マルキジャン・サングィン・バンケット 1
ムラサキは外の世界に出たくはなかった。ただ静かな部屋に寝転がって、オズワルドの腕に抱かれていれば、それだけで満足だった。ブラトン市でも指折りの権力者のお気に入り。そういう立場を守ってさえいれば、自らに降りかかる火の粉は絶え、安全な生活は保証される。人生などというものは、それで充分ではないか。
だが、そうも言っていられない日が遂に来てしまった。
今のムラサキの状況は、例えるならある日突然、サバンナのど真ん中に放り出されてしまった飼い猫のようなものだった。野生の勘はとうの昔に失われ、脚力は衰え、自力で生きるための手段も、餌を捕る手段さえ知らない。そんな状態で、ライオンやハイエナのうろつく草原に取り残された、狩られるのを待つばかりの手頃な獲物。そんなところだ。
鋭い爪も牙も―社会的な誰かとの繋がりも、権力も財産も―持たないムラサキが、弱肉強食の世を渡り歩く恐ろしい獣たちに囲まれて、無事に生きのびられる可能性はほとんどゼロと言って良い。このまま呆然としていれば、どこからか恐ろしい獣がやってきて、あっという間に食い殺されてしまうだろう。実際に、つい先程にもそうなりかけた。
唯一の救いがあるとすれば、ムラサキ自身が今の自分の置かれた状況を理解しているということだけだ。無論、だからといって、この危機的な状況を打破するための手段が降って湧いて来るわけではないが。
庇護者が必要だ。誰か、鋭い爪と牙と強靭な肉体を持ち、ムラサキを守る事が自身の利益に繋がるような獣を見つけ出さなければならない。そして幸か不幸か、ちょうどそのような条件を満たした存在が、今まさに、ムラサキの傍らに座っている。
クララベルは後部座席のシートにもたれ掛かり、ぼんやりと窓の外を眺めていた。上から下まで真っ白な衣装に身を包んだ彼女は、ムラサキを守護するために現れた天使のようにも、恐ろしい運命へといざなうために現れた亡霊のようにも見えた。その視線の先は虚ろで、何に注目しているとも取れない。少なくともムラサキには、外の景色の何かに興味を持っているようには見えなかった。
「あの、危ないところを助けて頂いて、本当にありがとうございます」
ムラサキはおずおずと、失礼の無いようにと、クララベルの顔色を伺いながらお礼を言った。クララベルはゆっくりとムラサキに視線を移し、にこりと優しい笑みを見せる。
「貴方が無事で居てくれて、何よりですわ」
クララベルは彫像のような、不自然なまでに整った笑顔でそう答えた。
「でも、どうして僕を助けてくださったのですか?」
ムラサキが質問すると、クララベルは視線をムラサキから外し、また虚ろな目で窓の色を眺める。
「オズワルドは、私の数少ない友人でした」
「友人?」
「ええ。旧知の仲、と言っても良いのでしょう。互いに対立し合った事もありますが、それでもオズワルドと私の関係は、良き友人と言って差し支えのないものです」
ムラサキにとって、それは意外な返答だった。というのも、ムラサキはオズワルドに付き従い、様々な場所に顔を出していたが、そこにクララベルの姿があった事など一度も無かったからだ。良き友人と言う程であれば、一度やニ度はその顔を見る機会があってもおかしくはない筈だが、ムラサキは今日までこの方、クララベルと会うことは愚か、彼女に纏わる話さえ聞いたことが無かった。
「知らなくとも無理の無いことです。私とオズワルドの関係は、決して公になることは無い、内密なものでしたから」
クララベルはムラサキの心の内を見透かしたように、静かな声でそう言う。
「ですが、彼と私の絆は本物でした。彼がそう考えてくださっていたかはわかりかねますが、少なくとも、私自身はそのように考えています。だからこそ、無理を通してでも、貴方を救い出すべきだと思いました」
再びクララベルがムラサキへと顔を向ける。開かれた目蓋からは、真っ赤な血のような瞳がこちらを覗いていた。ムラサキは思わず身震いする。その目の色が恐ろしかったわけでは無い。しかし、彼女の目の奥から差し込む光が、ムラサキにはなんとなしに、とても恐ろしい物のように思えてならなかった。
マルキジャン・サングィン・バンケット
ぐらりと大きな揺れを感じて、ムラサキは目を覚ました。懐かしい夢を見た。疲れているのだろうか。最近は過去の出来事が夢となって現れることが多くなった。
あれから何年の月日が経ったのだろう。随分昔のことのようにも感じるし、つい先日の出来事だったようにも感じる。いっそのこと、あの日を含めた今日までが、全て悪い夢であればよかったのに。
ムラサキは目を擦り、車の窓の外の景色を眺めた。細かい雨が霧のように空気に纏わり付いて、深い森の木々の葉の裏側までじっとりと濡らしている。水滴を乗せた深緑色の草木を眺めていると、ムラサキは不思議と気分が落ち着くような気がした。
頭上を覆う長い枝や葉のせいか、それとも、空を覆い尽くすような分厚い雲のせいだろうか。まだ午前中であるにも関わらず、森の中は夕方のように薄暗い。舗装されていない砂利道の凹凸に従って、車が上下に跳ねる。黒い泥が飛沫のように飛び散って、よく磨かれた窓の端にこびり付いた。
ムラサキは上着のポケットから懐中時計を取り出す。時刻は午前の九時五十分を少し回ったところだ。欠伸をして軽く身体を動かすと、隣に座っているターナがちらりとムラサキの顔を見た。
「もう間も無く、バンケット社に到着します。長時間のご乗車でお疲れの事とは思いますが、もう少々、ご辛抱頂ければと思います」
ターナは静かな口調でそう言って、細い中指でメガネを持ち上げる。
「なんてことは無いよ」
ムラサキは軽く首を動かし、左右の肩を回して、腰の周りの筋を順番に伸ばした。背骨のどこかがぱきぱきと軽い音を立てる。座席にはゆったりと余裕があり、シートや背もたれもふかふかとしていて居心地が良いが、流石に身体を動かせる範囲には限界があった。肘掛けに腕を置いて頬杖をつき、ふうと鼻から息を吐く。
「今日のスケジュールはどうなっていたかな?」
ムラサキが尋ねると、ターナはその質問を予知していたように、既にメモ帳を開いていた。
「午前十時三十分より、マルキジャン・サングィン・バンケット社の視察です。もう間も無くの到着となりますので、時間には少し余裕ができるかもしれません。終了は正午を予定しています」
「午後からは?」
「すぐにブラトン市に戻り、十三時より養護施設サンクティアの竣工セレモニーへ。ムラサキ様には来賓代表の挨拶がありますので、移動中に原稿に目を通して頂ければと思います」
「原稿は既にキミが?」
「勿論です」
「助かるよ」
「その後、十五時からは女性誌フィオーレの取材と、写真撮影。終了は十八時の予定です」
「また撮影か」
「最近はこういった仕事が増えましたね」
「僕の意思では無いんだが」
「…クララベル様との御食事は、その後十九時からのお約束です」
「ああ、そうだったね」
ムラサキは呟いて、ターナには聞こえないように小さく溜め息をついた。彼女とは今さっき顔を合わせたばかりのような気がした。
ムラサキはクララベルのことが嫌いではない。だが、直接会うことを考えると気が滅入った。彼女に会えば大抵決まって、何か滅茶苦茶な頼みごとを請け負うか、断りようの無い仕事を押し付けられるのが日常茶飯事だからだ。それが無ければ少なくとも、今日という忙しい日の午後の時間の合間を縫って、雑誌の撮影まで詰め込む必要はなかっただろう。
今日は一体どんな無理難題を強いられるのかと思うと、ムラサキの胃はキリキリと軋むような痛みを訴えた。
「二十一時からはブラトン国立美術館にて、投資家であるマルマ・モレティオ氏の主催するチャリティ・オークションへ。時間については、クララベル様にもご了承を頂いておりますので、頃合いを見て切り上げて頂ければと思います」
「オークションの終了時刻は?」
「二十三時三十分を予定しています」
ムラサキは眉間を指で押さえた。これから十二時間経っても自宅に戻れないと思うと、ただでさえ重い肩の荷が更にどっと重くなった。今すぐにでも家に帰って寝室に逃げ込み、何もせずに二日ほど眠りこけたい気分だった。やはり僕には向いていないのか、とムラサキは窓に映る自分と目を合わせる。
前任のオズワルドを見る限りでは、社長というのは随分と勝手気儘で、ゆったりとした仕事なのだと思っていた。だがその実態はと言えば、傍目から見る印象とは大きく違うものらしい。
やれ会談だ、やれ会食だ、やれパーティだと、一日にこなすべき仕事は引っ切り無しで、なかなか一人でゆっくりと過ごせる時間が無い。オズワルドは華やかな社交の場を楽しんでいたためか、あまり負担になっているようには見えなかったが、ムラサキにとってはどれもこれも、神経を擦り減らす部類の仕事に違いはなかった。
以前、雑誌のインタビューを受けた際、記者のひとりに訊ねられた事がある。「華やかな容姿、華やかな日々、社会的地位に、潤沢な資産。この世の全てを手に入れたように見えるムラサキ様が、もし、これ以上の贅沢を望むとするならば、果たして何を望みますか?」と。
三日三晩、風呂に入らず、外にも出かけず、遮光カーテンを閉めたままベッドに寝転がって、本棚の中で眠ったままの本を読み耽っていたい。たしか、そのような事を答えた気がする。それは間違いなく、ムラサキが望む理想の毎日だった。
予想外の反応だったのか記者は大いに笑ったが、最終的にそのやり取りが雑誌に掲載される事はなかった。
「これは私の一存なのですが」
ターナが伺いを立てるように口を開く。
「誠に勝手ながら、明日の午前中の予定はすべて重要性の低いものと判断し、私の方でそれぞれキャンセルのち、改めて日程を調整しておきました」
ムラサキははっと目を開き、ターナを見る。
「もしご迷惑でしたら、今すぐにでも元に戻すよう手配致しますが」
無表情を崩さないターナだったが、心做しかその時ばかりは、ほんのわずかに口元を緩めているように見えた。
「ターナ」
「はい」
「キミは本当に気が利く」
「ありがとうございます」
ターナは目を閉じて、無表情のまま得意げに眼鏡を持ち上げた。
タイヤが砂利を踏みつける音と共に、車が停止する。
「長時間のご乗車、お疲れ様でした」と運転手が言い、手元のボタンを操作すると、後部座席のドアがゆっくりと開いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます