人形-4

 暗視カメラを確かめるべく阿形に背を向けた時、その音は聞こえた。振り返るとベッドの足元にあった書棚の下に阿形が蹲っている。頭を守るように丸まったその背に、天井まである書棚から本がバラバラと降っていた。

「いたた……」

「何、どうしたんですか⁉︎」

 思わず駆け寄ると阿形はよろけながらも立ち上がった。背中を強く打ったようで真っ直ぐ立つと痛みがあるようだ。

「あはは、向こうさんまだ怒ってるかも」

「は?誰が?」

「幽霊」

 阿形が誤魔化すように笑ったその時、彼の身体が前方に突き飛ばされるように飛んだ。

「え?」

 窓の下、ランプや写真立ての置かれた戸棚に無防備にぶつかり、腹部を押さえて阿形はまた蹲る。

「離れて」

 手を貸そうと近寄る近崎を阿形は鋭く制止した。立ち止まると向かいの本棚からまだ残っていた本がいくつかこちらに飛んできた。頭を抑えながら避けると、今度は戸棚の上からランプや写真立てが阿形に向かって落ちていく。ガラスが散らばった床に転んだランプの尖端が揺れているのが見えた。あれが目に刺さっていたらと思うとゾッとする。

 逃げなくては。今目の前で起きていることの一切について、脳は理解を放棄していた。ただこの場を離れろという衝動めいた恐怖が占拠している。自分よりいくらか小柄な阿形が割れたガラスで手を切りながら立ち上がろうとしている。俺は何をしている?制止されたから何だ?彼のことを守るべきではないのか?選択を誤った。その事実がまた近崎を身を焼くような焦りとして襲いかかっていた。室温が一気に下がった気がする。肌がざわざわと粟立つのが分かった。

「あ、やば」

 抱き起こした阿形がそう呟いた瞬間、その薄い身体は近崎の腕から強い力でもぎ取られていった。その身体は近崎の目の前で奇妙にねじれた体勢のまま間違いなく空中に浮遊していた。何が起きているのか理解できない。思考が完全に停止した近崎に見せつけるように天井近くの高さから阿形の身体は床に叩きつけられた。自由落下ではあり得ない速度で、明らかに受け身を取れない体勢のまま。鈍い音が鳴る。追って阿形の殺しきれなかった悲鳴が聞こえた。

「阿形さん!」

 近崎と目が合うと彼は尚もへらりと笑った。

「クソ痛え」

「意識はありそうですね、触りますよ」

 首や腰の位置を変えないまま四肢の骨を確認する。落ちた衝撃で左肩が脱臼している。戸棚にぶつかった時に捻ったのだろうか、右足首に腫れが見受けられる。頭を打っていなければ、他は問題なさそうだ。とはいえこのまま担ぎ上げるのは危険だろう。どう逃げる?ここは戸建て、二階だ。階段をどうやって通過するのか考えなくてはならない。どう逃げる?今何に襲われている?

「ね、救急車、後ででいいから」

「大丈夫です、この怪我ならすぐ治りますから、とにかく逃げましょう」

「いや、救急車、後で絶対呼んでね」

 よろよろと痛みに耐えながら立ち上がる阿形がうわごとのように言うので近崎はわかりましたと繰り返す。背後からガタガタと音が鳴る。書棚がこちらへ倒れてくるのだと直感した。

「ね、そういうのいいからさ、そこに瓶あるでしょう。寄越して」

 倒れてくる前に移動しようと肩に腕を回すと阿形に振り払われた。そこ、と指された先には確かに半分ほど中身の残った日本酒の一升瓶がある。

「開けて、寄越して」

 阿形は真っ直ぐベランダに通じる出窓へ向かいながら言う。何が何だか分からないまま瓶を渡すと阿形はその中身を頭から被った。強い酒精が鼻をつく。音を立てていた書棚の揺れが不意におさまった。

「何するんですか」

 尋常ではない空気に気圧されながら問えば阿形はまた言葉を選ぶように黙る。窓が開いた。熱帯夜の空気が冷え切った肌を撫でるように室内に広がった。

「多分あいつは僕がくたばるまでやる気だからさ」

「何するんですか、」

「聞いてよ最後まで!」

 ベランダの手すりに脚をかけるので縋り付くと胸元を強く蹴り付けられた。なおもその足を掴むと阿形は半ば叫びながら言った。

「僕がくたばる前にあのドールから離れるの!頼むから後で救急車を呼んで、いいね!」

 阿形は飛び降りた。近崎に止めることはできなかった。

 

 

 廊下の絞られた照明をリノリウムの床が鈍く反射している。朝の気配が近づいた病室は息の詰まるような静寂が横たわっていた。幸い、阿形に大きな外傷はなく、擦り傷、切り傷の他は手首足首に捻挫を増やしただけだった。その程度の怪我で済んでいるにも関わらず、彼は未だに目を覚まさない。細い赤毛は乱れて枕に散らばっている。落下時に大きく擦りむいた頬にはガーゼが貼られていた。近崎はその髪を整えてやるのが良いのか、まだ触れない方が良いのか判断することができない。

 近崎は自分がこれまで殆ど判断していないことに気が付いた。この事件の捜査の方向性すら彼に任せ、諾々と彼の要望を叶えている自分に酔ってすらいた。だからこの先の動き方に不安を感じて止まない。今目の前に自分の理解の浅さ故に傷付いた協力者がいるのに、それを悔やむべきではないのか? 彼は協力者であるのに、当事者にした自分をもっと顧みるべきではないのか? 分裂した思考で自分自身を責め立てる行為はある意味で気分が良く、これを行うことで許された気分になってくる自分に近崎は恐怖した。では次に何をすべきかという問いに一つも答えることが出来ない。相手が人間であればもう少し次の一手が見えそうなものだが、ある意味の袋小路に入りかけていた。

「近崎」

 阿形の顔を視界にとらえたまま茫洋と自分の責任の所在を考えていた近崎の意識はいつの間にか病室に佇んでいた女によって浮上させられた。

「大丈夫?」

 彼女——宇野 杏果は気遣わしげにこちらを見ている。宇野は四課の課長で、どうやらこの件を聞いて駆けつけたようだった。彼女はこれまで近崎の『そういうもの』へのスタンスや対応への不満などを感知しているようだったがこれまで何かコミュニケーションをとった記憶はなかった。言葉に詰まる。また言葉に詰まる。とても大丈夫とは言えないが、この次に困っていると素直に言ってしまったら、自分は次はどこへ流されてしまうのだろうか。

「怖かったろう。外で少し話さない?」

 宇野は安心させるように口角を上げてそう言った。小さな子どもに見せるような笑顔だった。窓を見やると、迷子の子どもの顔をした自分が映っていた。

 

 

 会話は情報共有から始まった。暗視カメラは当該事象の最中も録画を続けており、阿形が姿の見えない何かに暴行を振るわれる様も、二の足を踏む近崎の様子も収められていた。

「騒霊だね」

 宇野は当たり前に、過去の事例を知るかのように言った。

「ああ、ポルターガイストって言ったら分かる?」

「なるほど」

 無意識に首を傾げていたのだろうか。阿形のみならず宇野にも補助線を引くようなコミュニケーションをさせてしまうのが申し訳なかった。

「阿形くんのカルテを見せてもらったけど、彼の腹部には人間にしては大きすぎる手形があった。いよいよ四課らしい話になってきたね」

 後で見せてもらうといい、と宇野はまた何の動揺もなく言った。

「あの」

「何だい?」

「こういうことってよくあるんですか?」

 我ながら馬鹿みたいな質問だと近崎は思った。

「まあ阿形くんみたいに極端に酷い目に遭うことは少ないけど、こういう事案こそうちで取り扱うものなんだよね。近崎はそういうの嫌いそうだったから、もう少し常識的な案件を回してたんだけど……向こうから来ちゃったね」

 宇野は困ったように笑った。

「なあそんな顔するなって、大丈夫だから。まずは次何するかを考えよう。そのために私は来たんだ」

「……俺は今どんな顔をしていますか」

「いつ怒られるかと思ってビクビクしてる子どもみたいな顔」

「……」

 まさに先ほどまでの胸中を見透かされたようで近崎はまた黙ってしまった。こういう時に謝罪なり、礼の一つなり言えればいいのに。

「まずは情報の整理をしようか。ここまでの話だと、事象としては羽原の部屋にあった球体関節人形を手に入れると金縛り、男の声といった霊障が起こる」

 宇野が手元の資料に目を通しながら言う。その内容を誦じるように近崎が続けた。

「はい。現状分かっている三人の所有者が三人とも、その霊障に洗脳されるように元々手にしていたコレクションを手放しています」

「なるほどね。それから?」

「阿形さんが球体関節人形から感じ取ったのは男性の執着心のようなものと話していました。人形にモデルがいて、そのモデルに執着しているような……」

「ふぅん。余談だけど、阿形くんはそういうの馬鹿にしてそうだよね」

 突然個人の考え方に踏み込まれたのでまた高崎は動揺する。

「ええ、まあ……はい」

 宇野は深い意味は無く言ったようだが、曖昧な回答になってしまった。

「襲われた時に会話してたよね。カメラには上手く入ってなかったけど。彼は何て言ってた?」

「幽霊について、まだ怒っているようだ、自分が再起不能になるまでやるだろうからドールから離れる、そのように言っていました」

「それだけ言われてベランダから飛ばれたら怖いな」

「怖かったです」

 その言葉がするりと出てきたことに近崎は後から気が付いた。上長たる宇野があまりに気軽に怖い怖いと言うので口にして構わないと思えたのかもしれない。

「怖いって言えるの、結構大事だからね」

 宇野はまた見透かしたように言う。

「こちらの常識を超えて来るんだから、怖くて当たり前。怖いと認めるまで付き纏われたりすることもあるから恐怖には素直であった方がいい」

「はい、ありがとうございます」

 よろしい、と宇野は微笑んだ。じゃあ、と宇野は話を戻す。

「阿形くんの口ぶりだと挑発か、そこまでではないが刺激するような真似をしたんだね」

「恐らく……」

「まあ、一旦病院まで来てからは特に何も起きていないから、原因の霊が怒りを鎮めるための動きは考えなくても良いかもね。所有が条件ならこちら側で預かってハイ終わりというわけにもいかないしなあ……」

 考え込む宇野に、近崎はおずおずと口を開いた。

「羽原氏が出したオークションの出品ページには『相応しい方へお譲りします』とありました。他のコレクションを手放させる理由が例の人形のみを愛することであるなら、筋が通ります。夜話しかけて来る男は、人形の所有者として正しい人物でなければ認めないという意思があるのではないでしょうか」

「なるほど、確かに。どういう立ち位置の人間が所有者の格みたいなものを気にするんだろうね」

 宇野の問いに近崎は暫しの沈黙のあと口を開く。

「この人形のこれまでの所有者の誰か、でしょうか。最初の所有者が濃厚ですが、そこは調べてみないと何とも言い難い」

「そうだね、じゃあ次の動きが決まったんじゃない?」

 宇野はまた子どもを安心させるように笑った。

「厳しいことを言うようだけど、協力者が居なくても君は一人で動けなくちゃいけない。だって協力者はあくまで協力するだけだから。私は君が認識さえ変えれば充分一人で動ける人間だと思っているよ。私は君のこれまでの仕事を知っているからね」

 宇野の声色は優しかった。近崎は自分が前回の件から阿形がいることを前提に動いてきたことに気がついた。

「はい、ありがとうございます。ご期待に添えるよう努めます」

 一人で動かなくてはならない。阿形が居なくても。そう考えた時に胸中に広がる苦さが何に由来するのか、近崎にはわからなかった。

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