第16話 外交の氷壁と融解

※第15話「経済の冬(世界崩壊編)」の直後。

経済は凍り、次に凍るのは政治だ。だが氷は、熱でしか溶けない。



1. 永田町・総理官邸 ― 氷点のテーブル


 深夜一時の官邸。窓の向こうで赤色灯が小さく回転し、会議室の長机には温い紙コップのコーヒーが散らばっている。

 総理大臣 葛城総一郎 は、北半球を覆う淡い青と赤の世界地図を黙って見ていた。赤は人の感染、緑は動物、青は夜間封鎖域。北はほぼ青い。

 外務大臣・嶋田貴弘 が口火を切る。「明日、国連安保理の緊急会合です。米英仏豪は“人権優先パッケージ”を条約化し、HDSQの国際準拠を義務に――」

 防衛大臣・宮坂薫 が遮る。「中国とロシアは領域主権を盾に拒否だ。『隔離圏』の外に口を出すなと。衛星画像では、北部の焼却線が延びている」

 官房長官・桐生貴仁 は資料を綴じながら呟く。「氷獄は“便利な敵”になった。弱らせたい相手の都市を“寒く”する口実になる」

 葛城は唇を結び、短く言う。「日本は橋だ。暮らしが生き延びる証拠を、政治に突きつける」



2. 国連本部・安保理 ― 罵声の白霧


 ニューヨーク、国連本部。重厚な扉が開くと、円卓の中央に曇った冷気が漂っていた。会場の空調は適温だ。だが、言葉が気温を下げている。

 事務総長 アントニオ・ドミンゲス が木槌を打ち鳴らす。「開会します」


 アメリカ国務長官・デイヴィッド・ライルズ(淡い灰のスーツ、手の甲に小さな火傷跡)

 「氷獄は国境を選ばない。人と獣を同じ線で守るHDSQを、国際規範に。夜間殺処分の一律禁止、加温ドームの設営支援、Day-only logisticsの共同運用。これは“西側の価値”ではない、生存の物理だ」


 フランス外相・マリー=クレール・ドゥラヴェル(声は低く、言葉は熱い)

 「処分は秩序を速く見せる。だが翌日に社会を壊す。インドの聖地の例を見なさい。祈りを昼に移すだけで衝突は減った。時間で統治できる」


 ロシア外相・セルゲイ・アンドローノフ(眉間に深い皺)

 「貴様らの“人権”は絵空事だ。氷獄に感染した都市は焼く。冬に薪を惜しむ者は凍死する。我々の領土に口出しは無用」


**中国常駐代表・梁建国**(眼鏡の奥の視線は揺れない)


 「“共生”は美辞麗句だ。我々は自主隔離圏を建設し、データは国家資産として管理する。混乱を輸入するわけにはいかない」


 イギリス外相・ハンナ・ウィルキンソン が身を乗り出す。

 「“国家資産”は人の命ではない。静穏、昼行、分散、加温は輸入ではなく共有だ」


 声が重なり、同時通訳のイヤホンが悲鳴のように高音を漏らす。傍聴席の記者は指を走らせ、カメラマンは長玉のレンズ越しに怒りの白霧を撮った。

 ドミンゲスが再び木槌を打つ。「……氷獄が人類を滅ぼすのではない。分裂が滅ぼす」



3. ワシントンD.C. ― 二つのプラカード


 ホワイトハウス前。柵のこちら側に**“KILL THE VIRUS”(ウイルスを殺せ)、向こう側に“PROTECT FAMILIES”(家族を守れ)。風に煽られ、二つの主張は同じ角度で揺れた。

 大統領 アレクサンダー・ヘイル は執務室の窓から群衆を見下ろし、演説草稿の一行を太く下線する。

 《強制処分ではなく、手順で生き延びる》

 「弱腰だ」と野党院内総務が吐き捨てる映像が、ケーブルニュースの右上でループする。

 ヘイルは原稿を閉じた。「政治の拍手より生活の拍手**を取りに行く」



4. モスクワ郊外・地下会議室 ― 武器化のロジック


 ロシア大統領 アレクセイ・モロゾフ は、地下の長机で参謀たちを睨んだ。壁のモニターに映るのは「シベリア第七隔離都市」。

 参謀長:「隔離線を突破されました。夜間焼却を拡大すれば—」

 モロゾフ:「いいや、敵前線へ送れ」

 室内に硬い沈黙が落ちる。

 「西側は“人権”で自らの手足を縛っている。冬は我々の味方だ。寒さで敵の社会を裂け」

 その論理は冷酷で、一見整っていた。だが自然は、政治の駒ではない。



5. 北京・ネットの地下水脈


 中国北部の学生 周玲 は、古いノートPCでプロキシを繋いだ。

 チャットの吹き出しに短く打つ。

 《隔離圏の病院、夜に患者を移送→全滅》

 《HDSQの文書を翻訳中。明日、昼に配る》

 停電。暗闇の中、彼女は手探りでスイッチを押す。非常用のランタンが薄く灯り、机上の紙束に影を作る。

 情報は、見えない川のように都市を流れ、検閲の網目から昼の光へ出て行った。



6. ブリュッセル・EU本部 ― 裂け目の上で


 欧州委員会議長・マリー=アンヌ・ドゥヴェルジュ は、シャンデリアの光の下で各国の閣僚と向かい合う。

 「輸出規制を国内で回す国、共通スロットを提案する国、両方の顔がある。だがDay-only logisticsは共同でなければ崩れる」

 ドイツの農相が唇を噛む。「夜間封鎖でコールドチェーンが死んだ。保温網の再設計には共同投資が必要だ」

 フランスの内相が頷く。「夜のデモは炎を呼ぶ。昼に寄せ、静穏で進めば警察力は半分で足りる」

 会議室に貼られた新しい青いポスターには、子どもが犬を抱いた絵と、四つの単語。

 HEAT / DAY / SPREAD / QUIET。

 政治の言葉は、ついに生活のフォントになりはじめていた。



7. 札幌・北浜防災センター ― 画面の向こうの政治


 体育館の壁に吊ったプロジェクターが、国連中継を映している。

 白川美沙 は受付のテーブルで、佐伯亮太 と柴犬のモモの体表温を測りながら呟いた。

 「人権って言葉より、三分って言葉の方が、ここでは効くね」

 月島悠斗 が笑う。「政治は単位を持ってない。秒とか度とか」

 斎宮晶 はペンでホワイトボードに書く。

 《投与前加温:180秒/夜間投与:回避/同時加温:人+獣》

 「この三行が、世界の討論より効くことがある」

 体育館の空気は温い。白くない息が、天井近くの暗がりへ静かに昇った。



8. シベリア・第七隔離都市 ― 崩れる設計図


 夜。凍土の上に並ぶプレハブの間で、白い霧が立ち込めている。

 VHS画質のような軍用ヘルメットカメラが、揺れる視界で外周を映す。

 「視界不良……。呼気で光が散る……」

 「夜間照明、上げるな。走る」

 遠くで叫び。近くで咳。

 “冬を制御できる”という前提が、前線から崩れていく。

 翌朝、衛星画像に映ったのは、焼け跡ではなく、蒸気を吐く壊れた街だった。

 モスクワの地下で、モロゾフはしばらく言葉を失った。



9. ニューヨーク・安保理再会合 ― 亀裂に走る温


 安保理は再び開かれた。

 ドミンゲス:「ロシアの隔離都市は崩壊。中国北部でも夜間制圧部隊が全滅。――“冬は味方”という仮説は誤りです」

 ざわめき。

 ライルズ(米):「科学に戻ろう。HDSQは政治ではなく物理だ」

 ドゥラヴェル(仏):「静穏を。ここで怒鳴ること自体が、夜だ」

 アンドローノフ(露)は、低い声で言った。

 「……支援を乞う」

 梁建国(中)が続く。

 「……隔離圏の情報を共有する。HDSQの共同運用に参加する」

 議場の見えない温度が、わずかに上がった。拍手はない。だが敵の消滅ではなく、線の一致という稀な瞬間が訪れた。



10. 東京・官邸 ― “橋”の設計図


 日本時間の未明、官邸の通信室に各国の連絡線が繋がる。

 嶋田:「日本は実装の雛形を出します。港・空港・市場を昼に寄せる“昼輸”の標準運用、加温ドームの仕様、HAAOの倫理ガイド。全部、英語・仏語・露語・中文で公開」

 桐生:「データは**“誰の顔も映らない地図”に。“温を配った時刻と場所”だけ見せる」

 葛城:「言葉じゃなく段取り**を輸出しよう」

 官邸の廊下を夜風が抜け、紙の端を揺らす。その音が、氷の継ぎ目をなぞる音に聞こえた。



11. 北京・夜明けの印刷所


 周玲は古い印刷機に紙束を差し込む。

 刷り上がるのはHDSQの中国語リーフレット。

 《加温三分/昼に移動/密を裂く/夜は静穏》

 彼女は背中のザックに束を詰め、午前十時に開く市場の入口で配った。

 警官に腕を掴まれかけた瞬間、老人が前に出た。

 「夜は静かに、と書いてある。騒がない」

 老人の声は柔らかい。警官は手を離し、紙束は昼の光へ溶けた。



12. モスクワ・地下会議室 ― 降伏ではない合意


 モロゾフは深く椅子にもたれ、「焼く」という単語を一度も使わずに、共同声明案にサインした。

 参謀長が問う。「政治的敗北と見られます」

 モロゾフは首を振る。「生存は敗北ではない。冬は敵でも味方でもない。物理だ」

 まるで別人のような言葉だったが、実利の匂いがした。



13. ブリュッセル・共同運用ルーム ― 昼輸のダイヤ


 巨大な壁面スクリーンに、欧州全域の港・鉄道・市場が昼色で点灯する。

 「赤=昼枠/灰=停止。青=静穏夜」

 運用責任者が指差す。「ここ、ミラノの昼枠が溢れる。パリとベルリンに分散を」

 若いオペレーターが微笑む。「Spreadですね」

 誰も笑わない。だが空気は、白くない。



14. ロンドン・テムズ川沿い ― 二つの旗が一つになる夜


 夜の橋の上。“KILL THE VIRUS”の旗と“PROTECT FAMILIES”の旗が、風のない夜に垂れた。

 市警の拡声器が中音量でHDSQを繰り返す。

 「Heat/Day/Spread/Quiet」

 群衆の一角から、子どもが犬を抱えて前に出た。

 「夜は静かにって、だれかが言ってた」

 旗がゆっくり降ろされ、拍手が小さく生まれ、大きくならず、長く続いた。



15. 札幌・北浜防災センター ― 紙芝居の外交


 悠斗は紙芝居の最後に、国連共同声明の一節を子どもたちに読んだ。

 「“人と獣を守る指針、HDSQ。Heat, Day, Spread, Quiet。”」

 子どもたちは繰り返す。「ヒート、デイ、スプレッド、クワイエット」

 美沙が笑う。「うん、発音より順番が大事」

 晶は時計を見る。「三分」

 モモの胸に当てた加温パッドが、ゆっくりと温度を渡していく。白くない息が二度、三度。



16. ジュネーブ・WHO/FAO合同声明 ― 文章の温度


 WHO緊急対応局長 アディラ・ハサン とFAO長官 カルロ・フェレッティ が並んで読み上げる。

 「HDSQは国際標準。夜間殺処分の全面停止。加温ドームの国際支援。Day-only logisticsの共同スロット。HAAO倫理基準――“顔のないデータ、温のある手順”」

 記者席から質問。「経済は?」

 「段取りで戻す。夜を昼に。冷を温に」

 その言い回しはすでに何度も聞いた。だが、同じ言葉が同じ意味で各国に伝わるのは、きっと最初だった。



17. ニューヨーク・共同声明の署名


 国連の大ホールに、各国代表が並ぶ。

 ビロードの机上には短い文面。

 「人と獣を守る指針、HDSQ。Heat / Day / Spread / Quiet。

  夜の殺処分を禁じ、昼の運用を共有し、加温を最優先とする。

  我々は分裂を退け、手順で冬を越える。」

 拍手は起きない。ペン先が紙を擦る音だけが、薄い春のように広がった。



18. 東京・官邸 ― 橋の上で


 サインの生中継が終わると、通信室に控えめな歓声が起きた。

 葛城は椅子にもたれ、「さて、ここからが工事だな」と呟いた。

 嶋田:「昼輸の国際便、週内にパイロット運用へ」

桐生:「HAAOのログを多言語で配信。“温の地図”を世界のトップページに」

 紙ではなく段取りが、国境を越えはじめた。



19. モスクワ・長い廊下


 合意の直後、モロゾフは無言で長い廊下を歩いた。廊下の窓の外、雪明かりが白い。

 彼は腰のインカムを少しだけ上げ、囁く。

 「情報部を動かせ。武器化を進める国や集団を炙り出せ」

 合意は終わりではない。別の戦の始まりだ。



20. 札幌・防災センター ― 掲示板の端の言葉


 美沙は掲示板の余白に、小さな紙を足した。

 「世界が壁を作っても、私たちは橋になる。

 夜は静かに、昼に温め合え。」

 亮太が覗き込み、モモの首に顔を埋める。

 「世界って、どのくらい大きいの?」

 「体育館より少し大きい。でも、三分は同じ」

 ふたりは笑った。笑いは、温だ。



21. エピローグ ― 氷は割れ、なお残る


 ロンドンの橋で旗が降ろされ、北京の市場で紙束が配られ、モスクワの地下で地図が更新され、ブリュッセルの運用室に昼色の線が増え、ワシントンの演説台で子どもの背丈に合わせたマイクが立てられた。

 世界は氷壁のこちら側へ、わずかに寄った。

 だが、薄い影がいくつも延びている。国家の、企業の、宗教の、そして匿名の手の影。

 氷獄は、戦争の火口にもなりうる。

 けれど、その前に――手順で、もう一度、冬を押し返す。


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