第8話 ウィルヘルム 戦地に降り立つ

 遠雷に気が付き、庭にでたリディナーは空を眺めた。


(雨でも降るのか? 嫌な空気だ……)


 そのとき、街のひとつの鐘が鳴り響き、それを聞いた者は騒然となる。時間を知らせるものでも、火事のときの鐘でもない。激しく鳴らされるそれは、魔物襲来を知らせる警鐘だった。


「武器を持て! 大楯と弓もだ! 一のカクへ避難する!」


 間髪入れず、リディナーが門下生に叫ぶ。

 こういうときの対応は、全ての住人が訓練済みだ。警鐘が鳴りやまないところを見ると、凶悪な魔物で、既に外壁である二の郭内に侵入されていることがわかる。城壁や衛兵詰所にある、対空大型バリスタの音が聞こえないのであれば、小型の魔物が大量に入り込んだのだと想像できた。

 門下生たちは簡単な鎧と兜を付け、背中に弓、真剣と大楯を持って、完全武装となる。すぐさま臨戦に移れることは、訓練の賜物である。

 リディナーも動きを阻害しない程度の大きさの盾を持ち、いつもは金庫に保管してある、ウィルヘルムから受け継いだ剣を腰に挿した。

 道場の外門を出ると、既に街中の住人が避難を開始おり、皆、着の身着のまま、都市の内側に避難していく。一の郭の中は王城に近い場所にあり、住人が避難し、兵士が配置できるように、大きな公園が作られている。外郭である二の郭内は居住区であり、住人たちの混乱は相当なものだ。何が敵かもわからない。


「行くぞ。はぐれるな」


「家族のところに行きたいのですが……」


「駄目だ。まずは避難する。お前の家族も一の郭に向かっているはずだ」


 まだ、門下生たちは若い者が多い。リディナーには彼らを守る責任がある。家族の身を案じる彼らの意見を無視することは厳しいことだが、今はそうするしかない。幸い、大通りに出たときには、避難する人の姿はマバらである。順調に一の郭への避難が進んでいる証拠だ。警鐘も鳴り止んでいる。


「避難を急ぐぞ。門を閉められては敵わない」


 兵士たちは避難が終了したと判断するか、魔物が迫ってきたときには、容赦なく一の郭の門を閉じる。例え住人が残っていることがわかっていたとしても、例外はない。

 急ぎ、大通りを進もうとしたとき、路地から数人の人間がフラフラと出てくるのが見えた。


「すぐに一の郭に避難をしろ!」


 リディナーが声をかける。それが人の形であれば、必ず声をかけるのは、避難時の基本、貴族の義務だ。それと同時に、リディナーは抜刀した。路地から出てきた人物たちが、人ではないことを、一瞬で判断した。


「全員、抜刀。楯と弓は捨てよ。ゾンビは脊柱を破壊しなければならない。首を切り落とすか、背中を狙え」


 門下生たちは少し怖気付くが、それでも言う通りにした。彼らのほとんどは魔物と戦った経験はある。

 弓や大楯は遠距離魔術や大型魔物対策である。ゾンビには効果は薄い。それどころか機動力を損ない、囲まれてしまう可能性がある。


「ミルディだ……」


 門下生が言った。その言葉に他の者も動揺する。

 ゾンビのひとりが見知った顔であった。リディナーも会ったことがある。外壁沿いの美味い飯屋で働いている少女であった。門下生たちが、誰がデートに誘うかで揉めていたこともあるほど、器量の良い子だ。その彼女が面影だけを残して、焦点の合わない固まった血で汚れた瞳で、こっちを見ていた。

 リディナーが息を吸い、そして、吐き終わった瞬間に、ゾンビたちの首は地面に落ちていた。ゴミ拾いをしていた孤児たちの姿もその中にあった。

 容赦なく知り合いの首を斬り落とした師を、門下生たちは冷酷だとは思わなかった。ただ、畏怖の念を込めて、その動きを注視した。


「油断するな! 周囲を警戒しろ」


 冷酷で冷静に見えるリディナーだったが、その内心は違った。


(囲まれている……。逃げることは叶わない……か)


 通りは開いているように見える。しかし、路地は埋め尽くされている。気配でわかる。これでは、多勢に無勢。リディナーの実力をもってしても、門下生全員を守り切るのは難しい。それだけの数だ。しかも、それらは一見、無害を装うように、路地に詰まって待っている。思考能力のないゾンビではない。


(屍霊術士……か。私を狙っているのか? それとも、門下生の誰かを……?)


 警戒しながら前に進み出ると、また何体かのゾンビが路地からよろめきながら出てくる。倒せない数ではない。今度は門下生たちも手伝って、ゾンビたちを排除した。


(これは……、囮だな。私たちを足止めするために、わざと倒せるだけの数を出している。包囲されるまで気が付けなかったのは、道場には近付かないように操作していたか。進もうとすると、道を塞がれるに違いない)


「うわぁ! なんだ!」


 門下生が声を上げた。路地にびっしりと詰まり、こちらを虚ろな瞳で見つめる死体たちに気が付いた。なぜか、そのゾンビたちは襲いかかってくることはなく、号令を待っているようだった。

 その異様さに気が付いた門下生たちが動揺し足を早めようしたとき、リディナーの予想通り、少し先の路地から大量のゾンビが溢れ出し、通りを埋め尽くした。

 進むことは叶わず、路地に逃げ込むこともできない。包囲されていることを理解した門下生たちに動揺が広がった。リディナーはその動揺を力尽くで押さえ込む。


「前進する! 背後は気にするな。左右から襲ってくるもののみを斬り伏せろ! 正面は私が斬り開く!」


 門下生たちは二列縦隊になり、リディナーの後に続く。思考を停止し、指示に従うことで恐怖に打ち勝つ。それは師匠への信頼の証でもある。

 リディナーが一歩踏みしめるたびに、ゾンビたちの首が纏めて飛んだ。剣の速度を落とさず、圧倒的な力で前進していく。門下生たちの方が置いていかれそうな勢いで進む。


「行ける、行けるぞ!」


 誰かが叫んだ。絶望的状況から、既に一の郭の門が見える場所まで来ることができていた。肉を斬り、骨を折り、知り合いの死体を切り刻みながら進む。精神的にも肉体的にも、疲労が限界に達しようとしていたが、希望がその限界を超えさせた。

 まだ、門は閉じられていない。だが、この多数のゾンビを見れば、門を閉められてしまうかもしれない。急ぐ必要がある。リディナーはさらに速度を上げた。城壁から弩による援護が行われる。門外を守っていた兵士たちが、リディナーのための道を開けようと奮戦するのが見えた。

 雷鳴が背後で響いた。

 不意の一撃にリディナーも反応できなかった。振り返ったときには、列の一番後ろにいた門下生のひとりが霆に撃たれ、断末魔の声を上げて焼死体となるのが目に入った。そして、その横のもうひとりが胸から大量の血を噴き出していた。


(新地流……収鳳仙シュウホウセン!)


 リディナーは反射的に、雷撃を技で受けた。刃を翼に見立て、剣を回転させ空気を圧縮し、散弾のように打ち出す技だ。圧縮された空気は、より強い力を求める霆を誘い、霧散させ、相殺する。

 友人が死に、目の前で爆発が起こった門下生が、バランスを崩して倒れる。リディナーは彼女を守るように構えると、通りの向こうを睨みながら叫ぶ。


「立て! 走れ! 振り返るな!」


 魔力で作られたイカヅチは、自然のものよりも遅い。魔法によって再現されただけの、霆に似せた何かなのだ。自然現象のほどの威力はない。それでも、人を殺すには充分な威力がある。

 ゾンビに囲まれても汗ひとつかかなかったリディナーの背中に、冷や汗が伝った。人を殺す充分な威力があるにも関わらず、その攻撃には殺意がなかったのだ。それは魔術士の攻撃ではないと直感で理解した。意思のない人形の攻撃。ゾンビの攻撃。

 通りの向こうに、強力な気配を感じる。ゾンビたちが道を開け、その姿が現れた。

 瞳は赤く不気味に輝き、その光と霆が混ざりあって、野原を焼き尽くす雷火を連想させる。鳩尾のあたりに抉られた穴があり、そこから血液の代わりに、体内を流れる赤い光が漏れ出している。鎧を纏った姿は、傭兵か、冒険者だった者だろう。

 霆を纏ったの女戦士が、リディナーを虚ろな目で見つめていた。


「レヴェナントだ! 門の向こうへ行け!」


 その言葉に門下生たちは、一斉に前に向けて走り出した。仲間の死体を気にする余裕もない。兵士たちですら浮足立ち、門がいつでも閉められるか確認する。

 リディナーはゾンビに囲まれるのも構わず、レヴェナントと向かい合う。レヴェナントはゾンビの一種であるが、その力は歴戦の騎士に匹敵する。ゾンビの上位種で、不死者としては吸血鬼やリッチに匹敵する、凶悪な魔物だ。

 ゾンビは生前よりも弱くなる。どんなに屈強な戦士の遺体でも、か弱い少女の遺体でも、ゾンビになればその力に大差はなくなる。だが、レヴェナントの場合は、生前よりも強くなる。生前の技術、戦闘の経験、魔法の力。その全てを引き継ぎ、さらに不死の肉体は、どれだけ傷付けても元に戻ってしまう。

 リディナーは普段使いの愛剣を仕舞い、ウィルヘルムから受け継いだもう一本に剣を引き抜いた。それは太陽の光を受けて淡く輝く。鞘から解き放たれたその剣を振るうと、周囲のゾンビたちが、まるで恐れおののくように後ろに下がった。

 魔剣『イカラス』。

 ウィルヘルムが昔、古代魔術師の遺跡から見つけた出土品アーティファクトである。強力な魔術を内包する剣は、それ自体が業物の強力な武器だ。魔力を纏った斬撃は、霆すらも切り裂く。そして、魔力によって動くレヴェナントをことも可能だ。ただし、使用には制限がある。魔剣は所有者の生命力を動力にしている。


(これを抜いたからには、戦いを長引かせるわけにはいかない)


 リディナーが瞋で周囲を薙ぎ払う。取り囲もうとしていたゾンビたちの首が、ひと振りで一斉に落ちる。

 邪魔なゾンビがいなくなったと言わんばかりに、レヴェナントがリディナーに飛び掛かる。霆を纏った刃と、魔剣が触れ合い、空気が破裂する。その衝撃に巻き込まれ、ゾンビたちが薙ぎ倒されていく。兵士たちは門下生たちを門の中に引き入れようと、大量のゾンビを押し退けて道を作っていた。

 リディナーはレヴェナントの思った以上の実力に舌を鳴らす。

 全身に魔力を張り巡らし、自身が傷付くことも厭わない。一撃で決めるつもりだったが、何度も離れ、接近し、弾かれる。これ以上の時間を使うことはできない。リディナーは瞋の能力を解放する覚悟をした。


『目覚めよ』


 力強く剣を振るい、レヴェナントを吹き飛ばす。間合いを開け、空間を作る。

 リディナーが生命力を魔剣に流すと、刃が震え、慟哭のような音が周囲に広がる。魔力によって作られた音は、切っ先を中心に広がり、ある地点を境に完全に聞こえなくなる。門下生と兵士たちには聞こえず、周囲のゾンビ十数体と、イカヅチのレヴェナントのみがその音を認識する。これが魔剣『瞋』の間合いである。

 おもむろにリディナーは空気を斬った。袈裟斬りの空振りである。何十万回、何百万と振るった素振りは、ある種の美しさがある。戦闘の途中であるのに、空を切る音が周囲に響き、時間が止まった。

 リディナーが瞋を鞘に仕舞う。鞘と鍔が当たり、甲高い金属音が小さく響く。その瞬間、周囲のゾンビたちが動きを止めた。そして、その胴体が肩口から対角の腰へと切り裂かれ、上下に身体が別れを告げた。魔剣『瞋』の慟哭を聞いた者は、例外なく不可視・不可避の刃を浴びる。門下生が近くにいるときは、この魔剣を使わなかった理由だ。

 不可避の攻撃を受けたのは、レヴェナントも同様である。どれほど強い戦士でも、初見でこの攻撃を完全に見切るのは不可能だ。

 袈裟斬りにされた体が地面に落ちそうになる。だが、この程度ではレヴェナントは活動を止めない。下半身側と上半身側に別れた両手で、自身の体を器用に支えた。バラバラにされれば、再生に時間がかかることになる。それを防ぐためだ。

 この斬撃だけでは殺せないことはわかっていた。レヴェナントが剣を手から離した瞬間を逃すつもりはない。リディナーは半歩で間合いを詰め、同時に抜刀すると、レヴェナントの首を刎ねた。


「新地流魔剣技・ナゲき水》」


 瞬く間の出来事だ。首を斬られたレヴェナントは動きを止め、バラバラになって地面に落ちる。魔剣で斬れば、少なくとも自力での再生はできないはずだ。

 魔物を倒した余韻に浸る間もなく、リディナーは踵を返した。急ぎ、門を閉じなければならない。

 リディナーも限界が近いのだ。魔剣による魔力の消費だけではない。瞋は精神を汚染する。使用者の怒りを呼び覚まし、制御不能の狂人と化してしまう。リディナーはこの魔剣をウィルヘルムのようには使い熟せなかった。

 門には強力な魔術で結界が張られている。レヴェナントでも突破できないはずだ。これだけのゾンビを作り出した屍霊術士が、一体しかレヴェナントを作っていないなど考えられない。

 振り返りざまに斬撃を放とうとする。ゾンビたちは一向に減らない。背後に近付いていることには気が付いていた。認識する前に斬れば良かった。そこに居たのは見知った顔である。リディナーは剣を止めた。

 自分の胸に剣が突き刺さる。

 そのゾンビはたった今まで生きていた教え子であった。

 レヴェナントを倒し、油断が生まれたのか。それとも、例え死体でも門下生を斬ることはできなったのか。たった今ゾンビと化した門下生に、リディナーは剣で胸を貫かれた。

 剣が抜かれようとする。これが抜かれた瞬間、リディナーは血を失い、絶命するだろう。反射的にその刃を掴み、自分の胸に押し込む。血液が肺を満たし、口から溢れ出す。教え子のゾンビを倒そうと剣を振りかぶるが、焼け焦げたもうひとりの門下生のゾンビの刃が首を掠めた。

 常人ならば致命傷であるが、リディナーはそれでも倒れない。自身の筋肉を操作し、血管を収縮させ、血液の流出を最低限に防ぐ。


「……すまん!」


 リディナーは剣を振るい、二人の首を斬り落とした。胸に刺さった剣を支えながら、片手で周囲を薙ぎ払い、他のゾンビを蹴散らす。ゆっくりと剣を引き抜き、手で傷口を押さえ、身体操作により止血をする。辛うじて即死は免れた。


「門が閉まるぞ!」


 声が聞こえた。兵士の誰かが叫んだのだ。ゆっくりと巨大な門が閉じられていくのが見えた。急がねばならない。リディナーが駆け出そうとしたとき、何かがリディナーを掴んだような気がした。

 体内をまさぐられ、心臓を鷲掴みにされる感覚。リディナーは振り返る。

 少し離れた場所に立つ人影。その周りには頭蓋骨が、重力に逆らい浮かんでいる。


(屍霊術士……)


 リディナーは剣を握り締め、体に力を込めようとするが、その場から動くことができなかった。いつの間にか目前に屍霊術士の顔があり、その瞳を見た。


「ギリム・ミクロミス……。お前が……」


 ネズミの面長の顔があった。魔王軍の特使ギリム。彼がこの事態を引き起こした屍霊術士だと理解した。しかし、遅すぎた。


『目覚めよ。コトなりのツワモノ


 そう言ったギリムの瞳は赤く輝き、レヴェナントと同じ目をしている。リディナーには彼が正気の状態には見えなかった。

 どこかで心臓が破裂するような音が聞こえた。妻リアーシャの顔が脳裏をヨギる。


 ◆


 ウィルヘルムたちは森の獣道を戻っていた。話しながらだが足早に進む。リンドーは小さな体ながらもかなりの健脚で、ウィルヘルムに追いつこうとする若いフィリームズとレイリアルを、背後から激励しているくらいの余裕があった。


「つまり……、先生の幼馴染ということですか」


 レイリアルが話の流れから、変なことを言い出す。


「ち・が・う。わしの父の知り合いじゃと言っただろう」


「で、でも……、先生の幼いときからお友達なのですよね。だったら……」


「いやいや、幼馴染の定義にもよるが、大抵が同年代じゃないと成り立たんだろう。わしが出会ったときには、リンドーは既に大人だったのだから、幼馴染とは言えんのではないか」


「でも……、リンドーさんはまだ子どもですよ」


 さっきから話が堂々巡りをしている。


「あのな。リンドーは子どもに見えるが、子どもではない。大人じゃ」


「……」


 納得していない様子のレイリアルの表情を見て、リンドーがクスクスを笑う。確かにそれだけを見れば子どものように見える。


「ドワーフが何なのかわかってないですよ。そこから説明しないと」


 フィリームズが言う。レイリアルはムッとしたようで言い返す。


「ドワーフくらい知っています。鍛冶屋で働いている子たちでしょう。あんなに小さいのに、かわいそうに……」


「……」


 レイリアルは石人ドワーフのことを、創作か何かのキャラクターとでも思っているようである。

 王都では鉄を大量に扱うため、石人たちも沢山の人数が出入りしている。貴族のお嬢さまとはいえ、レイリアルが会ったことがないなどあり得ないのだが、彼女は石人を石人として認識することなく、恒人の子どもが働いているくらいにしか思ってなかったようである。

 小さな子が汗を流して働いていることに、日頃から心痛めていたレイリアルは、それもあって、人里離れた場所で孤独に暮らしているリンドーに、やたらと優しくしたいのだ。


「レイちゃん、憐れんでくれるのは有難いけどね。ドワーフはこれ以上、大きくはならないんだよ。今、この状態が大人で、そういう種族なのよ。あたしもこれでも八十歳になるからね」


「はちじゅ……」


 これにはフィリームズも驚いた。ウィルヘルムよりも年上かとは思っていたが、フィリームズたちのような恒人メネルで八十歳と言えば、歩くのも辛そうな老人を想像してしまう。


「メネルよりも長生きとは聞いていましたが……。無学で申し訳ないのですが、ドワーフはいくつくらいまで生きられるのが普通なのでしょうか」


 フィリームズが訊ねると、リンドーは頷いてから答える。


「メネル族の倍くらいかねぇ。三百を超える人もいるよ。だから、あたしなんてまだまだ若い方さ。種族的に頑丈だし、病気にも滅多にならない。鍛冶屋で働いてる人たちも、辛そうにはしてないんじゃない? むしろ、メネルの造った酒を毎日のように飲めて楽しんでると思うけど」


 レイリアルは自分の見た光景を思い出した。確かに陽気に話しながら仕事をしている。何十キロもあるような鉄塊を運んでいたり、馬車を操ったりして、汗水垂らして働いていた。特に辛そうにしているところは見たことがない。

 とんでもない勘違いと失礼をしていたことを知り、レイリアルは見る見る顔色を悪くして、足を止めてしまった。


「その、申し訳ありません、リンドーさん……。私、とんでもない失礼を……」


「あはは、気にしないで。可愛いって言って貰えたし、あんたが優しい子だってことはわかったからね」


 出会いは悪かったが、リンドーもレイリアルに悪気がないとわかって、すっかり許したようである。

 足を進める。ここは緩やかな丘の登りで、もうすぐ王都を一望できる頂上である。こんなところで休んでいるのは損だ。どうせなら、眺めの良いところで休憩をしたい。


「何が可愛いじゃ。ババアだろうが」


「うるさいよ、ウィルヘルム・フォン・ベルン。小僧の癖にジジイの振りしてる趣味の悪いやつに言われたくないね」


 ウィルヘルムは言い返せず、肩を竦めただけで終わらせた。そこでピタリと足を止めた。後ろにいた三人は、唐突に止まってしまったウィルヘルムを不思議に思い、その顔を覗き込む。彼は恐ろしい顔をして、道の向こうの丘を睨んでいた。


「怒ったの?」


 リンドーが訊ねるが、ウィルヘルムは睨んだままだ。そして、ポツリと呟く。


「……臭いがする」


「え?」


 ウィルヘルムが突然、走り出した。フィリームズもレイリアルも続く。修行の一環だと思ったのだ。上り坂だというのに、ウィルヘルムの速度は凄まじく、二人はどんどん離されていく。後ろから追いついて来たリンドーは、どこから取り出したのか、脚付きの椅子型土ゴーレムに乗り、二人を追い越した。


「あ! 卑怯だ!」


「卑怯です! 卑怯卑怯!」


 若い二人は軽口を叩くが、リンドーはそれどころではなかった。彼女も何かを感じ取ったのだ。

 丘の頂上につき、王都のある平原のウィルヘルムは立ち止まって眺めていた。やがて、リンドーも追いつき、すぐにフィリームズたちも息を切らして追いついた。


「一体、どうし……」


 丘の頂上、晴れ渡った空の下に平原が広がっている。その先の山を背にして、白亜の壁に囲まれた王都ビスト・マリフィスが佇んでいる。平和となり、城壁の必要性が薄くなった現在では、外壁の外に広くまで街が広がっている。中央にある城は、発展とともに増改築を繰り返され、荘厳と呼べるほど大きかった。

 その巨大な街からの上空へと、何かが伸びていた。紐のように見えるが、それは赤く光り、遠くからでもはっきりと認識できた。その紐から、白い何かが伸びる。紐が亀裂となり、空間を無理矢理引き裂いて、姿を見せた。

 空を引き裂きながら現れた異様の人。

 腕は、背中に生えた巨大な翼に楔で打ち込まれ、その自由を奪われている。

 口と思われる部分には、棘のついたクツワが嵌められ、頬を引き裂いている。

 顔のほとんどは無数の巨大で血走った目球に覆われ、それは何かを探すように忙しなく辺りを見渡している。

 二本の脚は不気味に折れ曲がり、足の甲に打ち込まれた一本の楔でひとつとなっている。

 全身に巻き付けられた鎖は、亀裂の向こうに繋がっており、異様の人を捕えている。


「悪魔……」


 リンドーが呟いた。

 それは神話上の怪物。巨大な鳥の羽を持つ人型の魔物。強大な力と、無慈悲さを備えている。世界を滅ぼすときに現れ、大地を海に沈め、全てを塵に変えると言う。この遠くから見ても、これほど鮮明に認識できるほどの大きさだ。

 そんなものが自分の街の上空に現れたのだ。絶句、絶望。丘から見下ろす四人は、そうするしかできなかった。

 悪魔がくぐもった音で吠えた。それは憎しみだろうか、苦痛だろうか。猿轡が食い込み、その痛みで身を捩り、それによって全身の楔がさらに食い込み、深紅の液体が溢れ、街に降り注ぐ。

 無数の目球のひとつが膨らみ、破裂した。そこから血が飛び散り、同時に白い紐が無数に伸びる。寄生虫のように見えたそれは、腕である。赤子のように指は短い。王城の方に向けて、顔面から生える腕は伸びていき、包み込むように城の外壁を掴んだ。

 その瞬間、空気が破裂した。

 ウィルヘルムは咄嗟にレイリアルを体で包んだ。衝撃波が平原を伝わって、丘の上まで届いた。

 波が通り過ぎ、ウィルヘルムたちは顔を上げた。リンドーはゴーレムでフィリームズを守ってくれたようである。四人は平原を再度、見下ろした。

 破壊の波が街を襲った割には、王都は綺麗な状態だ。あまりにも綺麗である。スッキリとしたとまで言える。街の中央にあった王城は姿を消し、荘厳な姿はどこかに消えていた。悪魔も同じく姿を消し、平和にも見える景色が広がっている。


「……」


 誰も何も言えず、丘に風が通り過ぎる。


「お父さま……」


 レイリアルが呟き、ウィルヘルムの腕から抜け出そうとするが、ウィルヘルムは離さなかった。


「放してください! お父さまが……!」


 リディナーは城に居たはずだ。もし、留まっていたのなら、この攻撃の中にいたことになる。それでも、ウィルヘルムはレイリアルを抱きしめたまま離さなかった。


「ありえない……。あんな魔物がいきなり現れるなんて。あんな、あんな……」


 リンドーがゴーレムの影から顔を出した。そして、今見たことを信じられず、声を震わせている。


「魔術だ。誰かがあの悪魔を喚んだのじゃ」


 ウィルヘルムが冷たい声で言った。


「まさか……、そんなことができるのは古代魔術だよ……。そんなものを使える人間がいるわけない」


 古代魔術士は何千年も前に滅んでいる。残っているのは、その遺物のみ。古代魔術と呼ばれる、空間と精神を操る魔術は、完全に失伝している。


「いや、心当たりがある」


 ウィルヘルムがそう言うと、フィリームズが何かに思い至った。


「あのデーモン……。魔王軍だとあなたが言っていた……」


 フィリームズはガーネルトムとギリムを思い出す。彼らは強者だった。そして、ギリムが魔術を使うところを見ている。


「ギリム……、あいつが……」


「魔王……」


 レイリアルとフィリームズ。二人の若者が憎しみに心を満たす。


「落ち着け。まだ、何も確かめたわけではない」


 ウィルヘルムが言うと、レイリアルは腕を振りほどき、彼を睨んだ。


「どうして、あなたはそんなに冷静なのですか⁉ 父が……、城に居たかもしれないのですよ⁉」


「わかっておる。だが、あやつも一廉ヒトカドの戦士。わしらが心配する必要はない。それよりも案ずるべきは街のことじゃ。見てみろ」


 ウィルヘルムが指差す先を、三人は見た。見下ろした平原、外壁の周りにある街から、慌てて逃げ出す人々が見え、何かに追われている。とにかく、街から離れたいといった様子である。戦士たちが殿シンガリを務めているが、無数の敵に苦戦している。


「わしは援護に向かう。お前たちはどうする」


 意思を問われ、レイリアルは父の言葉を思い出した。

 父と母のことしか考えてなかった。だが、父はいつも戦士としての心構えを門下生や部下たち説いていた。弱気を助け、悪を挫く。そして、貴族は人々を助ける責任を負うと、レイリアルにも言っていた。その教えは、ウィルヘルムから教わったものである。


「ついて行く」


 レイリアルは即答した。フィリームズが慌てて止める。


「駄目です、お嬢! これは戦争ですよ! 俺たちができることなんて……」


「私は貴族として、民を守る義務がある。怖いのであれば、フィルはここに残れ」


 その目はいつものレイリアルではない。戦士の目をしていた。


「……っ! わかりました。あなたを守るのが俺の仕事です!」


 ウィルヘルムはリンドーに目を向けると、彼女は嫌そうに顔を顰めた。


「そんな魔術士がいるところに行くの? あんな神話の魔物と戦うつもり?」


「あれを見ただろう。すぐに消えたのは、術者が維持できなくなったからじゃ。もう、二度と出すことはできんはずじゃ。いや、わしがそうする。お前の力を貸してくれ、リンドー」


 まだ、ウィルヘルムが寝しょんべんしてときから、彼のことを知っているリンドーは、そう言われると断れない。


「わかったよ……。仕方ないねぇ。二人のことは任せて。あんたは背中を気にせず戦いなさい」


 ウィルヘルムは微笑むと、走り出した。遅れないように、レイリアルたちも続いた。


 ◆


 ウィルヘルムは走りながら抜刀した。今度はレイリアルたちの速度に合わせ、突出はしない。

 戦士たちが足を止めて戦っているのが見えた。街の境目の小川の小さな橋で踏みとどまっている。そして、戦士たちが戦っている相手が目視で確認できた。

 鎧を着た兵士。マントを羽織った戦士。エプロンを付けた主婦。さっきまで酒を飲んでいた大工。荷物を運び入れていた農民。戦士見習いの少女。ゴミ拾いの子どもたち。

 今の今まで街で暮らしていた人々が、突然、凶暴になって襲いかかってきたかのようだ。いや、実際にそうなのだ。ウィルヘルムも何度も戦ったことがある。戦場で、今まで隣で戦っていた戦友が、死に、そして、立ち上がって襲いかかってくる。


「ゾンビだ! 脊柱を破壊しろ。首を斬り落とせ。完全には殺せないが、それで身動きできなくなる!」


 ウィルヘルムが、フィリームズとレイリアルに向けて叫ぶ。

 ゾンビたちの背骨を破壊すれば、体のバランスを保てなくなり、倒れて動けなくなる。頭を斬り落とせば、周りの様子を認識できなくなり、体は動けてもほとんど無害になる。その死んだ目や耳で、周りを認識しているとはとても思えないが、どれだけ腐ったゾンビたちでも、同じである。ある種の魔術的な弱点なのかもしれない。

 もうひとつ、レイリアルたちには言っておくことがある。


「容赦はするな。例え、知り合いの顔が見えても、な」


 何人もの仲間が、躊躇った末に、命を落としてきた。実戦を経験しているフィリームズでも、剣が鈍ることは確実だ。顔を知っている者のゾンビを斬る機会など、そう多くはない。そして、これが初めての実戦となるレイリアルは、特に気を付ける必要がある。


「フィル、レイリアルから離れるなよ。手間取っているようならば、お前が助けろ」


 そうすることでフィリームズの選択肢を奪った。知り合いの死体と大事な姫のどちらを取るのか、そこに選択する余地はない。

 しかし、レイリアルの落ち着きようはどうだろうか。まるで歴戦の勇士のように、呼吸を乱さず、視線を逸らさない。リンドーのゴーレムと戦っているときも、同じように動揺はなかった。実戦になれば、この『獣の相』も少しは乱れるかと思い、何も知らせずに連れ回したのだが、レイリアルの剣は鋭くなるばかりだ。

 一体何が原因で、レイリアルがこうなってしまったのか。ウィルヘルムには心当たりがあるが、それを口に出すことを恐れた。

 戦士たちが並んで橋を塞いでいる。その後ろにいる戦士が、手を振っている。


「応援に来てくれたのか! 助かる!」


「状況は? 何がどうなっている」


 ウィルヘルムは端的に訊いた。


「街の中でいきなり人が倒れ始めて、一瞬でゾンビ化し始めたんだ。しばらくは戦っていたんだが、あの悪魔が現れて、皆が逃げ始めたら……」


 確かにあんな化け物が現れたら、誰でも逃げ出す。非戦闘員たちを守っていた彼らだが、その守っている者たちが勝手に逃げ出してしまえば、一緒に逃げ出すしかない。


「良く押し留めてくれた。あとは、わしがやる」


「やるって……」


 ゾンビたちは流水を渡ることができない。かけられた魔術が洗い流され、魂が葬られるからと言われている。しかし、小川程度ならば、自ら犠牲になり死体を積み重ねて、橋を作ることで突破することもできる。水にさえ触れなければ、問題ないからだ。

 橋である程度を阻止していても、突破は時間の問題だ。ゾンビたちが死体の橋を作る前に、押し返すしかない。

 ウィルヘルムは跳び、戦士たちの頭上を飛び越える。そして、橋の向こうに着地する。ゾンビで埋め尽くされていたはずの対岸が、瞬く間に静かになる。

 ウィルヘルムを中心に、ゾンビたちは倒れ伏している。その死体たちは見事に首を落とされ、放射状に倒れる。頭を失った胴体は、とにかく周囲の物を掴もうとして、他のゾンビの動きを阻害する。

 その隙に、リンドーがゴーレムの巨躯でゾンビたちを踏み潰す。三体の大型ゴーレムが集まっていたゾンビたちを押し返し始めた。フィリームズとレイリアルも加わり、ゾンビたちを斬り倒していく。戦士たちの歓声が上がる。

 ウィルヘルムは振り返り、戦士たちに言う。


「お前たちは逃げた人々と合流して守ってくれ。可能ならば、他の生き残りを探して陣を作り、避難できるようにするのだ。わしは術者を、屍霊術士を探して倒す。そうしなければ、この異変は終わらんじゃろう」


「私も行きます」


 そう言ったレイリアルの目に、ウィルヘルムは感情を感じなかった。ゾンビとはいえ、人だったものを斬ることに何の抵抗もないのだ。そのことに少しだけ不気味さを感じる。


「レイリアル、わかっておるのか。この先は死地じゃ。それにこの状況、お前の家族も無事だとは言えんくなった。おぬしに父や母は斬れるのか」


 ウィルヘルムは敢えて強めの語気で問うた。もし、レイリアルが何かから身を守るために獣の相を得たのなら、獣の相から元の人格に戻ったとき、そこで見聞きしたことをどう思うのか。両親の死を目撃したとき、どうなるのか。ウィルヘルムはそれを案じた。


「問題ありません。斬ります」


 何の感慨もなく、レイリアルは言い放った。そのことにウィルヘルムはなぜかが心痛んだ。


「オレたちも行くぜ。まだ、戦えるんだ。街をこんなことにしやがったやつを生かしておくつもりはない」


 戦士のひとりが言うと、他の戦士たちも頷いた。十人ほどの戦士たちが、また街に戻ることに決めたようだ。残りは住民たちを追いかける。

 ウィルヘルムは彼らに感謝し、傷んだ心が少しだけ癒された。

 リンドーが懐から小さな人形をばら撒くと、河原の石が浮かび上がり、人型を象る。更に十体以上のゴーレムが追加され、即席の部隊を作り上げると、門に向かって進軍を始める。

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