王妃と死霊呪術師 ―スパルタの亡霊―

キュノスーラ

第1話 「アテナ神殿の黒い影」

 古代ギリシャにおいて陸軍最強をうたわれる都市国家、スパルタ。

 その中心に建つ、都市を守る女神アテナの神殿で、異変が起こった。


 夜明け前、三人の神官たちがアテナ神殿に入っていった。

 祭儀さいぎの準備をするためだ。

 付添いの者たちが、いつものように外で待っていたところ、突然、おそろしい悲鳴が神殿のなかから聞こえてきたのだ。


 付添いの者たちは、顔を見合わせ、すぐさま神殿のなかへと飛びこんでいった。

 先に入っていった神官たちは、みなスパルタの生まれ、屈強な男たちである。

 それがあのように恐怖の叫びをあげるなど、よほどの事態に違いない――


 通りすがりに様子を見ていた者がいたために、そこまでの経緯は、たしかに分かっている。

 だが、飛びこんでいった付添いの者たちも、はじめに入っていった三人の神官たちも……いつまで経っても、誰ひとり、神殿から出てこなかった。

 まるで、アテナ神殿そのものが、男たちを飲みこんでしまったかのようだった。


 見ていた者が、これはおかしいと、人を呼んだ。

 外から、大勢で呼びかけたが、まったく返答がない。

 神殿の扉は、いつのまにか閉まっており、中で何が起きているのかは分からなかった。


 確かめよう、と、だれかが言った。

 だが、この状況で、むやみに扉を開けるのもおそろしい。

 神殿の主であるなんらかの理由で激しくお怒りになっているのだとすれば、その怒りは、次に扉を開けた者に向けられるかもしれないからだ。


 だが、奇妙なのは、誰にも、アテナ女神がお怒りになるような理由に心当たりがないことだった。

 神官たちが、なにか、とんでもない不敬を働いたとでもいうのだろうか?

 だが、彼らは皆、長年にわたって神官のつとめを果たしてきた、誰もが認めるほどに神々への尊崇厚そんすうあつい男たちだ。

 その彼らが、今朝に限ってそのような不手際をしでかしたとは、とても思えぬ。


 他に、なにか変わったことといえば、数日前に、小さな地震があったことくらいだ。

 しかし、スパルタの地では、地震は、さほど珍しい出来事ではない。

 それに、怒りで大地を揺さぶるのは、アテナ女神ではなく、ポセイドン神である。


 だれひとりとして扉を開ける勇気がないままに、しばらく時が流れた。

 スパルタは、最強の戦士たちをようする都市国家として名高い。

 だが、それは戦いでのこと。

 神々を相手どって戦いを挑むのは、人間の分際をわきまえぬ愚か者のすることだ。


 なんの進展もないまま、やがて、王と長老会にしらせが行き、武装した戦士たちが、十重二十重とえはたえに神殿を取り囲んだ。

 アテナ神殿は、ぶきみに静まり返っている。

 いったい、神殿のなかで、何が起きているのか――?



     *    *     *



「なるほど」


 かざりけのない、重厚なつくりの館の広間に、その金髪の娘は立っていた。

 たしかに「娘」と呼ぶのがふさわしい若さではあったが、彼女には、他の都市国家の者たちがいうような、いわゆる「娘」らしさは、一切なかった。


 美しいことは美しい。

 だが、その美しさは、おおかみひょうの美しさと同種のものだった。

 むきだしの腕や肩は日に焼けて、筋肉質に引き締まり、茶色の目を細めて相手に向ける顔つきは、ひとかどの戦士のものである。

 その顔つきのまま、腕組みをして、彼女は続けた。


「大勢の戦士たちが、聖域である神殿のなかにいきなり踏みこんだのでは、アテナ女神への不敬にあたる。そこで、まずは、奴隷をひとり、物見ものみに送り込んだ。――そうだな?」


「ああ」


 低く、うなるような声で娘の言葉に答えたのは、彼女と向かい合った、熊のように体の大きな男だった。

 娘のほうは、立って話しているが、彼女と向かい合った男のほうは、大きな椅子に腰をおろしている。

 男の顔にも、腕にも、大きな傷痕があり、その面構えはいかにも恐ろしげで、並の盗賊などならば、彼が道をやってくるのを見ただけでも、襲って金品を奪うどころか、こそこそと物陰に身を隠すに違いない。

 しかし、娘のほうは、男の恐ろしげな面相めんそうなど、まったく気にしていないようだった。


「なるほど」


 と、彼女はまた言って、腕組みをしたまま、大きく鼻息を吹いた。


「その奴隷が神殿に入って、しばらくは、何事もなかった。

 ところが、急に神殿のなかからおそろしい叫び声が聞こえてきたかと思うと、体じゅう血まみれの姿で、その奴隷が飛び出してきた。

 戦士たちが取り囲み、問いただしたが、奴隷はうわごとのように『黒い影が、黒い影が』と繰り返すばかりで、それ以上のことは何もしゃべらなかった。

 奴隷の体に、傷はひとつもなく、その血がいったい誰のものなのかは、まったく分からなかった……」


「そうだ」


「なるほど。結局、なかの状況は、なにも分かっていない。そこで……次は、行けと」


「そうだ」


「なるほど。……いや、ちょっと待て」


 急に軽い口調になり、娘は、あきれたようにぱたぱたと片手を振った。


「おかしいだろう? だいいち、理屈がわからん。なぜ、ここで行くべきだと思うのだ?」


「奴隷は、生きて戻った」


「たしかに、一応、生きては戻ったようだが……」


 神殿の中で、いったい見たというのか?

 戻った奴隷は、たちまち高熱を出して泡を吹き、今もうわごとを言い続け、ほとんど正気を失ったようなありさまだという。


「あれは、生きて戻ったうちに入るのか? ……いや、それは、まあよい。私がききたいのは、なぜ、私が行く必要があるのか、ということだ」


「この災いが始まってから、アテナ神殿に足を踏み入れたスパルタの男たちは、ことごとく戻らぬ」


 娘と向かいあった男は、重々しく言った。


「だが、奴隷は、生きて戻った。それはおそらく、からだ」


 スパルタの男と見なされるのは、スパルタの市民資格をもつ戦士たちだけだ。


「スパルタの男たちは戻らず、は戻った。ならば、おそらく、も、生きて戻るであろう」


「おお、なるほ……いや、待て!? それは、さすがに、屁理屈が過ぎるのではないか? まるで言葉遊びだ。私までが正気を失ったらどうするのだ?」


「けっして正気を失ってはならぬ。スパルタの女の根性を見せよ」


「根性で解決する問題ではないと思うが……」


 しぶい顔でうなる娘に、男は、おもむろに立ち上がった。

 彼がこれまで腰をおろしていた、大きな椅子――スパルタの王座から。


「スパルタの王は、戦場で、全軍のもっとも危険な位置に立つ」


 言いながら、王は一歩、進み出て、金髪の娘の肩に手を置いた。


「王妃も、また、同様に」


 その言葉を聞いた瞬間、それまでのしぶい態度が嘘のように、娘の顔つきが変わった。

 静かで、落ち着きはらった、威厳に満ちた顔つきに。


「なるほど。責務つとめか」


 その表情のまま、にやりと笑う。


「ならば、やらねばなるまい。

 承知したぞ、我が王、我が夫よ!

 この王妃タレイアが行こう。

 見定めてやろうではないか、アテナ神殿の黒い影の正体を!」

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