第29話 ウィルヘルム 隠し牙
ウィルヘルムが目を開けると、そこは広い空間だった。
玉座の間もかなりの大きさだったが、ここは違う。外のように遠くまで見渡せる。だが、閉じた空間であることもわかる。空には逆さになった街が広がっている。特徴的な城は上から見てもひと目でわかるベルトリア王国首都ホルムベルだ。そして、足元にはそれが映し出された鏡のような地面がある。水面のように波紋を生むが、水ではない。
(魔術の結界内……? いや、古代魔術師のアトリエか)
アトリエは古代魔術師が自分自身を守り、その魔術を隠すために作った場所だ。大抵は地上か地下に存在するが、このように空に存在する場所もあるのだと、ウィルヘルムは初めて知った。
広い空間の先に目をやる。リンドーたちは見当たらない。ひとり、ウィルヘルムに憎悪の目を向けるものがいる。
「お前は……、誰だ。どこから現れた」
その人影に問う。声をかけられた人影は、その美しく大きな複翼を広げた。
「忌々しい。お前こそ何者なのだ。何故、私の声が届かない。お前さえいなければ、全てが上手くいっていたのに」
聞こえる声は、歌声のように美しく、この世の春を司るような響きを持つ。
その顔をしっかりと見た。大理石のように白い肌に、淡い色の唇。鼻は大き過ぎず小さ過ぎず、完璧な均整を持つ。長い美しい金髪は、風もないのに緩やかに漂っている。そして、その目は赤い星を宿し、不気味なほどに魅惑的な光を放っている。
「お前は……、あの悪魔か」
モントベルグ王国を襲った災厄。何万人の被害を齎した悪魔だ。異次元に拘束され、完全には力を揮うことのできなかった悪魔。その特徴に似ている。だが、正面に立つ翼を持ったこの人に、拘束具は見当たらない。
ウィルヘルムは剣を構えた。
「悪魔? 違う。私は神だ。この世界の新たなる神。良く覚えておくと良い。私の名はルシファー。異界より来たりし、幸福。世界の
「異界じゃと?」
ウィルヘルムはルシファーなどという神は聞いたこともなかった。この世界には五柱の主神が存在する。そのどれもルシファーなどという名では呼ばれない。
「そうだ。この世界の魔術師によって、この荊の頭環としてこの世界に召喚された」
ウィルヘルムは古代魔術師を罵った。もう三千年も前に滅んだ魔術士たちの影響が、未だ尾を引いている。別の世界から神を引き寄せ、それを放ったままにしておく馬鹿どもだ。その力を制御するために、荊の頭環という形にして、神を顕現させたのだ。世の理を変えるほどの力を持った人間がすることなど、倫理も糞もあったものではない。
「つまりはお前が魔王の正体か。わしの仲間たちを殺し、コルベットを操っていた神というわけか……。それにしては、小賢しい真似ばかりじゃな。人の心を操り、小細工ばかり。最後は国を滅ぼしてお終いか?」
ウィルヘルムは敢えて挑戦的な物言いで言葉を誘った。
「ウィルヘルム・フォン・ベルン。貴様にもわかるだろう。この世界にはこの世界の神の力が溢れている。私が力を完全に取り戻すには、この世界の神の力を奪う必要があった。お前には鬱陶しさも感じるが、感謝もしている。この大陸に私を連れてきて、コルベットという素材を提供してくれたのだからな」
素材という言葉に腹は立つが、そうやって人の心に入り込もうとするのが、ルシファーの得意技であることは理解している。ウィルヘルムは必要なことだけを訊く。
「神の力? 魔法の加護のことか。それを集める目的で、デーモンたちを殺そうとしているのか」
「そうだ。コルベットは優秀だったよ。私は彼に屈した振りをして、力を貸した。家畜小屋に結界を張り、子を産ませ、数を増やした。コルベットに魔術を教え、私の体を異次元から召喚する術を教えた。あとはデーモンたちから奪った加護で、私を完全に顕現させる……。ウィルヘルム、貴様にしてやられたよ。まさか、コルベットの魂を解放するとはな」
「……」
ルシファーは、
ウィルヘルムは溜息を吐いた。
「では、お前はもう顕現することは叶わないのだな」
ルシファーを閉じ込めるこの世界から出るには、魔術によって亀裂を作る必要がある。ルシファーはその役割をコルベットにやらせるつもりだった。それが頓挫した今、もう二度とこの世界から出ることはできないのではないだろうか。ウィルヘルムは一抹の希望を持って予測した。
「相変わらずの楽観主義だな、ウィルヘルム。そんな簡単な話なわけがないだろう。顕現することは容易いことだ。素体となる優秀な肉体が必要なだけだ」
(ま、そうだろうな)
今、ウィルヘルムがここにいることが、ルシファーの言うことを裏付けている。一時的に顕現したルシファーにより、ウィルヘルムはこの空間に落とされたのだ。
「だったらなぜ、さっさと顕現してしまわない」
ルシファーが天使のような微笑みを浮かべた。
「どうして、顕現していないと思うのだ」
ルシファーは自慢げな表情で翼を
瞳の形をした映像が映し出される。アトリエの外の世界だ。
モントベルグを襲った悪魔の形をした、大小様々なルシファーの化身たちが、魔王城から放たれたところであった。地を埋め尽くすほどの数の出来損ないのルシファーの化身は、這いずりながら進みだした。
ルシファーの力を受け、変貌した王都の住民たちだ。王都周辺、広範囲から出現したそれらは、生きとし生けるものを飲み込むためだけに存在した。
「さぁ、我が化身よ。命を貪れ。力を取り戻すのだ!」
ウィルヘルムは慌てることなく、冷めた目でそれを見つめた。
「なんじゃ、羽があるのに空は飛べんのか……? 少しばかり迫力に欠けるのう……」
「黙れ! 飛行にも力を使うのだ」
ウィルヘルムは少し安心した。もし、モントベルグに現れたような巨大な体を持つルシファーの化身が無数に現れたのであったなら、対応できなかったかもしれない。
「ハァ……・ルシファーよ、お前、少しばかりこの世界の住人を舐めておるのではないか?」
「何?」
ウィルヘルムが指差し言うと、ルシファーは振り返った。
「ほれ。どこかの軍隊が、戦っておるぞ」
王都に向けて進んでいたであろう集団が、ルシファーの化身に向けて攻撃している。その先頭には、
「これがどうしたと言うのだ。こいつらは餌に過ぎない……。死ぬのが遅いか早いかの違いだ」
ルシファーは強がるが、
「絶対に、絶対にこいつらを街に辿り着かせるな!」
「囲め! ひとりで相手にするな! 二人以上でやれ!」
「目だ。目が弱点だ! 目だけ再生が遅いぞ!」
彼らは王都近郊都市コルムシダルの住人たちだ。レイリアルが発ったあと、彼女を追いかけるために、ゴルサが説得したのだ。さらにその軍には、ウィルヘルムが知っている顔もちらほらと見える。街長を務めたミスシダの街からの増援部隊のようだ。
彼らはそれぞれ魔法の加護の力を使い、ルシファーの化身たちの動きを止めている。己に合った戦術、己に合った技。それぞれの特徴を活かした戦い方に、それを活かすための連携。
以前の
「……」
「お前に感謝しなければならんかもしれんなぁ。お前が国を発展させてくれたおかげで、皆が優しさを取り戻した」
ルシファーには先ほどまでの余裕はなくなった。美しい顔を歪めて、ウィルヘルムを睨む。その顔がまた不穏な表情を見せる。
「フ……フフフ……。ウィルヘルム、随分と余裕そうだな。だが、これを見ろ」
映像が切り替わり、映し出されたのは奮戦するガーネルトムの姿だった。ゴーレムが背後を守っているが、身動きの取れないリンドーとセッカを抱えては、倒れるのは時間の問題だ。
「貴様の仲間は死ぬ。お前がどれだけ心が強かろうとも、他の者はそうではない。再び、私が操り、貴様の大切なものを全て奪ってやる」
ルシフェルが勝ち誇ったように言う。ウィルヘルムは呆れたように彼を見た。
「わかっておらんな、ルシファーよ。お前がどれだけわしの大切なものを奪おうとも、わしはそれ以上に多くの大切なものを得てきた。わしの仲間がこれだけだと思っているのか?」
ルシファーが振り返ると、画面の化身たちが吹き飛ばされるところであった。
ベアル族のダリオ。ファンテラ族のベリオルム。彼らはたった二人で化身たちを蹴散らし、ガーネルトムたちを助け出す。
「馬鹿な……。一体、どうして……」
どうやら、ベリオルムはダリオを正気に戻すことに成功したようだ。
そして、レイリアルが一撃を見舞うと、大きな化身の体が両断され、塵となって消えていく。
(生きておったか。やれやれ、心配させおってからに……)
逞しくなったレイリアルを見て、少しだけ嬉しいような寂しいような気持ちになる。画面を見つめていると、レイリアルと目が合った気がした。
次の瞬間、画面いっぱいにレイリアルの姿が映し出され、映像に亀裂が入った。そこから空気が溢れ出し、全身に魔法を纏ったレイリアルが、空間を飛び越えて現れたのだ。
驚愕したのはルシファーである。この空間は荊の頭環の内側であり、今までルシファーだけの空間だった。誰も出入りできる者は存在しなかった。それがこうもあっさりと侵入を許したのだ。あってはならない事態であった。
◆
「な……に? 一体、どうやって……」
困惑するルシファーをよそに、レイリアルはウィルヘルムに訊ねる。
「じいさん、こいつが魔王だな⁉」
ウィルヘルムも間髪入れずに答えた。
「そうじゃ」
霆が降ったような轟音が響き、レイリアルの剣が踊った。二本の変わった形の剣を自在に操り、驚愕したままのルシファーを斬り裂く。
一瞬でバラバラに引き裂かれたルシファーだったが、一瞬で塵から元の形に戻り、笑い声を上げる。動揺はしたが、攻撃は効かないのだ。慌てる必要はない。
「無駄だ! 私にそんな攻撃は通用しない!」
ルシファーが手を掲げると、地面が盛り上がり、ウィルヘルムとレイリアルを空中へと放り出す。魔力を使い果たしているウィルヘルムは為されるがまま、落下していく。その手をレイリアルが掴んだ。彼女は漁綱の加護で体を支え、ウィルヘルムを受け止めた。
「おう。すまんな」
「どうするつもりだ。どうやって勝つ」
「ふむ。あいつを見てどう思う」
遥か下にいるルシファーが見る。彼はこちらを見上げるだけで、追撃をしてこない。こちらを警戒しているのか、時間を稼げれば良いと思っているのだ。確かに長引けば外の戦況はルシファーに傾くだろう。
「力の流れが全てあいつに繋がっている。奴を殺せば、全て消え去るはずだ。ただ……」
先ほどレイリアルはルシファーの急所らしき場所を斬った。魔力を乗せた一撃だったが、ルシファーはものともしていないのだ。
「急所が見えるか」
「右の脇腹。肋骨の一番下だ」
不思議な場所が急所だ。人の心臓とは逆側である。
「わかった。とにかく攻撃あるのみじゃ」
ウィルヘルムが重力に任せて宙に身を躍らす。レイリアルは能天気な返事に舌打ちしながら、ウィルヘルムに続く。
ルシファーの羽が飛び散り、ひとつひとつが剣と化してウィルヘルムたちを襲う。空中で身動き取れないはずのウィルヘルムだが、身を捩って躱し、剣で弾きながら落下していく。さらにルシファーの攻撃は激しさを増し、剣一本で捌き切れる物量ではなくなる。そこにレイリアルが加速し、炎と霆で羽の剣の弾幕を薙ぎ払った。
剣の層を抜けたウィルヘルムは、着地と同時にルシファーに襲い掛かる。ルシファーはそれを翼で受けるが、斬撃は翼ごとルシファーの肩を裂く。
「無駄だと言っている!」
どんな傷も治ってしまうルシファーだ。その程度で怯む必要はないのだが、ウィルヘルムを警戒し、距離を保とうと後ろに跳ぶ。その腹にレイリアルの
だが、そんな程度でこのルシファーが死ぬことはない。羽が舞い、視界が遮られた瞬間に、ルシファーは体を再生させていた。少し離れた位置に復活したルシファーがその複翼を打つ。空気が破裂し、レイリアルとウィルヘルムの体が吹き飛ばされる。再び距離が空き、戦いの手が止まった。
「そうか……。ハハハ……」
ルシファーは炎を気にすることなく、ただ振り払っただけで新たな翼が生えていた。羽を撒き散らし、ウィルヘルムの進路を塞ぐ。
「そうだったな。戦いは自分の得意とするところの押し付け合い。お前たちの戦い方に付き合う必要はない」
ルシファーが赤い瞳を一層輝かせた。ウィルヘルムはその異様な気配を感じ、レイリアルに叫ぶ。
「レイ! 逃げろ!」
しかし、レイリアルの動きは緩慢だ。
「この娘からは感じるぞ。怒りと、憎しみを。レイリアル……、お前がどうしてこうなったのか、それが誰のせいなのか教えてやろう」
ルシファーはレイリアルの精神を掌握したことを確信した。
(ウィルヘルムと違い、この娘の精神は
ルシファーはレイリアルの頭に手を翳した。その指先から荊が伸び始め、頭の上で輪を描く。これを被せることで、レイリアルはルシファー本体の素体となる。
「お前の友人を殺し、お前の家族を殺し、お前を孤独にしたのは、私ではない。その全ての原因は、ウィルヘルム。あの男にある……。さぁ、私とともに復讐を果たそう。私がお前の唯一の家族となろう」
ルシファーが甘い声色で言った。誰も逆らえない声だ。
「私は……」
混濁した意識と虚ろな目をしたレイリアルが、言葉を口走る。意識は完全に掌握できている。それでも喋ることができるのは、意志の強さの現れだ。
(強き者には強い意志が宿る。我が体に相応しい。この魔法を視る目。まるで私のために用意された体のようだ)
同じ
「魔王、私はあなたを殺すために、ここにやってきました……」
「……それは間違いだ。お前の殺すべき相手は、私ではない」
「全てはあの人、私の家族を奪った……、先生のせい……」
「そうだ、レイリアル」
「私は……」
ルシファーの顎の下から脳天にかけて、レイリアルの
「お前……、精神が二つ……?」
「あなたが支配したのは、私の一面でしかない!」
『獣の相』はルシファーに支配されてしまった。精神に干渉を受けた瞬間、レイリアルは本能的に精神を入れ替えた。魔王の癖はすぐに見破った。魔王は人間を舐めている。ウィルヘルム以外の人間を、家畜としか考えていない。素直に言うことを聞けば、必ず魔王は油断すると確信していた。
それでも魔王は笑った。
「馬鹿な……娘だ。それを話してしまうとはな」
「ええ、終わりですから」
「⁉」
その隙を逃すはずもない者がひとり。ウィルヘルムはずっと待っていた。完璧な隙。ウィルヘルムからルシファーが意識を逸らす瞬間。ウィルヘルムはルシファーの右脇腹に、短剣を深々と突き立てた。
黒竜の牙から削り出した『黒刀ヴァルノクス』。
何の変哲もない短剣にしか見えない武器。魔力を感じず、魔力による強化も受け付けない。その代わりヴァルノクスの牙には、ひとつの効果がある。魔力を噛み砕き、魔術・魔法を完全に破壊する。そして、どんなに鋭敏な感覚にも探知されない。
(ベリオルムはさすがの慧眼じゃ。これを大剣にしてしまうのは勿体ない。短剣こそが完璧な形じゃ)
感知されないことを活かし、ベリオルムは操られながらも、魔王からこの短剣を隠し通した。魔王に支配される前に、自身の記憶からこの短剣の由来を消したのだ。普通の人間にそんなことはできるはずもないが、ベリオルムも普通の男ではない。
ウィルヘルムはそれを土の義手の中に隠し持ち、とどめの瞬間をずっと待っていた。
ルシファーの脇腹から引き抜くと、信じられないくらいの大量のどす黒い血が溢れ出した。今までどれだけ斬っても流れなかったルシファーの血が、洪水のように流れ出したのだ。
ルシファーはわけのわからない言葉を、叫び声を上げる。大量の血を躱すため、レイリアルとともにウィルヘルムは後ろに跳んだ。
「や、やったのですか⁉」
獣の相を隠したレイリアルが、甲高い声で叫んだ。あちらの精神と違って、すぐに動揺を表に出してしまう。
「まだじゃ! 油断するな、レイ!」
こちらのやさしいレイリアルのほうも鍛えてやらねばならんな。などと暢気に考えながら、ウィルヘルムはもう一太刀浴びせる機会を伺う。ルシファーは自身から溢れ出る黒い血に翻弄され、踊るかのようにクルクルと回転している。血は周囲を埋め尽くし、床は黒に染まっていく。
「どうするのです……?」
レイリアルが不安そうにウィルヘルムに問う。確かにこの血の量では、戦いどころではない。短い間に、既に黒い血は膝下まで溜まっている。この空間が埋め尽くされるのも時間の問題だ。しかもそれだけではない。触手のような黒い液体の中から、何やら触手のようなものまで蠢き始めた。
「仕方ない。脱出するぞ!」
「はい!」
ウィルヘルムが黒い水面を駆けだし、レイリアルもそれに続いた。
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