第4話 パンの香り

「よし、準備完了だ」


 リアムは、修理を終えたオルゴールを丁寧に布で包み、革製のカバンにそっとしまった。あのパン屋の老婆から預かっていた、大切な思い出の品だ。ゼンマイから歯車の一枚一枚に至るまで、完璧に磨き上げ、調整を施した。蓋を開ければ、きっと昔と変わらない、優しく懐かしい音色を奏でるだろう。


「ようし、じゃあ行こうぜ、リアム!」


 工房の入り口で、ナギがそわそわと尻尾を揺らしながら待っていた。オルゴールを届けに行くだけなのだが、まるで遠足にでも行くかのように目を輝かせている。リアムが工房から出るのは珍しいことなので、それが嬉しいのかもしれない。


「……お前がついてくる必要はないだろう」


「いーじゃねえか、暇なんだから!それに、お前一人じゃ道に迷うかもしれねえだろ?このリバーフェルは、お前が思ってるよりずっと広いんだぜ!」


 ナギは大げさに胸を張る。リアムは小さくため息をついたが、彼の申し出を断りはしなかった。一人で街の中心部まで行くのは、正直少しだけ億劫だったからだ。


 二人は並んで工房を出た。

 森の入り口から続く緩やかな下り坂を歩いていく。道の脇には、春の訪れを告げる小さな野花が健気に咲いていた。いつもは工房の中から眺めるだけだった森の木々が、今日は違う表情を見せているようにリアムには感じられた。


 やがて木々の切れ間から、街の全景が見えてくる。リバーフェルは、大きな川が街の中心を緩やかに蛇行するように流れる、美しい街だった。川の両岸には、木と石でできた素朴だが頑丈そうな家々が立ち並び、屋根からはあちこちで煙が立ち上っている。遠くには、水車のゆっくりと回る姿も見えた。


王都アステルのような、天を突く尖塔や、権威を示す巨大な城壁はない。だが、そこには人々の確かな生活の営みが、穏やかな空気と共に満ちていた。


「どうだ、いい眺めだろ?」


 ナギが自慢げに言う。

「……ああ」


 リアムは短く答えながらも、その目に映る風景から目が離せなかった。王都を離れて以来、彼は初めて、自分がこれから生きていく場所を、きちんとその目に焼き付けたのかもしれない。



 坂を下りきり、街の入り口に差し掛かると、途端に空気が変わった。それまでの静けさが嘘のように、人々の話し声や笑い声、荷馬車の車輪が石畳を転がる音など、様々な音で満たされている。


「まずはパン屋だな。確か、川沿いの広場の近くだったか」


 リアムが独り言のようにつぶやくと、ナギが「任せとけ!」と彼の背中を叩いた。


「広場ならこっちだ。腹が減ったら、エルフのおばあちゃんがやってる果物屋もおすすめだぜ!」


 ナギはまるで自分の庭のように、慣れた足取りで人混みの中を進んでいく。すれ違う人々も、彼に気づくと「よお、ナギ!」「今日の漁はどうだった?」と気さくに声をかけた。人間だけでなく、背の高いエルフの親子や、荷物を運ぶ屈強なドワーフの姿も見える。多種多様な種族が、ごく当たり前のように共存している。それが、この国境の街リバーフェルの日常だった。


 一方のリアムは、人々の視線に気圧されるように、少しだけ身を縮こまらせてナギの後ろをついて歩いた。やがて、香ばしい匂いが風に乗って漂ってきた。焼きたてのパンの、甘く優しい香りだ。


「着いたぜ!ここが街で一番のパン屋、『木漏れ日ベーカリー』だ!」


 ナギが指差した先には、かわいらしい木製の看板が掲げられた店があった。窓辺には季節の花が飾られ、店構え全体から、店主の温かい人柄がにじみ出ているようだった。

 リアムが店の扉を開けると、カラン、と心地よいベルの音が鳴った。


「はい、いらっしゃ……まあ! あんたは、森の工房の!」


 カウンターの奥から顔を出したのは、あのオルゴールを依頼してきたエルフの老婆、店主のエルナだった。穏やかな笑顔で皺の刻まれた顔が、リアムを認めてぱっと華やぐ。


「オルゴール、直りました」


 リアムはぶっきらぼうにそう言うと、カバンから布包みを取り出し、カウンターの上にそっと置いた。


 エルナは震える手つきでそれを受け取ると、ゆっくりと包みを解いていく。そして、丁寧に磨き上げられたオルゴールを目にして、感嘆のため息を漏らした。


「まあ……こんなに綺麗に……」


 リアムがおもむろに蓋を開けると、澄み切った、それでいてどこか懐かしい音色が店内にあふれ出した。それは、エルナの亡き夫が好きだった、古い子守唄のメロディだった。


 エルナの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。


「……ああ、この音だ。あの日、あの人がくれた時と、少しも変わらない……。ありがとう、本当にありがとう、若い方」


 彼女は何度も頭を下げると、店の奥から焼きたてのパンを大きな紙袋に詰め、リアムに無理やり持たせた。


「これはほんのお礼だよ。代金はこれとは別さ。あんたの腕は、金なんかじゃ計れないほどの宝物だね」


 エルナの心からの言葉に、リアムは何も言えず、ただパンの温かさを感じながら俯いた。


 パン屋を出た後も、ナギはリアムを街のあちこちへ連れ回した。鍛冶屋が槌を振るう音が響く職人街、色とりどりの薬草や珍しい鉱石が並ぶ市場、そして、漁師たちが集う川辺の船着き場。リアムは黙ってそれらを見て回った。


 市場では、ナギが「ここの干し肉は絶品なんだぜ!」と、獣人の店主と陽気に言葉を交わしながら、串焼きの肉を二本買った。一本を無言で差し出され、リアムも戸惑いながらそれを受け取る。


「どうだ、リバーフェルは?」


 川沿いの石段に腰を下ろし、肉を頬張りながらナギが尋ねた。


「……人が多い」


「ははっ、まあ王都に比べりゃ、赤ん坊みたいなもんだけどな」


 ナギは笑うと、川面を眺めた。そこには、漁から戻ってきた小舟や、水鳥たちがのんびりと浮かんでいる。


「ここには、すげえ宝物も、国を動かすような偉い人もいねえ。けどな」


 ナギは続ける。


「みんな、毎日一生懸命生きてんだ。パン屋のばあちゃんみたいに、小さな思い出を大事にして、ドワーフの頑固オヤジみたいに、自分の仕事に誇りを持ってな。俺は、そういうこの街が好きなんだ」


 リアムは、手の中のパン袋に視線を落とした。ずっしりと重く、そして温かい。それは、ただのパンの重さだけではないような気がした。人々の想い、日々の暮らしの温かさ。王都では決して感じることのできなかった、確かな手触りのある温もりだった。


「……悪くない」


 リアムは、ぽつりと呟いた。


「ん、何か言ったか?」


「……なんでもない」


 彼はそっぽを向くと、串焼きの肉にかじりついた。少し濃いめの味付けが、なぜだかとても美味しく感じられた。

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