第37話 呪い発動
城の書庫は深い沈黙に包まれていた。黒いマントの裾が石床を擦る音だけが、夜気に微かに響く。
ウィリアムは手にしたブローチを掌で転がしながら、淡い青白い光を放つ瓶を見つめた。中には、かつて聖女として現れたソフィアの魂が、微かに震える焔のように揺れていた。力を失ったと思われた彼女の魂は、なお癒しの根源を内包しており、それを正しく変換すれば、王家を衰弱させる呪いの核心となる。
「思った通り、これで完璧だ……」
ウィリアムは小さな笑みを零した。ブローチが反射する光に、自分の野心を重ねる。アルベールを弱らせ、息子ルークにまで影響が及ぶことは、計画外ではあるが、喜ばしい誤算だった。王家の力が削がれれば、自分の掌中にすべてが収まるのだ。
その頃、アルベール王は自室で膝をつき、胸に手を当てた。重苦しい寒気が体を走り、視界が揺れる。血管の奥で何かが引き裂かれるような違和感。力を抜かれるように全身が重く、剣を握る手も冷たく痺れていった。
「……何だ……この……」
低く唸る声が、静まり返った城の空間に響く。胸を押さえるたびに、過去の記憶が彼の意識を支配する。
遠く西の森で過ごした、アリサの笑顔。優しく微笑んだその面影が、呪いの霧に絡め取られ、胸の奥を締め付ける。
視界はぼんやりと揺れ、足は鉛のように重い。剣の柄に触れようとするも指先は冷え、力は抜けていく。王の威厳は霧に覆われるごとに色を失い、アルベールは自らの無力さに、初めて恐怖を覚えた。
その心理をさらに蝕むのは、愛する人への思いだった。アリサを、そして失われた幸せを思い出すたび、呪いの力は深く浸透し、体も魂も支配される。かつての自信と誇りが、今ではただ虚しい記憶の残滓となった。
同時に、幼いルークも寝室で苦悶していた。布団にうずくまり、震える小さな手で毛布を握る。胸を押さえ、呼吸を整えようとするも、何もかもが重く、痛みに満ちている。
アルベール王の血を引く彼の体にも、知らぬ間に呪いが浸透し、無垢な魂さえも削がれていた。
「ルーク……!誰か……医者を……!」
王妃は慌てて呼び声を上げるが、霧は見えぬ手で子の体を締めつけ、助けは間に合わない。ルークの目に恐怖と混乱が浮かぶ。夢の中で手を伸ばすも何も掴めず、ただ心細く体が震える。
城の奥深く、ウィリアムは静かにブローチを手にし、瓶の中の光を見つめた。光はアルベール王とルークの血脈に沿って黒い霧となり、魂の奥深くまで浸透している。その広がりは緩やかに、しかし確実に体の機能を蝕んだ。心臓の鼓動の乱れ、手足の冷え、血の温もりの喪失、呼吸の浅さ。すべてが呪いの進行を示していた。
「なるほど……想像以上に効いている」
ウィリアムは低く呟く。計画外にルークまで影響を受けたが、彼の心中は焦りではなく歓喜に満ちていた。
王家が弱体化するという現実は、全ての障害が消え去ることを意味する。権力も、財も、支配も――すべて手中に収まるのだ。
瓶の中の青白い光が揺れ、微かに震える。その残滓はかつて聖女だったソフィアの魂であり、癒しの力が呪いに変換される瞬間。魂の光は力を失ったが、なおアルベール王とルークの体内に侵入し、精神と体を揺さぶる。ウィリアムはその変化を確認すると、冷たい笑みを浮かべた。
夜は深まり、城は静まり返る。黒い霧は城内に満ち、二人の体と心を確実に蝕む。王は床に崩れ、膝をついたまま愛する人の面影にすがる。
ルークは眠れぬまま、夢と現の境で震えている。今後、彼らの力と幸福は次第に削がれ、ウィリアムの思惑通りに支配される運命を歩むことになった。
やがて、王城の上を覆う霧は、夜明けを拒むかのように濃く沈んでいった。
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