第13話 豊漁祭3
その日の朝、リアムは音で目を覚ました。いつもの鳥の声や、森の葉擦れの音ではない。もっと遠くから、風に乗って運ばれてくる、陽気で、賑やかな音。軽快な笛の音色、陽気な太鼓のリズム、そして、たくさんの人々の楽しげな笑い声。
今日は、春の豊漁祭の当日。リアムはベッドから起き上がると、工房の窓を大きく開け放った。流れ込んできたのは、春の爽やかな風と、街全体を包み込む、えもいわれぬ高揚感。視線を上げれば、遠くに見える街の屋根の向こうに、色とりどりの旗がはためいているのが見えた。
ナギは、日の出と共に「準備してくる!」と嵐のように飛び出していった後だ。
がらんとした工房の中、リアムの作業台の上に、小さなものが一つ、ちょこんと置かれている。ナギが編んだのであろう、川の色を模した青いミサンガと、「会場で待ってるぜ!」という、勢いのある走り書きのメモ。
あまりに多い人混みは、苦手だ。リアムは、窓から見える街の賑わいを眺めながら、小さく息をついた。王都での日々を思えば、人の群れは、嫉妬や、値踏みするような視線の集合体でしかなかった。
だが。
手の中のミサンガを、ぎゅっと握りしめる。友の、晴れ舞台。行かない、という選択肢は、彼の心の中にはどこにもなかった。リアムは、ミサンガをそっと手首に結ぶと、意を決したように、工房の扉に手をかけた。
森を抜けて街へ向かう道すがら、すでに世界は祭りの色に染まっていた。花飾りをつけた子供たちが、きゃっきゃと笑いながらリアムを追い越していく。すれ違う誰もが、どこか浮き足立った、楽しげな表情をしていた。
街の中心部に入ると、その喧騒は一気に密度を増した。リアムの目に飛び込んできたのは、圧倒的な色彩の洪水。
家々の軒先には、赤、青、黄色のリボンや旗が飾られ、風に踊っている。道行く人々は、人間も、エルフも、ドワーフも、獣人も、それぞれが一番のおめかしをしていた。刺繍の美しい民族衣装を着たエルフの親子。屈強なドワーフたちが、大きなジョッキを片手に陽気に歌っている。獣人の子供たちは、ふさふさの尻尾に花を結びつけて、追いかけっこをしていた。
視覚の全てが、喜びの色に満ちている。耳に届くのは、心地よい音の波。広場の楽団が奏でる、陽気な笛と太鼓の音楽。それに合わせて手拍子をする人々の輪。屋台の店主たちの、威勢のいい呼び込みの声。「焼きたてのリンゴパイだよ!」「ドワーフ印の串焼き、いらんかね!」。そして、それら全てを包み込む、人々の絶えない笑い声。
聴覚の全てが、楽しさの音であふれている。そして、鼻孔をくすぐる、幸せな匂いの渦。甘く香ばしい焼き菓子の匂い。食欲をそそる、肉の焼ける匂い。川から吹いてくる、水の匂いと、春の花々の香り。それら全てが渾然一体となって、祭りの空気を作り出していた。
嗅覚の全てが、美味しい記憶を呼び覚ます。 アムは、人の流れに少し圧倒され、立ち尽くした。肩がぶつかるほどの、人混みの熱気。その感触に、思わず身がすくむ。
だが、それは彼が知っている、王都の冷たい雑踏とは、まるで違っていた。ここにいる誰もが、ただ純粋に、この日を楽しんでいる。その温かい空気が、リアムの心を少しずつ解きほぐしていくのを感じた。
「あら、リアムさん! ナギちゃんの応援かい?」
声をかけてきたのは、パン屋のエルナさんだった。彼女は、リアムの手に、応援用なのであろう小さな手旗と、紙袋に入った焼き菓子を握らせた。
「これ、差し入れだよ。ナギちゃん、朝から緊張してたからねえ」
その優しい笑顔に、リアムはぎこちなく頷くことしかできない。
「あ! リアムさん!」
澄んだ声に呼ばれて振り返ると、そこにはフィアが、母親と手を繋いで立っていた。フィアはリアムを見つけると、ぱっと顔を輝かせ、駆け寄ってくる。
「こんにちは! 今日、ナギさんの応援に来たの!」
「……ああ」
「リアムさんが作った道具があるから、ナギさん、きっと一番だよ!」
フィアは、そう言って、自分のことのように嬉しそうに笑った。その純粋な応援の言葉が、リアムの胸に温かく響く。
職人街の方に目をやれば、ドワーフの頑鉄が、酒場のテラス席で、腕を組みながら難しい顔で座っていた。目が合うと、彼は「ふん」と鼻を鳴らし、ぷいとそっぽを向いてしまう。だが、その視線が、大会の会場である川辺の方を向いていることに、リアムは気づいていた。
みんなが、ナギを応援している。リアムは、手の中の焼き菓子の温かさを感じながら、再び人混みの中を歩き始めた。足取りは、来た時よりも、ずっと軽かった。
ようやくたどり着いた、大会会場である川辺の広場。そこは、街の他の場所よりも、さらに一段と高い熱気に満ちていた。川岸には即席の観客席が設けられ、大漁旗が何本もはためいている。
リアムは、人垣の後ろの方から、そっと選手たちが集まる一角を覗き込んだ。いた。ナギだ。仲間たちと肩を叩き合い、談笑している。だが、その横顔には、いつもの能天気さとは違う、引き締まった緊張の色が見えた。彼は、何度も、リアムが改良した釣竿の感触を確かめるように、そっと撫でている。
その時、ふと、ナギが観客席の方に顔を向けた。雑踏の中、二人の視線が、奇跡のように、ぴたりと合った。
ナギが、ニッと笑う。そして、周りの仲間には気づかれないよう、リアムだけに見えるように、小さく、しかし力強く、親指を立ててみせた。リアムもまた、人垣の後ろから、小さく、一度だけ、こくりと頷き返した。
言葉はいらない。最高の道具は、もう彼の手に渡してある。やがて、広場にファンファーレが高らかに鳴り響いた。
街の長老であるエルフが、開会の挨拶を述べる。この一年の川の恵みへの感謝と、街の若者たちの成長を祝う、温かい言葉だった。
そして、選手宣誓。ナギのライバルであるカイが、代表として一歩前に進み出た。
「宣誓! 我々選手一同は、日頃の修行の成果を発揮し、このリバーフェルの偉大なる川への感謝を忘れず、正々堂々、今日一番の魚を釣り上げることを誓います! ……特に俺が!」
最後の余計な一言に、会場からどっと笑いが起こる。ナギも、緊張が解けたように、楽しげに笑っていた。
カイもまた、ナギと同じ方向を向き、リアムにだけ分かるように、にやりと不敵な笑みを見せた。
再び、ファンファーレが鳴り響く。それを合図に、選手たちが一斉に、それぞれの持ち場へと散っていく。
いよいよ祭りが始まった。
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