第38話


その朝、ヘイタン城は異様な静けさに包まれていた。

外では鳥たちさえも鳴くのをやめ、重い雲が空を覆っている。

閉じられたカーテンの隙間から薄暗い光が差し込み、遠くで聞こえる衛兵たちの話し声は、厚い石壁に吸い込まれていった。


メアリー・アルトリアは、胸の鼓動を押さえながら廊下を駆け抜けた。

噂はすでに耳にしていた。だが、自分の耳で確かめなければ信じられなかった。


執務室の扉を開けると、ヘイタン・アルトリア王子が窓辺に立っていた。

彼の背中は静かに雨の音を受け止めており、外の景色は白い霧に覆われていた。


「……それで、本当なのですか?」

メアリーの声は震えていた。

「国王陛下と王妃様が……そして今、新しい王が……」


ヘイタンはゆっくりと振り返った。

その瞳には決意と諦観が混ざっていた。


「……ああ、真実だ。」

彼の声は静かだったが、その響きには重みがあった。

「クーデターは正式に成立した。兄上が王座に就いた。」


メアリーは拳を握りしめ、怒りが喉の奥から込み上げた。

「そんな馬鹿なことが……!」

彼女の叫びは震えていた。

「両親を手にかけた人間が……王として崇められるなんて!」


ヘイタンはゆっくりと歩み寄り、彼女の肩に手を置いた。

その手は力強くも優しかった。


「心配はいらない、メアリー。」

彼の声は穏やかだった。

「こうなることは、最初から覚悟していた。」


「覚悟……?」

メアリーは彼を見上げた。

「こんな状況で、どうしてそんなに冷静でいられるの?」


ヘイタンは深く息を吐き、机の上から封蝋された厚い封筒を手に取った。

「もう動き始めているからだ。」

「今朝、密偵たちが証拠を届けてきた。書簡、記録、そして裏取引の文書。兄上とローズが仕組んだ全ての証拠がここにある。」


メアリーの目が見開かれた。

「じゃあ……真実が、王国中に知られるのね?」


「徐々にな。」

ヘイタンは窓を開け、曇天を見上げた。

「すでに民の間では噂が広まっている。多くの者が気づき始めている——これは“王の即位”ではなく、“簒奪”だと。」


メアリーの表情にわずかな安堵が浮かんだが、すぐにその影は不安に塗り替えられた。

「……私にできることは?」

彼女は一歩前へ踏み出し、瞳に決意の光を宿した。

「見ているだけなんて、もうできません!」


ヘイタンはその強さを見つめ、ゆっくりと頷いた。

「できることがある。」

「君の父上の爵位は、今や君のものだ。その名と影響力を使え、メアリー。まだ正義を信じる者たちを集めるんだ。」


短い沈黙の後、メアリーは深く息を吸い、頷いた。

「……分かりました。」

「父の名にも、この国にも、恥じない行動をします。」


ヘイタンは部屋の隅にある武器箱を開いた。

中には磨き上げられた剣が並んでいたが、その中の一本だけが特別な光を放っていた。

銀色の柄には王家の紋章が刻まれ、刃は淡く青く輝いている。


ヘイタンは慎重にそれを取り出し、メアリーに差し出した。

「これを。」

「これは、王城を守るために命を捧げた近衛の剣だ。今度は、もっと大きな使命のために使ってほしい。」


メアリーは一瞬ためらったが、両手で剣を受け取った。

冷たい金属の感触が手のひらに伝わり、不思議と心が落ち着くのを感じた。


ヘイタンは腕を組み、彼女をまっすぐに見つめた。

「覚悟しておけ、メアリー。」

「俺たちはもう“反逆者”として狙われる立場だ。新王の軍が、いつ攻めてきてもおかしくない。」


メアリーは小さく息をのみ、そして微笑んだ。

その笑みには恐れよりも決意が宿っていた。

「……なら、戦いましょう。」

「この国のために。失われた命のために。そして、まだ救える未来のために。」


ヘイタンの口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

それは、クーデター以来初めて見せた穏やかな表情だった。


「だからこそ、俺は君を信じる。」


メアリーが剣を鞘に収めると、遠くで雷鳴が轟いた。

雨脚が強まり、城の中庭を洗い流すように降り注ぐ。

まるで天が、この国の運命を嘆いているかのように。


——そしてその瞬間、メアリーとヘイタンは無言のうちに誓いを立てた。

それは、王国を取り戻すための“抵抗”の始まりだった。

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