第32話



森の奥に、獣の咆哮が轟いた。

地面が震え、葉がざわめき、子どもたちは恐怖と興奮の狭間で息を呑んだ。


「び、びびるな!僕がいる!」

第一王子が叫んだ。震える声を隠すように胸を張る。


彼は地面に落ちていた太い枝を掴み、まるで剣のように振りかざした。

「僕はこの国の第一王子だ!この獣を倒してやる!」


その瞬間、イノシシはさらに大きな咆哮を上げ、突進してきた。

第一王子の顔から血の気が引く。

次の瞬間、彼は踵を返し、叫びながら逃げ出した。


「逃げろ!みんな逃げろーー!!」


ローズは悲鳴を上げ、ヘイタンの腕を掴んだ。

「ヘイタン!あの木に登ろう!」

必死に彼を引っ張り上げる。


二人は慌てて木をよじ登った。手は震え、息は荒く、下ではメアリーが倒れた幹の裏に隠れようとしていた。

イノシシが木に体当たりするたび、枝葉が激しく揺れる。

恐怖が、幼い心を飲み込んでいった。


ローズは涙を流しながら叫んだ。

「来るよ!来るよ!もうダメだぁ!」


ヘイタンは必死に落ち着かせようとしたが、自分の手も震えていた。

枝を握る指先が、冷たく汗ばんでいる。


そして――恐怖に飲まれたローズは、思わず彼を押しのけた。

「どいて!もっと上に行かせてよっ!」


バランスを崩したヘイタンは地面に落ち、鈍い音を立てて倒れた。

彼の脚には深い傷が走り、血が滲む。

イノシシは鼻息を荒くしながら、彼に狙いを定めた。


「ヘイタン!!」

メアリーが叫んだ。


彼女は隠れていた幹の陰から飛び出し、恐怖も忘れてその前に立ちはだかった。

小さな体を広げ、両手を広げて叫ぶ。


「やめて!行って!お願い、もう行ってよ!!」


震える声だったが、その瞳は真っすぐだった。

イノシシは一瞬、戸惑うように足を止めた。

そのまま低く唸り声を上げ、森の奥へと走り去っていった。

残ったのは、遠ざかる蹄の音と、木々のざわめきだけだった。


ローズは木から降り、泣きながら駆け寄った。

メアリーはヘイタンの腕を肩に回し、必死に支えながら言った。

「大丈夫? 立てる?」


「……ちょっと痛いだけ。」

ヘイタンは歯を食いしばりながら、涙をこらえた。


少し遅れて、埃まみれの第一王子が数人の護衛を連れて戻ってきた。

息を切らしながら、あたかも助けを呼びに行っていたかのように装って。


そして大人たちが駆けつけると、その場で子どもたちは厳しく叱責された。

だが――本当の罰は、その夜に訪れる。


夜。

屋敷に戻ったメアリーとローズを、父親が重い表情で待ち構えていた。

机を叩きつける音が響く。


「お前たちは、何を考えていたんだ!」

怒号が広間に響く。

「もし王子に何かあったらどうするつもりだった!?家の名がどうなるかわかっているのか!」


二人は俯いたまま、何も言えなかった。

メアリーが口を開きかけたが、父の怒声がそれをかき消した。


やがて、沈黙。

外では雨が降り出し、その音が屋敷全体に重くのしかかった。


しばらくして、侍女たちが部屋に入り、メアリーの手当を始めた。

その中の一人が、小声でつぶやく。

「この子だけはマシね。母親の財産を受け継いだし……あの自殺した貴婦人の娘。少なくとも使い道はある。」


言葉は刃のように空気を裂いた。

廊下を通りかかった継母の耳にも、その言葉が届いた。

そして――その目に宿ったのは、濁った憎悪の光。


ドアが勢いよく開かれた。

継母は怒りに満ちた顔で入ってきて、ローズの腕を掴むと隣の部屋へと引きずっていった。

扉の音が、冷たく閉まる。


「この出来損ないがっ!」

乾いた音とともに、平手が頬を打った。

ローズはベッドの上に倒れ込み、顔を押さえた。


「あなたのせいで!全部台無しになるところだったのよ!」

継母の声は、怒りというより恐怖に満ちていた。

「二度と……二度と、王族の前で私に恥をかかせるんじゃない!」


再び、音が響いた。

痛みよりも、胸の奥に沈む言葉が、ローズの心を裂いた。


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