Chapter8 「フィクサー」
Chapter8 「フィクサー」
首相官邸内の閣議室で定例の閣僚会議が開催されていた。閣僚会議は総理大臣と各省庁の大臣と長官が集まって開催される重要な会議である。毎週火曜日と金曜日に午前10時から開催され、内閣が処理する重要案件の協議・検討・調整が行われる。
「議長、今回の議題はこれで終わりかな?」
東郷首相が言った。
「はい、すべて終了しました。この後は非公式な情報交換の場となります。もちろん記録は残しません」
進行役の福山官房長官が言った。
「うむ。私からは特にないが、何かあれば遠慮なく言ってくれ」
東郷首相が言って大臣達の座る円卓を見回した。
「あの、重要案件ではありませんが、報告があります。よろしいでしょうか?」
国家公安委員長の井之頭が発言した。国家公安委員は内閣の外局で、警察のトップで
ある警察庁を管理する行政機関である。
「何だね井之頭君、遠慮しないで言いたまえ」
東郷首相が言った。
「来週、榊先生が健康診断のために東京入りします。半年に一回の定期健診です」
会議室の空気が一瞬で凍り付いた。東郷には永田町の空気さえも変わったように思え
た。
「おおっ、榊翁(さかきおう)が東京入りか。いつもの健康診断なら虎ノ門総合病
院だな。何日間滞在するんだ?」
「いつも通りの健康診断なので3日間です。他に予定はないようです」
「小田原公はまっすぐ帰るのか。いやーよかった、アメリカとの通商会議の結果と商務長
官暗殺未遂の件はお咎め無しとういうことか。呟きも無しだな」
真野経済産業大臣がほっとしたように言った。
「まったく、小田原様の入京は心臓に悪いですな。あの方はいつまで現役でいるつもりなのだ? たしか98歳だ。そろそろ鬼籍に入ってもおかしくない歳ですよね」
総務省の三宅大臣が言った。
「三宅君、そんな事を言うと榊翁が呟いて、明日にも君の座る大臣の椅子は無くなるぞ」
東郷総理が言った。
「いやいや、これはいかん」
三宅大臣が頭を掻いた。
「いつも通り護衛の親衛隊もお供するのだろうが、西郷君、警備は厳重にしてくれ」
東郷首相が言った。
「はっ、万全な警備をいたします」
警察庁長官の西郷が緊張した声で言った。
「まあ、何も無いことを祈りましょう」
井之頭国家公安委員長が言った。
「国家にとって重要な何かが動く時、榊翁が動く。いや、榊翁が動くから何かが動くのだ。
私はそれが恐ろしいのだ」
東郷首相が神妙な面持ちで言った。
榊良介98歳。戦後最大にして最後のフィクサーと呼ばれる男。普段は小田原の邸宅に住み、自ら動くことはない。財界の大物も政治家も榊に会うために小田原詣をする。総理大臣ですら例外ではない。総理大臣が表立って動けない時は代わりに副総理や官房長官が小田原に走る。そして榊が入れと言うまでは何時間でも玄関で待たされるのだ。榊が黙って東京入りをすれば総理大臣は夜も眠れない。榊が『くしゃみ』をすれば経済界が熱を出し、政界が寝込むと言われるほど恐れられた存在なのだ。ラッキード事件、レクルート事件、佐山運送事件等の戦後の大きな疑獄事件の裏の全てを知り、表に出せば致命的となる大物政治家や官僚のスキャンダルを幾つも握っている榊に逆らえる者はいない。
閣僚が絡む政界スキャンダルをニュース番組で目にした榊が『見苦しい』と言った5日後に内閣は解散した。
日米外交交渉が決裂した際、榊が『大きな舞台に大根役者はいらん』と呟いた数日後に外務大臣が更迭され、外務省事務次官は失踪した。
大人気ニュースキャスターが番組の『戦後の闇特集』で榊について一言ふれた。榊が『小僧の知恵熱は早めに冷まさんといかん』と呟いた翌週、大人気キャスターのスキャンダルが発覚して番組を降板する事になった。
榊が指示を出すことはない。ただ呟く。その呟きを周りが忖度して動くのだ。
【警視庁本部庁舎公安部部長室】
「神崎君、今日は君に頼みたい事がある」
阿南が言った。
「頼みたい事とはなんでしょうか? 私はもう沢村米子の件からは外れたはずですが?」
神崎が務めて冷静に言った。
「その件とは関係のない話だ。ところで公安1課長の椅子の座り心地はどうだ? もう随分長い事座っているな」
「おかげさまでもう4年になります」
「そうか。もっと座っていたいだろ? 私の下である間は保証してやってもいい」
「ありがとうございます。それで、頼みたい事とは何でしょうか?」
「榊良介が健康診断で東京に来るようだが、君の課も動くはずだ」
「はい。警備部と連携して榊先生の警護を行います」
「警護は適当にやれ。何が先生だ、呼び捨てでいい」
阿南が言った。
「適当とはどういう意味でしょうか?」
「手を抜けと言っているんだ」
「手を抜く?」
「今週の土曜日の夕方に榊が小田原に帰る。虎の門総合病院を出る時の警護をゼロにするんだ」
「警護ゼロとは、まさか本当に榊先生を暗殺するのですか!? いよいよ赤い狐が本格的に動き出すのですか?」
神崎が恐る恐る訊いた。
「君も勘の鈍い男だな。榊は闇桜が襲う。あんな戦前生まれの妖怪を生かしておいては国のためにならん。赤い狐はこの前の経団協ビルと合同庁舎の爆破で存在をアピールしたばかりだ。次の大きな一手を準備中でもある。我々は地道に地ならしをするのだ。この国の旧弊な仕組みを掃除する」
「しかし榊先生、いや、榊は強力な人脈と情報網と実働部隊を持っています。事前にバレれば大変な事になります。警視総監どころか警察庁長官や法務大臣の首が飛びます。首だけじゃない、命も・・・・・・」
「だから我々が動くのだ。暗殺を確実なものにするのだ。君も課長の椅子に座っていたいだろ? 私はいつまでもこんな組織の部長でいるつもりは無い。なんなら君の為に席を空けてもいい」
阿南が神崎を見ながら言った。神崎は身の毛がよだつ思いがした。阿南はこの国を、日本を壊そうとしていると思った。
「心使い、ありがとうございます。襲撃の計画を教えてもらえますでしょうか? 事が成功するようにこちらも最善の動きをしたいと思います」
「よかろう。当日は頼んだぞ。君は頼りなる男だ」
阿南が満足そうに言った。神崎の心は不思議と躍った。この情報が凄く価値のあるものに思えた。何故か米子の顔が頭に浮かんだ。
米子は笹塚の自宅から神楽坂のセーフハウスに移り住み、そこから桜山学園に通っていた。米子が教室に入ってくると里香が駆け寄って来た。
「沢村さん、土曜日は凄かったね! まさか優勝するなんて思ってなかったよ。それも無差別級だよ!」
浜崎里香が言った。浜崎里香の顔はまだ腫れていた。野沢瑠香、大屋美里、岸本きらり達も一緒だった。
「沢村さん凄いよ! 里香に話聞いて、私達もネットで配信観たんだよ。沢村さんって本当に強いんだね」
大屋美里が興奮気味に言った。
「凄いってレベルじゃないよ! 感動したよ。決勝戦なんか家族で観ながら最後は叫んじゃったよ! 制服っていうのがイケてたよ!」
野沢瑠香も興奮している。
「私、格闘技って初めてまともに観たけど、カッコよかったよ! 今度リングコスチュームデザインしてあげるよ! デビューするの? 格闘家アイドル目指しなよ」
岸本きらりが言った。
「運が良かっただけのビギナーズラックだよ。それにああいうのは今回だけだよ。怖いからもういいって感じ。結構痛かったし」
「沢村さん後光が差してるよ。美人で、頭が良くて、強いって神じゃん!」
大屋美里が言った。
「ネットのコメント盛り上がってたよね」
野沢瑠香が言った。
「そりゃそうだよ、こんなにカワイイくて強いんだよ。しかも制服JK、男ならイチコロだよ!」
岸本きらりが言った。
「私はその試合のセコンドだったから真横で観てたもんね。会場も盛り上がってたよ」
浜崎里香が得意そうに言った。他のクラスメイトも遠巻き米子達を見ていた。
「俺も観たぞー!」
「俺も観た、びっくりしたよ、沢村マジ強え~」
「沢村、格闘技教えてくれよ! 俺、強くなりてえよ! メシ奢るからさあ」
男子生徒達も盛り上がっていた。
月曜日の20:00、神崎を中心とした『闇夜のカラス』のメンバーが港区浜松町の貸し会議室に集まっていた。
「これから話す事は絶対に漏らすな。悪いがメモも控えてもらう」
神崎が厳しい声で言った。
「阿南や赤い狐に何か動きがありましたか?」
原田が訊いた。
「阿南はとんでもないことを考えている。榊良介の暗殺だ」
「えっ?」
「本当ですか?」
「まさか・・・・・・」
「今そんな事をしたら政界は大混乱に陥る。財界もだ。それこそ赤い狐の思うツボだ」
原田達は信じられないといった顔をして言った。
「木曜日から榊翁が健康診断のために虎ノ門総合病院に入院する。土曜日の夕方、榊翁が退院するところを阿南の実働部隊の『闇桜』が襲うようだ」
「東京のど真ん中で襲うのか? 人数はどれくらいなんだ?」
藤谷が訊いた。
「地下駐車場で襲う。榊翁を乗せた車と榊翁の親衛隊の車が夕方の4時頃に病院を出る予定だ。襲う人数は不明だ。何台かのバンに分乗して事前に駐車場で待ち伏せをするようだ。武装は拳銃とサブマシンガンだ。当日は警備部と公安1課が警護を行う事になっている。だがその時間は警護の人間を現場から外すことになっている」
神崎が襲撃計画の概要を説明した。
「まさか本当に警護を外すのですか? 責任問題になりますよ! 榊先生の暗殺を防げなかったとなれば警察庁長官の首が飛ぶだけじゃすまないでしょう」
川島が言った。
「阿南はその辺は周到だ。当日のその時間にすぐ近くで闇桜の別働隊が陽動の爆弾テロを起こすようだ。私は当日、1課の現場のメンバーに陽動の爆弾テロに対処するよう指示を出す事になっている。警備部も同じだろう。テロへの対応であれば警護が薄くなっても仕方ないということになる」
神崎が説明した。
「阿南の考えそうな事ですね。しかしこっちにも強味があります。神崎さんが現場の警護に関わっているという事です。警護を外した振りをしてカウンター攻撃を掛ける事も不可能ではありません」
藤谷が言った。
「さすがにそれは難しいのではないでしょうか。そんな事をすればすぐにバレます。我々の目論見も露見するでしょう」
杉浦が言った。
「私は公安2課への移動が正式に決まりました。『夜桜』の生き残りとしてそのノウハウを闇桜にレクチャーするように言われています。明後日から闇桜に配属されますので奴らの動きをリアルタイムで掴めるかもしれません。襲撃チームに参加できれば少しは邪魔をできるかもしれないな」
藤谷が言った。
「だから沢村米子に動いてもらおうと思っている」
神崎が言った。
「米子ちゃんを使うんですか? それって我々が米子ちゃんを利用することになります。米子ちゃんを支援するはずじゃなかったのですか?」
川島が抗議するように言った。
「阿南が榊翁の暗殺に失敗すればヤツが裏で糸を引いていた事をリークできる。上手く行けば榊翁の力が阿南を追い込むだろう。赤い狐が力を持つ前に阿南を潰せるかもしれん。そうなれば闇桜も壊滅し、沢村米子の危機も解消するだろう」
神崎が言った。
「いくら我々が支援するといっても米子ちゃん1人では無理だ。闇桜の襲撃は複数人のはずです。それもSATやSPの出身者だ。危険すぎる」
原田が言った。
「沢村米子は1人ではない。仲間がいる。だからできるだけ正確な情報を流すんだ」
「仲間とは内情ですか? 米子ちゃんは現在、内情とも距離を取っているんですよね?」
川島が訊いた。
「沢村米子の仲間が公安のデータベースにハッキングをして阿南の情報を盗んだようだ。ニコニコ企画だったかな? 沢村米子が所属しているダミーの会社だ。沢村米子が動けば仲間も動くはずだ。情報を盗んだ仲間は闇桜によって排除された。だから報復もかねて沢村米子に協力するだろう」
「なるほど。その線はあるかもしれませんね。しかし賭けです。失敗したら我々も米子ちゃんも終わりです」
原田が言った。
「そうだ。我々がやろうしている事は大きな賭けなのだ。そしてその賭けの行方を決める鍵を握っているのが沢村米子だ」
「やるしかないのか。巨悪に立ち向かうとか柄じゃないんだけどなぁ。米子ちゃんに賭けるか」
川島が言った。
「私はやります。仲間への弔いもあるが、公安刑事として阿南達の企みを見過ごすわけにはいきません。襲撃の人数は何とかして掴みます。幸いにも私は闇桜の一員だ。私も沢村米子に賭けます。あの娘は強い」
藤谷が大きな声で言った。
「我々が直接ドンパチやるわけじゃないんだ。出来る事はやりましょう。情報共有サイトとSNSグループを作りましたので、後でマニュアルをお渡します」
杉浦が言った。
「よし、やりましょう。私は虎ノ門総合病院の地下駐車場の下見をして見取り図を作成します。探偵なんて時間はどうにでもなりますから」
原田が落ち着いた声で言った。
翌日の夜、神崎は米子にLINEメッセージを送った。襲撃の人数を藤谷が掴んで明らかになったからだ。
『沢村君、元気でやっているか? 突然で申し訳ないが、君に頼みたい事がある。君にとっても悪い話じゃない。今週の土曜日、虎ノ門総合病院の地下駐車場で国家にとって重要な人物の暗殺計画が実行される。重要人物はフィクサーの榊良介、98歳だ。なんとかそれを阻止して欲しい。襲撃するのは阿南配下の『闇桜』という組織だ。30人ほどの部隊だが元SAT隊員やSPを集めた部隊だから強い。重要人物の榊は16時にベントレーで病院を出る予定だが『闇桜』はそこで襲うようだ。闇桜はバン3台に分乗した12人、武装は拳銃とサブマシンガンと思われる。榊にも4~5人の私設の親衛隊がいるようだが所詮は素人だ。闇桜には勝てないだろう。この暗殺を阻止すれば阿南は追い込まれる。赤い狐の日本侵略計画も遅らせる事ができる。阿南が力を失えば闇桜は解体し、君の懸賞金の件も取り消しになるだろう。君の安全のため、そして日本の未来のために是非とも阻止して欲しい。それと私、原田、川島、藤谷、杉浦は『闇夜のカラス』というグループを結成して陰ながら君を支援する事にした。君と食事をする日を楽しみにしている』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます