寄りながら言った。

「逃げ道なんて、もうどこにもないの。」


「あなたの終わりは――ここでよ。」


ローズの肩が震える。

汗に濡れた顔、見開かれた瞳。

一瞬、彼女の中に諦めの色が見えた。

だがその代わりに、狂気が芽吹いた。


テーブルの上にあった水差しを掴み、彼女は叫びながらそれを投げつけた。

冷水がメアリの頬を打ち、ドレスを濡らす。

続けざまに、ローズはその水差しを床に叩きつけた。

砕け散った陶器の破片のひとつが、彼女の手に収まる。


「メアリィィィッ!」

「全部うまくいってたのよ! あんたさえ来なければ!」

「全部、全部あんたが壊したのよっ!!」


衛兵たちが動こうとした瞬間、メアリは片手を上げて制した。

その動作は、王家の者としての威厳に満ちていた。


「手を出さないで。」

「――彼女は私の姉よ。私の手で終わらせる。」


ローズの笑い声が響く。

それは歪み、涙と憎悪と狂気の入り混じった声だった。


「ふふ……あんた、自分が正しいとでも思ってるの?」

「でもね、これで終わるのは――あんたの方よ!」


叫びながら、ローズは突進した。

手にした鋭い破片が、暗い光を放つ。


だが、その瞬間。

メアリの身体は反射的に動いていた。


世界がゆっくりと流れる。

視界の中、迫る刃先だけが鮮明に見えた。


――ヘイタンとの訓練の日々が脳裏に蘇る。

穏やかで、力強い声。


『敵の力を拒むな。流れを掴め。受け流し、返せ。』


次の瞬間、メアリの身体がしなやかに動いた。

刃をかわし、ローズの手首を掴み、関節をねじる。


乾いた音。

破片が宙を舞い、床に落ちて転がった。


「ぎゃっ……!」

ローズは崩れ落ち、悲鳴を上げる。

腕を押さえ、涙に濡れた顔を歪めた。


「どうして……どうしてこんな結末に……?」


メアリは静かに息を整え、見下ろした。

その瞳には、もはや怒りの光はなかった。

ただ――深い疲れと、静かな決意だけが残っていた。


「悪は、いずれ自らを滅ぼすの。」

冷たい声が玉座の間に響いた。


その時、ヘイタンが歩み寄る。

その威厳ある姿に、場の空気が震える。

血で濡れた腕を押さえながら、彼は低く命じた。


「二人を拘束しろ。」

「夜明けとともに、裁きを受けさせる。」


衛兵たちが近づき、王子とローズに鎖をかけた。

二人は叫び、暴れたが、それもすぐに虚しく終わる。


鎖の音が響く。

それはまるで、一つの時代の終わりを告げる鐘のようだった。


メアリはただ、静かに見つめていた。

彼らが連れ出されるその背中を――もう二度と戻らない影を。


ヘイタンが近づき、低い声で言う。


「……終わった。」

「これで、王国はようやく息をつける。」


メアリは小さくうなずき、目を伏せた。

視線の先には、誰も座っていない玉座。


――血にまみれた罪が消えたその場所に、

ようやく静寂だけが残った。

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