第14話 王子と伏した王

夜は澄んだ冷たさを増していた。王都ラディスの上空には高く月が浮かび、薄い雲の切れ間から、星の光が冷ややかに降り注いでいた。


「この後、第一王子ルーク様にお目通りいただきます」


侍女の声が響いた瞬間、マコの背筋は自然と伸びた。

王宮の大広間――その荘厳さは、彼女の想像をはるかに超えていた。


天井はどこまでも高く、磨かれた石壁は月明かりを受けて淡く輝いている。

長い赤絨毯が玉座まで続き、その両脇には銀の甲冑をまとった兵士たちが一糸乱れぬ姿勢で控えていた。

白壁には豪奢なタペストリーが掛けられ、灰色の回廊の向こうには、古の王たちの肖像が並んでいる。

柱は黒大理石で、床には淡い光を返す青灰の紋章石が敷かれていた。

重厚でありながら、どこか冷たく、永遠の静寂が支配する空間――それが王の間だった。


その中心に、ひとりの少年が立っていた。


まだ十五歳ほど、背丈は伸びきっていないが、立ち姿にはすでに凛とした気配が漂っている。

整った眉の下の瞳は真っ直ぐで、透き通るほど澄んでいる。けれど、その透明さの奥には言いようのない影が差していた。


マコは息をのんだ。

(この人が……第一王子)


「私こそ、このような挨拶しか出来ず、失礼します」

膝を折り、深々と礼をする。


想像していた「堂々たる若王子」とはまるで違った。

もっと威厳をまとい、年齢を重ねた人物だと思っていたのに。目の前にいるのは、まだ少年から青年へと移ろう途中の、あどけない子供のようだった。


胸の奥に、不思議な庇護の念が芽生えていた。


「……ようこそ、聖女殿」

澄んだ声が広間に響いた。まだ不安定な少年の声色。けれどその瞳には、深い影が揺れていた。


「こちらのしきたりは、少しずつ覚えていけばいい」


彼はすっと手を差し伸べてきた。まだ線の細い、少年らしい手。

マコは一瞬ためらったが、静かにその指に自分の指を重ねた。


その瞬間――。


白く、温かく、柔らかな光がふたりを包んだ。

広間の空気が震え、燭台の炎が揺らぎ、赤い絨毯にまで淡い輝きが広がっていく。


ルークの表情が揺れた。

彼は自らの体に流れ込む変化をはっきりと感じ取ったのだ。幼い頃から彼を蝕んできた呪いが――今、半ば解けた。


「これは……」

驚愕と歓喜が入り混じった声が、彼の唇から零れる。


その光景を見ていた王妃の瞳に、狂気じみた光が宿った。

「なんて素晴らしい力なの!」


彼女は思わず前のめりになり、声を張り上げた。

その熱を帯びた視線に射抜かれ、マコは言葉を失ったまま、ただ立ち尽くすしかなかった。


***


「あなた、今日は素晴らしい報告があって来ました」


王妃は満足げに言い、マコを導いた。向かう先は王の居室。

灰白の回廊を抜け、扉の前に立つと、侍従たちが静かに頭を下げる。


厚い扉の前に立ったとき、マコは足を止めた。

王の寝室に入ることを許されるのは――王妃と第一王子、そして世話をする侍女だけ。

今、自分がその扉の前に立っていることが、どれほど異例なことかを痛感する。


扉の隙間から、冷えた空気がわずかに漏れ出していた。

それはただの夜気ではない。閉ざされた時間と、誰にも触れさせぬ沈黙が積もった空気だった。


王妃は一言も発さず、白い手でゆっくりと扉を押し開ける。

蝶番が軋む音が、やけに大きく響いた。


その奥――

月明かりすら届かぬ静寂の中、燭台の炎がひとつ、頼りなく揺れていた。

石壁ではなく磨かれた灰の壁が光を受け、わずかに王の影を映す。


誰も口を開かない。

侍女が静かに一礼し、後ろ手に扉を閉めた瞬間、外界の音はすべて消えた。


そこは、王国の心臓でありながら、死に最も近い部屋だった。


――空気は一変した。


夜の冷気に加え、重苦しく澱んだ空気が肌にまとわりつき、思わず胸を押さえたくなるほどだった。

壁は白ではなく鈍い灰に沈み、カーテンは固く閉ざされ、わずかな燭台の炎だけが頼りなく揺らめいている。

外の星光は遮られ、ここだけが時を止めたかのようだった。


ベッドの上――そこに王がいた。

かつて偉大だった男の体は、今はやせ細り、力を失っていた。

頬はこけ、目の下には深い影。呼吸は浅く、今にも途切れそうに見える。


「さあ、貴女の力を見せて」


肩に手を置き、耳元で囁く王妃に促され、マコは静かに王の枕元へ歩み寄った。


「失礼します」


その手を握る。大きく、骨ばった手。だがその温もりは弱々しく、命の炎は今にも消え入りそうだった。


マコの掌から、再び光が溢れた。

けれど――ルークの時のような強い輝きではなかった。


やわらかな光は王の体を包んだが、すぐに薄れて闇に溶けた。

呼吸は依然として浅く、途切れがちだ。


(栄養が足りてない……長い間、衰弱していたのね。この国の医療ではどうにもできなかったのかしら)


自分ができたのは、呪いをほんの少し解いただけ。

しかも複雑な術式で、完全に解き切るには時間がかかる――直感がそう告げていた。


(いったい誰が……)


マコは伏せたまま、唇を噛んだ。

その思考の端で、王妃の言葉と視線が不気味に絡みついて離れなかった。



王宮の夜は深く、静寂の中で月光だけが白い回廊を照らしていた。

遠くの塔で鐘が鳴り、継承式前夜の幕が、静かに上がろうとしていた――。

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