第9話
第二王子の城までの旅は、本来なら一日で終わるはずだった。
馬車の揺れと蹄の一定のリズムが、メアリーの思考を包む音楽のように響いていた。
彼女は繊細な羽ペンを手に取り、日記に文字を綴っていた――新しい人生で必ず続けようと決めた習慣だ。
「忘れてはいけない。一つ一つの出来事が、武器にも…弱点にもなる。」
ページの合間には、自らへの戒めが並んでいた。
盲目的な信頼、妹の前での油断、過去の人生で自分を見捨てた者たちを忘れること――それらすべてを記し、魂に刻むようにインクで残していた。
空が暗くなり始めたその時、不意に鋭い音が空気を切り裂いた。
――ドスッ!
矢が馬車の側面に深く突き刺さる。
御者は目を見開き、手綱を強く打った。
「しっかり掴まってください、メアリー様!」
馬車は急激に加速し、景色は一瞬で流れる影となった。
メアリーの心臓は荒々しく鼓動し、必死に体勢を保つ。
「盗賊…? いや、違う。ここは王子の城のすぐ近く。こんな場所で誰が…?」
頭の中で次々と仮説が浮かぶ。
第二王子の敵が、自分を人質に取ろうとしているのか。
それとも…ローズの影がここまで伸び、到着前に自分を葬り去ろうとしているのか。
考える間もなく、新たな矢が飛んできた。
ヒュンッ、と風を裂き、一本は小窓をかすめ、メアリーは思わず身を縮める。
その直後、さらに重い衝撃音が響いた。
――ドガッ!
巨大な弩弓の矢が、先頭の馬の一頭を貫いた。
馬は倒れ込み、他の馬も巻き込みながら馬車は制御を失う。
「きゃあああっ!」
世界が回転し、メアリーは悲鳴を上げた。
木製の車体が激しく傾き、彼女は壁に叩きつけられる。
御者は宙に投げ出され、骨と土の砕ける音が混じり合う。
やがて馬車は停止した。
メアリーは床に倒れ込み、口の中に鉄の味を感じる。
こめかみが激しく痛み、触れた指先は赤く染まった。
外からは男たちの怒鳴り声が響く。
彼女は深く息を吸い込み、出発前に衣服の内に忍ばせた小さな短剣を抜き取った。
「私はもう、屠られる羊じゃない。二度と…。」
ドンッ、と扉が蹴破られる。
仮面をかぶった黒装束の男が現れた。
メアリーは反射的に身を躍らせ、短剣を突き出す。
だが、その刃が届くより先に、閃光のような鋼が視界を横切った。
馬上の騎士が飛び込み、その剣は仮面の男を切り裂き、よろめかせた。
続いて、もう一人の姿が現れる。
若く、引き締まった体躯、鋭い眼差し。そして権威を帯びた声。
「メアリー! 今すぐ私のもとへ!」
手を差し伸べたのは、第二王子だった。
メアリーの胸は揺れる。
疑うべきか、救いを求めるべきか。
それでも足を動かした――が、眩暈が強く、視界が揺らぐ。
「だ…め……」
言葉が途切れ、身体が崩れ落ちる。
地面に触れる前に、力強い腕が彼女を抱き留めた。
王子は固く抱きしめ、その瞳は烈火のように燃えていた。
「しっかりしろ、メアリー! 必ず助ける!」
意識は闇に沈んでいく。
最後に耳に届いたのは、王子の叫びだった。
「治癒師を呼べ! 急げ!」
そして、世界は静寂に包まれた。
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