第16話 マチルダと金の腕輪
王妃の指示に促され、マコは震える手で一歩、また一歩と歩を進めた。豪奢な石造りの回廊は、重厚な柱と壁画に囲まれ、古の権威を静かに誇示している。赤絨毯は歩みを吸い込み、足音は低く反響する。灯りは控えめに設えられ、燭台の小さな炎が揺れるたび、壁に陰を落とす。まるで回廊そのものが、マコの緊張を見透かし、圧力として押しつけてくるようだった。
「……なんと良い日なのでしょう」
王妃の声が、闇にひそむ風のように滑り込む。口元は微笑んでいるのか、それとも歪んでいるのか判別できない。その美貌の陰には、長年の計算と冷酷な嗜虐心が潜んでいた。マコの背筋を、見えない手でぎゅうっと握られたような感覚が走る。呼吸が浅くなる。
王妃は机の引き出しから、古びた羊皮紙の巻物を取り出した。赤い紐で縛られたそれは、ひび割れた表面に複雑な魔法紋が刻まれている。「これは契約魔法を秘めた文書よ」と王妃は静かに告げたが、その声は砂利を踏む獣の吐息のように冷たく、嗤う意図を隠してはいなかった。
「契約とあれば、必ず代償は伴うもの。けれど、それは“労働に見合った報酬”と呼べば済む話。貴女も望みがあるのでしょう? 人は皆、欲という泉を抱えている。涸れることのない泉を」
王妃の瞳が、じっとマコを貫く。思わず腕を抱きしめ、視線を伏せる。内側からじわりと緊張が全身を包む。
「……聖女――貴女をわたくしの庇護下に置きましょう」
その言葉には甘さと冷酷さが混ざり、空気を重く歪める。続けざまに王妃は告げる。
「望むものはわたくしが叶えてあげる。その代わり――ルークの呪いを解くこと。貴女には、それができるはず」
ルーク――。あの透明な瞳と、呪いに蝕まれていた背筋を思い出す。胸がぎゅっと締め付けられる。だが、あの呪いは複雑すぎて、ひとりでは到底解けるはずもない。
「……難しいと思います。ルーク様の呪いは、非常に複雑でした。できない可能性が高いものを、できるとは言えません。私の力は万能ではないから」
一瞬、空気が凍りついた。王妃の目が細く光り、唇の端が吊り上がる。冷たい蛇の舌が耳を撫でるように吐き捨てる声。
「……生意気な娘ね」
マコは黙ったまま。否定すれば命を危うくし、肯定すれば自らを縛る。沈黙が、かろうじて盾となる。
王妃は長い睫毛を伏せ、顔を上げたときには氷のような微笑を浮かべていた。
「まぁ、いいわ。貴女には一室を与えます。今日からそこで過ごしなさい。わたくしが呼べば、すぐに来ること。そして――ルークが呼んだ時も同じに」
鈴の音が小さく響く。王妃は巻物を広げ、マコに差し出した。
「契約書よ。署名なさい。……そういえば、名前をまだ聞いていなかったわね」
巻物を覗き込むと、びっしりと見慣れぬ文字が並ぶ。頭に入らず、意味が結ばれない。「魔法の契約」にふさわしい、異世界の文様と言葉。
「……この世界では、私にはファーストネームしかありません。‘マチルダ’と記してください」
王妃の口元が大きく吊り上がる。
「ふぅん、マチルダ。いい響きね。気に入ったわ」
そして自ら署名欄に文字を刻み、呪文を唱える。巻物は青い炎に包まれ、室内の空気が震えた。炎は紙を焼かず、逆に勢いを増して渦巻き、マコの腕へと生き物のように這い上がる。
「……っ!」
骨の内側を締め上げられるような圧迫感。呼吸を奪われ、視界が揺れる。必死に振るう手は、炎に絡め取られる。痛みは外からではなく、体の芯から。心臓を握られるような恐怖に、マコの身体が硬直した。
炎はやがて形を変え、左右の手首に冷たい金色の輪となってはまり込む。宝飾のように美しいが、逃れられぬ枷。
「契約は成立したわ」
甘く、残酷な声。力が抜け、足元がおぼつかなくなる。侍女が支えるが、手首の輪は冷たく、意識が深く沈み込む。
足音が低く響く。
ベッドに横たわると、全身が鉛のように重く、思考の破片が脳内で渦を巻いている。呼吸さえままならぬほど、王妃の意志と契約の束縛が心を圧迫するのが分かった。
手首の光る輪は、眠るマコを容赦なく縛り、深い眠りの中でも逃れられぬ現実を突きつける。城の闇、王妃の眼差し、契約の魔法――すべてが、少女を捕らえ、抗えぬ運命へと押し流していた。
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