二章十五話 虚ろな国

「──ありがとうございました」


 淡々とした声とともに、包みが差し出される。その動作はひどく機械的で、まるで決められた手順をなぞっているだけのようだった。

 ココアは、はっと我に返ったようにそれを受け取る。指先が、かすかに震えた。


「──ありがとう、ございます」


 口元を引きつらせながら、どうにか笑みの形を作る。声はぎこちなく、喉の奥で絡まりそうになるのを必死に押し殺した。

 これ以上、その場に留まってはいけない。理由はわからない。ただ、胸の奥で何かが強く警鐘を鳴らしていた。

 ココアは視線を逸らし、人混みへと身を滑り込ませる。逃げるように、走り去った。


 背中に、あの虚ろな視線が突き刺さっている気がして──振り返ることは、どうしてもできなかった。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「──ココアちゃん、ありがとう。お金は足りた?」


 耳鳴りが、まだ消えない。世界が遠く、ぼやけていて、視界には自分の足元ばかりが映っていた。石畳の隙間、踏みしめるたびに響く音、早まった呼吸──それだけが、やけに鮮明だ。


 そんなココアの耳に、ふいに降りかかる穏やかな声。アウルのものだと理解するのに、ほんの一拍、遅れた。

 はっとして、顔を上げる。


「──はい。足りましたよ」


 声が裏返らないように、意識して喉に力を入れる。唇の端を持ち上げ、いつものように笑ったつもりだった。

 けれど、頬はこわばり、血の気の引いた顔色までは誤魔化せない。それでもココアは、何事もなかったように振る舞おうとした。


 ──まだ、この違和感に名前を与える勇気は、なかった。


「──ココアちゃん?」


 呼びかけられても、すぐには返事ができなかった。頭の中では、先ほどの光景が何度も反芻され、思考が絡まり合っている。唇をきゅっと結び、息を整えようとしても、うまくいかない。

 その様子があまりにも不自然だったのだろう。アウルは小さく首を傾げ、困惑したように眉を寄せた。


「少女、何かあったのか? 顔が青いぞ」


 アダムがそう、ココアの顔を覗き込んでくる。

 アウルが「やめろ!」と怒っている声も聞こえる。

 と、


「──ココアちゃん」


 呼ばれるより先に、冷えていた手のひらに、するりと温もりが重なった。反射的に顔を上げる。

 そこにいたのは、カオルだった。不安を隠しきれない表情で、まっすぐこちらを見つめている。

 赤い瞳が、至近距離でココアの姿を映している。揺れも歪みもない、ただ静かな視線。


「──ご主人様……」


 声に出した瞬間、胸の奥に溜まっていたものが、わずかに緩んだ。


「大丈夫? 人混み、苦手だったとか?」


 責める色はない。状況を理解しようとする、柔らかな問いかけだった。


「そうだったのか? ならば悪いことをしたな……」


 アダムが申し訳なさそうに肩をすくめる。


「どこか、静かな場所で休もうか」


 続いて、アウルが穏やかに提案する。選択を押しつけない、いつもの声だった。


「……どうする? ココアちゃん」


 促されて、ココアはもう一度、カオルの手を見る。確かにそこにある、ぬくもり。

 逃げ場のようで、帰る場所のような温度だった。

 その手を、ぎゅっと握り返し、小さく、けれど確かに、首を縦に振る。


「──ならば、私に任せてくれ!」


 アダムはぱっと声を張り上げ、場に落ちかけていた沈黙を勢いよく掬い上げた。


「こう見えても、この国には何度も足を運んでいてね。人通りの少ない道も、落ち着ける場所も、ちゃんと心得ているつもりだ」


 胸を張ってそう言い切るその態度は、少し大仰ではあるものの、嘘や虚勢とは違う自信に満ちていた。


「せっかくだ。私のおすすめの場所へ案内しようじゃないか」


 明るく、快活な声。それは、重くなりかけていた空気を意図的に吹き飛ばそうとするものだった。

 その軽やかさに、張り詰めていた場の気配が、ほんのわずかに和らいでいくのを、ココアはぼんやりと感じていた。


「うむ……それにしても、随分と静かだな」


 歩みを進めながら、アダムがふと足を緩め、周囲を見渡した。人通りはある。建物も整っている。けれど、そのすべてが、どこか遠巻きに存在しているような感覚があった。


「昔は、ここまでではなかったはずだが……」


 独り言のように零されたその言葉には、懐かしさと同時に、確かな引っかかりが混じっていた。


「ああ……」


 それを受け、アウルもまた、視線を巡らせながら静かに頷く。


「もともと賑やかな国というわけではなかったけれど……それにしても、静かすぎる気がするな」


 耳に届くのは、人の声ではなく、靴音や風の音ばかりだ。市場が近いはずの通りでさえ、活気と呼べるものが、どこか薄い。


「昔お前と旅をした時は、静かだが活気に満ちた国だったはずだがな」


 アダムはそう言って、通りを見渡した。懐かしさを滲ませるような口調とは裏腹に、その視線は過去ではなく、今の街を正確に捉えている。


「情勢の変化──として片付けるには、あまりにも不自然だな」


 続く言葉に、アウルも小さく頷いた。


「──不自然、ですか?」


 先ほどまでの動悸がようやく治まりつつある中で、ココアは静かに問いかける。自分が感じた違和感と、二人の言葉がどこかで繋がっている気がしていた。


「うん。出店の具合を見るに、そこまで経済状況は悪くなさそうなんだ。だと言うのに、人だけが、あの頃とは随分と様変わりしている」


 街は整っている。物も、人の流れも、表向きには問題ない。それでも――ココアの胸の奥に残る、あの冷たい感覚が否定できなかった。

 活気がないのではない。生きているはずのものが、静かすぎる。

 その感覚は、先ほど出会ったあの店員の虚ろな瞳と、静かに重なっていた。


「──気のせいかもしれないのですが、いいですか?」


 ココアは、ほんの少しだけ間を置いてから、そう切り出した。声は控えめで、強く主張するものではない。それでも、その響きには、自分の中に引っかかっているものを無視できなくなった覚悟が滲んでいた。


「ああ、いいとも。どうかしたか?」


 アダムが首を傾げて応じる。その仕草は軽やかで、いつも通りの快活さを保っている。

 けれど、ココアの視線はそこにはなかった。脳裏に浮かんでいるのは、つい先ほど見た、屋台の向こう側の光景だ。


「──目が、おかしいと思います」


 言葉にした瞬間、胸の奥がひくりと痛んだ。曖昧で、説明しきれない感覚。それでも、あれを何もなかったことにはできなかった。


「──目?」


 アウルが、その言葉をなぞるように繰り返し、驚いたように目を見張る。


「はい、目です。あの──出店で、目がおかしい人と対峙しました。それが怖くて、不気味で……」


 言葉を紡ぐにつれ、ココアの指先に、じわりと力がこもる。思い出そうとすればするほど、胸の奥に冷たい感覚が蘇ってくるのだ。

 あの視線。感情を映さない、虚ろな目。人の形をしていながら、人として見ていないような、あの感覚。


「──それが、先程の顔色の原因か?」


 アダムの問いは静かだったが、冗談めいた響きは一切なかった。軽薄さを削ぎ落とした声音が、事態を軽くは見ていないことを示している。


「──はい」


 短く、けれどはっきりと答える。その肯定は、迷いや誇張ではないという意思表示だった。


 その返答に、アダムはそれ以上言葉を続けなかった。

 口を閉ざし、視線を伏せる。その沈黙は、単なる驚きではなく、何かを思い当たった者のそれにも見えた。


「──目」


 そして、アウルが、もう一度だけその言葉を口にする。

 確認するように、噛みしめるように。


 声は低く、落ち着いている。だが、その奥には、思考が急速に巡り始めている気配があった。

 偶然や思い過ごしとして切り捨てるには、あまりにも、引っかかりすぎる。


 ココアは三人の反応を前に、無意識のうちにカオルの手を握る力を、ほんの少しだけ強めていた。


「──ココアちゃん、大丈夫?」


 カオルは、アウルやアダムのように、何か具体的な心当たりがあるわけではなさそうだった。この国の違和感や、「目」という指摘が意味するものを、理屈として理解できているわけでもない。

 それでも――ココアの言葉そのものを、疑うことはなかった。

 ただ純粋に、目の前で顔色を悪くした彼女のことが心配で、不安をそのまま形にしたような表情で、ココアを見つめている。


「ご主人様……」


 その呼びかけには、安堵と、胸の奥が少しだけ締め付けられるような感情が混じっていた。

 自分が感じた恐怖を、何の疑いもなく受け取ってくれる。その優しさが、今は少しだけ、痛い。


「俺の記憶のこと、急いでくれてて嬉しいんだけど……しんどいなら、ゆっくりでもいいって思うんだ。だから……」


 言葉を選びながら、途切れ途切れに続けられる声。

 そこには焦りも、強要もなかった。ただ、ココアが無理をしているのではないかという心配と、彼女を気遣う気持ちだけがあった。

 それは、記憶を取り戻したいという願いよりも、ココア自身を大切にしているという証だった。


 だからこそ、ココアは、この言葉に、救われると同時に、胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えていた。


 ──ココアは、自分の気持ちを優先しても、いいのだろうか。

 それで、また、カオルが傷つくことにならないか。


 答えの出ない問いが、静かに胸の中で揺れていた。


「──少女、少年!」


 不意に飛んできたアダムの張りのある声が、二人の間に静かに漂っていた感情の揺らぎを、ぱしりと叩き割った。


「きゃっ」

「はいっ」


 ほとんど同時に、反射的な声が上がる。ココアは肩を跳ねさせ、カオルは背筋を伸ばすようにして、声の方を向いた。


「──アダムさん、なにかお気づきになりましたか」


 ココアが、恐る恐るといった様子で問いかける。

 先ほどの出来事が、まだ胸の奥に引っかかったままだ。自分の感じた違和感が、単なる思い過ごしではなかったのではないか――その答えを、無意識のうちに求めている。


「ああ。むしろ、気づかなかったことを詫びたいくらいにな」


 アダムは、いつもの快活さをわずかに抑えた声音でそう答えた。軽口の形を取りながらも、その内容は決して軽いものではない。


「──? なにを……」


 話の意味がまだ掴めず、カオルが不思議そうに首を傾げる。

 彼の視線は、アダムの表情を探るように注がれていた。


「──この国には、心がない」


「──心、ですか?」


 その言葉を受けて、ココアが思わず瞳を見開く。


「比喩ではないぞ。言葉通りにだ」


 すぐさま続けられたアダムの言葉は、逃げ道を塞ぐように、現実を突きつける。軽さはなく、冗談めいた調子もない。ただ、事実を事実として告げる声音だった。


「どういうことですか……?」


 カオルの表情も、次第に和らいだものから引き締まったものへと変わっていく。理解しようとしているからこそ、言葉を選びながら問い返すその姿は、彼の誠実さをそのまま映していた。


 そして、


「──何らかの魔法か呪術の類で、この国は心を失った」


 アダムはそう言い切ると、言葉を補足するように、周囲へと小さく指を向けた。視線を促す仕草は控えめだが、その意図は明確だった。


 三人の視界に改めて映り込んだのは、整然とした街並みと、行き交う人々の姿だった。


 そして、


「──ひ、」


 喉の奥が引き攣り、悲鳴になりきらない音が、ココアの口から零れ落ちた。息を吸うことすら、ほんの一瞬、忘れてしまう。


「──少女が気付いたのは、人の目を見て話す癖と、洞察力の高さがものを言ったのだろうな。だが、今は違う。気づいてしまえば、認識阻害などなんの意味もない」


 アダムの声は淡々としていた。説明口調でありながら、そこに迷いはない。まるで、すでに結論が出ている事象を、後追いで言語化しているだけのようだった。


 なぜ、今まで見えていなかったのか。

 なぜ、気づけなかったのか。


 そう問われれば、答えはひどく単純で、そして残酷だ。


 ――見ていなかったから。


 意識を向けなければ、世界は都合よく輪郭を曖昧にする。異常は日常の中に溶け込み、違和感は「気のせい」という言葉に押し流される。

 だが、一度それを認識してしまえば、もう誤魔化しは効かない。


「──この場では、私たちの方が異端者だ」


 その言葉に導かれるように、ココアは震える視線を、周囲へと巡らせた。


 通りを行き交う人々。

 屋台の前で立ち止まる者。

 何事もない顔で、日常を営んでいるはずの――この国の人間たち。


 けれど、


 ココアたち以外の、すべての人間の瞳は、深淵を覗き込むような黒だった。光を反射せず、感情を映さず、ただ底知れない闇を湛えている。

 肌は不自然なほど白く、血の巡りを感じさせない。呼吸し、歩き、言葉を発しているはずなのに――生きているとは、どうしても思えなかった。

 街は、確かに機能している。だがそこにあるのは、人の営みではなく、形だけをなぞった模倣だった。


 ココアの背筋を、冷たいものが這い上がっていく。さきほど屋台で感じた恐怖が、ようやく輪郭を持ち始めた。


 ――あれは、偶然ではなかった。この国そのものが、すでにそうなっていたのだ。


「──アダム、さん」


 掠れた声で名を呼ぶ。恐怖と混乱が胸の奥で渦巻く中、それでもココアは、縋るように視線を向けた。考えたくない答えほど、はっきりと言葉にしてほしかった。


「──ああ」


 短い応答だったが、そこには覚悟が滲んでいた。ココアが答えを急いでいることを、アダムは誰よりも理解している。


 そして、迷いを切り捨てるように、彼は口を開いた。


「──目的を完遂し、一刻も早くこの国から出る」


 アダムは、悔しそうな色を瞳に滲ませながら、それでも視線を逸らさずに言葉を紡ぐ。本来なら、研究者として、あるいは人として、目を背けてはならない異常だ。だが、今ここで深入りすることは、命取りになる。


「──それが、この場における最適解だ」

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