第9話 友達

「まだ勉強してるのか?」


不意に低く響いた声に、マコはびくりと肩を揺らし、手にしていた書物を慌てて閉じた。


ランプの灯りに照らされた紙面がぱたりと閉じる音が、やけに大きく響いた気がする。


「ごめんなさい、起こしてちゃったね。もう寝るわ」言い訳めいた言葉を口にして立ち上がろうとした。


「ごめんなさい、起こしてちゃったね。もう寝るわ」

言い訳めいた言葉を口にして立ち上がろうとした。


外では木々の枝が風に擦れ、乾いた葉が小屋の屋根を転がる音がする。

十月の夜風は冷たく、窓の隙間から入り込んだ空気が、ランプの炎をかすかに揺らした。


ここは山あいの小さな木造の小屋。

マコは炉のそばの小机に向かい、羊皮紙を広げていた。

レオンはそのすぐ後ろの簡素なベッドで横になっていたが、どうやら眠りは浅かったらしい。

仕切りの少ない空間では、紙をめくる音さえ響く。


背を向けかけたその瞬間、温かな感触が手首を包んだ。

驚いて振り向く間もなく、軽く引かれた拍子にバランスを崩し、そのままレオンのベッドの上に倒れ込んでいた。


抗議の言葉が出るより先に、彼の腕が肩口を抱き寄せてきた。

強引というより、自然にそこに収まってしまうような力加減だった。


「寒いだろ」落ち着いた声。

けれどその奥に熱が滲んでいるのを、至近で感じ取ってしまう。


十月の夜。昼間はまだ陽射しの温もりが残っているとはいえ、秋は確実に深まり、夜気は肌を刺すほど冷たい。


だがマコはかすかに笑って、かぶりを振った。


「寒くないよ」

そう答えながら、どうにか体を起こそうと身をよじった。


けれどその動きは許されない。

胸元へぐっと引き寄せられ、背に回された腕が逃げ道を塞ぐ。心臓の鼓動が耳の奥でやかましいほどに響いた。


――困ったなあ。


「レオン、前にも言ったけど、私には夫がいるの」

小さく、けれどはっきりと告げる。


それはこの世界に来てから幾度も胸に刻み直してきた事実だ。たとえ離れていても、心のどこかに確かに結ばれた存在がいるのだと。


けれど返ってきた声は、思いもよらぬ響きを帯びていた。


「この世界に?」


低く、深く問いかけるような声。


マコの心臓が跳ねた。レオンの視線は鋭い。彼女を縛ろうとするのではなく、ただ真っ直ぐに射抜いてくる。そこには答えを求める強さがあった。


「君の旦那はどんなやつ?」


ふいに投げかけられた言葉は、冗談めいているようで、けれど探るような真剣さも滲んでいた。


「いい人よ」短く答える。


声がかすかに震えていることを自覚し、唇を噛んだ。「かっこいい?」「そうね、私にはそう見えてたわ」かすかな笑みを添えてそう言う。


だがレオンの胸の奥にざわめきが走った。その笑みも、その声音も、自分以外の誰かに向けられていたものだと、思わずにはいられなかった。


「キスは上手?」

思わず零れた問いに、マコは眉をひそめた。


「からかうのはよして」諭すような声。


レオンの中で小さな炎が灯っていた。見えない相手に嫉妬するなんて、初めてのことだ。

――俺は、俺だけが君に触れたい。君の笑顔を独り占めにしたい。


衝動に突き動かされるように、レオンはマコを抱き寄せ、その唇へと顔を近づけた。


「ダメ」

華奢な指先が間に割って入る。

壁のように伸ばされたその手が、唇と唇の距離を遮った。


「友達でしょ、私たち」言葉は優しいのに、拒む意志は確かだった。


レオンの胸の奥に、苦い痛みが広がる。


「酔ってるのね」

マコは淡々と言葉を重ねた。


レオンの頬は赤く染まり、果実酒の匂いが微かに漂っている。


「新しい果実酒を作らなきゃならないからって、瓶を無理やり空にする必要なんてないのよ?」


彼女の言葉には、叱るというより呆れるような色があった。けれどマコの心の奥では別の思いも揺れていた。


男女がひとつ屋根の下で何もないわけがない。血の通った若い男と女だ。レオンはすでに背は伸び、男としての熱を抱えている。そんな存在に恩人として接し続けるには、あまりに近すぎる距離だった。


――男の子だもの。


目の前に女の子がいたら、ただの友達で済むはずがない。マコはふと思案した。


彼は子供ではない。確かに「男」としての熱を抱えている。けれど、踏み越えてはいけない線がある。マコは静かに息を吐き、レオンのおでこにそっと唇を触れさせた。子供をあやすように、優しく、柔らかく。


驚いたように目を瞬かせたレオンの腕から、するりと抜け出し、毛布を取って、掛けてやる。


「おやすみ、レオン。良い夢を」


ランプの灯りが揺れ、二人の影を壁に映し出す。

マコは静かに背を向け、屋根裏へと足を運んだ。背中に残る温もりと視線の熱を振り払うように。

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