だからその声で抱いて
華周夏
《第1話》朱鷺Side①:① プロローグ
『忘れなさい。怖かったね。忘れるんだ。悲しいこと、つらいこと、苦しいことは全部。ほら、口を開けて──』
薄暗い部屋。グランドピアノ。何故か悲しそうに微笑む、ぼやけた輪郭の男の人。たまに見る、夢。
嫌だ、嫌だと、泣き叫ぶ僕。
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『朱鷺、忘れないで。誰も悪くないのよ。仕方ないの。仕方なかったの。誰も、恨んじゃダメよ。お母さんは、笑った朱鷺の顔が好き』
やさしい丸い字の紙。綺麗に磨き上げられた広いキッチン。再開はベッド。病院の消毒液臭い嫌な臭い。横たわる男の人と女の人。滅多に見ることのない、夢。
嫌だ、嫌だと、泣き叫ぶ僕。
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寝汗をぐっしょりかいて、寝返りをすることも忘れて起きる。昔から見る夢。
「最近見なかったのに……」
そう独り呟き、僕はTシャツを脱ぐ。初夏の朝だというのに。その日は湿度が肌に纏わりつく様な暑さだった。風が、雨の予感を感じさせた。朝ご飯を作り、食べる。お祖母ちゃんが、歌を勉強しに東京に行くと、僕が言い出したことを思い出す。
「歌も大切だけど、健康第一。食べることは生きることだ。でもただ食べるよりなるべく手をかけなさい。料理も音楽も一緒。努力は裏切らない。裏切られたら──そうだね。家の喫茶店を継ぐといい。でも逃げ道を用意するつもりはないよ。みっちり料理を叩きこむからね」
頑張りなさい。そうお祖母ちゃんが微笑って言っていた。お祖父ちゃんは軽く涙ぐむ、お祖母ちゃんの肩を抱き、寂しそうに笑った。
僕には両親がいない。憶えていない。レストランを開いていたけど、この不景気。店は斜めになり、祖父母が細々やってる喫茶店を手伝っていた。けれど、雪の中、事故に遭った。
「子供は知るもんじゃねぇ」
僕は、事故について訊くと、お祖母ちゃんはそう言った。ショックだったせいか、僕は両親の記憶が消えてしまった。『解離性健忘』と言うらしい。ただ、愛されて育ったことは記憶にはなくても、憶えている。
自転車で大学に向かう。視線を横に移すと桜並木は青々としていた。季節ごとに装いを変えるこの道を、僕は気に入っている。紅葉が楽しみだ、と思う。いつもは早起きして学校の傍の教会に行くけれど、今日は寝坊してしまった。いつもは入口の守衛さんにお願いして、特別に朝と夕方、人がいないときだけ歌とピアノを練習させて貰っている。
今日は少し、楽しみにしていることがある。憧れの香織先生のピアノのレッスンがあるからだ。自転車で上機嫌で風を切る。僕はもう今日見た夢なんか忘れている。
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今日は「この調子で頑張ってね。深谷くん」と言う香織先生の笑顔を収穫し、残りの授業を消化する。
教会に寄り、おじいさんに挨拶をする。許可をとり、歌の練習をする。この時間だけ、僕はこの空間を声で独占する。一番幸せな時間。
あっという間に陽が暮れてしまった。段々と空に雲が増えていく。『降られないといいけど』と思いながら足早に守衛さんに挨拶を済ませ、教会を後にする。
自転車置場へ向かう。何だか右手が軽い。大学の練習室に楽譜を忘れたことに気づく。普段ならそのまま帰るけれど、明日の授業で使うので、どうしても戻らなければならなかった。仕方なく北の校舎へ向かう。薄暗くて、人がいない。言いたくないけど、オバケが出そうで少し気味が悪い。薄暗く、少し湿気っぽい。楽譜は簡単に見つかった。ほっとし、帰路を急ぐ。
そんな時だった。練習室の一つから人の声が聴こえたのは。熱と吐息が絡み合う声だった。覗いてはいけないと思った。けれど好奇心は自制心を簡単に押し退けてしまう。僕はそっと扉の隙間から目を凝らした。
「ダメじゃない、人が来たらどうするの?」
「でも香織さん、こういうの好きでしょう?」
椅子に座りながら抱き合う香織先生と眼鏡の男の人。口づけと情事特有のため息を絡ませながら、男の人は香織先生のベージュのシャツのはだけた白い胸に顔を埋める。昼間に綺麗に結い上げられた香織先生の髪は乱れていた。
────────next Episode
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