第34話 乳母と娘

城から遠く離れた西の国の境に、ひっそりと暮らす女がいた。

小さな小屋。森を抜ける風に軋む古びた扉。外の井戸から水を汲み、薪を割り、火を起こして食事を整えるだけの、慎ましい暮らし。


かつて艶やかな髪は月光をも凌ぐと讃えられ、白磁のような肌は、若さと清らかさの象徴だった。だが、あれから九年もの月日が流れ、髪は艶を失い、頬には影が刻まれた。


鏡を覗くたび、胸が締め付けられる。

――とりわけ、生き別れた息子レオンのことを思うと。


息子が十歳のあの日から、時は止まったままだった。

彼はいま、どうしているのだろう。生きているのか、それとも……。


アリサの時は、あの日を境に動きを失った。



幼なじみのアルベールと過ごした日々は、夢のように甘く、そして残酷なほど美しかった。


数年ぶりに王都に戻ることになった日、アリサの運命は再び動き出した。


「アリサ」

背後から呼ばれる名。それだけで心臓が跳ねた。

数年ぶりに再会した時、幼なじみの少年は立派な王として、凛々しい男になっていた。


王と侍女――あまりにも違う立場。けれど、彼の微笑みはその隔たりを容易く越えてしまった。


二人の関係を快く思わぬ者もいた。

アリサの母、ソフィアは厳しい目を光らせていた。

「王と侍女が結ばれるなど、許されるものではありません」

分かっていた。けれど、止められなかった。


「アリサ、私がどれほど君を愛しているか、分からないだろう」


その腕に抱かれるたび、アリサは信じた。自分は確かに愛されていると。

城の片隅、秘密の逢瀬。短い時間でさえ永遠に等しい宝物だった。


やがて子が宿った。

そのことを告げた日のことを、アリサは今も鮮やかに思い出す。


「……本当か」

目を見開いた彼は、次の瞬間、少年のように無邪気に笑った。

「アリサ、ありがとう。君との子を……どんなことがあっても、守り抜く」


その言葉に、全身が幸福で満たされた。


アリサは幸せだった。


だが、幸福は長くは続かなかった。



「すまない、アリサ」


ある夜、アルベールは険しい顔で告げた。

「君を愛している。だが父には逆らえない。王として定められた婚姻を果たさなければならないんだ」


アリサは微笑んだ。予感はあった。

彼が王である限り、避けられぬことだった。

だからこそ、あの甘い日々は残酷に彼女を盲目にさせたのだ。



やがてアリサは城の離れへ移された。

彼女に寄り添うように、侍女が傍らについた。

乳母の役を務め、若きアリサを支え続けた存在。

聖女と謳われた母ソフィアだった。


秋が深まる十一月のある日。アリサはひっそりと男児を産んだ。名前をレオンと名付けた。


小さな産声が夜を震わせた瞬間、胸に抱いたぬくもりが心を射抜いた。

「アル……」と無意識に洩らした声は、母としてではなく、愛する人の名を呼ぶ女の声だった。


「目元がアルベール様にそっくりだわ」

乳母が囁く。アリサの瞳からは涙があふれた。


それからの十年間、アリサは乳母とともにレオンを育てた。

親子と名乗ることは許されず、彼女はただ「若き女」として「幼き王族に仕える者」としてそこにいた。


離れの館は表向き存在しない場所と扱われた。だが、そこは確かに愛に包まれた小さな王国だった。


レオンはよく笑う子だった。

外の庭を駆け回り、花を摘んでは差し出した。

「これ、アリサ様に似合うよ」

はにかむ声に、アリサは胸を詰まらせた。


アルベールに似た瞳。自分に似た口元。

そのすべてが愛おしかった。


だが――その日々は十歳のある日を境に、無残に崩れ去ることになる。

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