第5話 宣告
官邸・危機管理センター
永田町、総理大臣官邸の地下。
危機管理センターの壁面モニターには、新極北特区の地図が拡大され、赤い点滅が島の縁まで染み出していた。夜明け前の東京はまだ眠っているはずなのに、この部屋だけは昼のように白い。椅子が引かれる音、紙が擦れる音、空調の一定の唸り――緊張でどれもが神経に刺さる。
「――結論から入る」
内閣官房長官・桐生貴仁が手元の紙を一度だけ整え、平板な声で言った。「新極北特区を全面封鎖する。海上、空路、通信、物流の全ルートを段階的に制限。法的根拠は特措法の改正政令と、災害対策基本法の準用。発表は総理会見で一括だ」
対面の席で、総理大臣・葛城総一郎の指先がわずかに止まる。白髪交じりの眉が低く寄った。
隣の副総理・相馬圭介は無言でタブレットをスクロールし、金融市場の先物板を流し見てから、短く「やるしかない」と言った。
「待ってください」
厚生労働大臣・滝沢真紀が食い気味に立つ。「封鎖は医療資源の移送を阻む。現場は加温ブランケットも酸素も底をついています。保健医療を通す回廊だけでも――」
「回廊は情報漏洩の回廊にもなる」
防衛大臣・大友剛士が重ねる。「今は遮断の一択だ。外縁を海自で囲い、陸自は港湾と連絡橋を閉鎖。空は国交で飛行禁止の半径を広げろ」
国土交通大臣・篠原岳が手を挙げる。「ヘリポートは医療搬送の唯一の命綱です。完全封鎖なら、医療ヘリは――」
「例外を作るなら、例外の数は指数関数で増える」桐生が淡々と言う。「例外は“物語”を生む。人は物語に群がる」
外務大臣・甲斐俊彦が渋面で口を開いた。「国際世論は『第二の検疫失敗』と見るだろう。各国はすでに入国制限に動いている。われわれが発生源を名乗った瞬間、航路と信頼が切れる。言葉の選び方だけは慎重にするべきだ」
「財政も限界だ」
財務大臣・鷲尾玲央は数字が詰まった紙束を軽く叩いた。「臨時交付金、緊急医療支出、自治体補填――数兆の単位が飛ぶ。封鎖を長引かせないためにも、初動で強く行くしかない」
経産大臣・祇園遙が、特区の配管図を映す。「再生水、冷却塔、ミスト冷却の連結が感染のハブ。私権制限をかけ、全停止をかけるしかない。産業損失は出るが、いまは生産より遮断」
総務大臣・仁科忍が頷く。「自治体放送は官邸文言に完全同期させる。住民へのメッセージは三行に圧縮――『屋内待機』『距離確保』『水は加熱』。分かりやすさを最優先に」
環境大臣・九条直樹はメモから目を上げた。「下水の塩素濃度を上げても、低温側で感染性が上がる特性には追いつかない。処理場の順次停止とバイパス遮断を」
法務大臣・朝霧玲子が淡々と法的枠組みを引く。「特別措置法の政令改正、立入禁止命令、検疫強化。人権救済の窓口だけは並走させます。さもないと、訴訟で足をすくわれる」
桐生が指で空をなぞるように要点を束ねる。「まとめる。一、全面封鎖。二、広報は『時限的防疫措置』という表現に限定。『放棄』『見捨てる』という語を連想させない。三、医療資材は軍管理下のポイント・ツー・ポイントで搬入。四、治安は警察主導・自衛隊可視化。五、IPPI(研究機構)へのデータ一元化――」
滝沢が割って入った。「IPPIといえば。稀な生存例――あの学生は?」
内閣危機管理監・海野智也が控えめに手を挙げる。「月島悠斗。昨夜、病院前で『俺は生きてる』と発言。映像はすでに切り抜かれ、拡散しています。希望の物語になりつつある。研究所は特別管理下での移送を継続要請」
甲斐が顔をしかめた。「『生存者』が世界見出しになる。治療可能の誤解が走るぞ」
「誤解は管理できる」桐生が眼鏡を押し上げる。「記者会見で総理が使う言葉は**『治療可能性を科学的に検証するための一時的措置』**。**主語は常に“科学”に置く。“国家資源”**は会見では一切口にしない」
警察庁長官・堀田昌弘が短く報告する。「避難所の暴力事案が拡大。昨夜から発砲許可を一部現場に出しています。死者の再起動を目撃した群衆の心理が最悪。自衛隊の盾を前面に出すだけでも沈静化に寄与するでしょう」
沈黙が落ちる。
総理・葛城が、しばし机の木目を見つめ、それから顔を上げた。声は硬く、しかし掠れていた。
「全面封鎖でいく。人命最優先だ。だが、言葉の選び方も人命の一部だ。国は、恐怖ではなく秩序で動かす。――桐生、会見文を」
「はい」桐生は即答し、即席の骨子を読み上げる。「一、新極北特区の時限的防疫措置(全面封鎖)。二、生活維持物資の軍管理下供給。三、医療資機材・人員の緊急投入。四、研究所と連携した科学的検証の開始。五、国民へのお願い――屋内待機、距離確保、水の加熱。以上です」
「『未知のウイルス』という語は?」相馬が確認する。
「使わない。『病原体の性状は調査中』に置き換える」
「『封鎖』という語は?」
「タイトルでは**『防疫措置』、本文で『区域の出入りを一時制限』。見出しに“閉じ込めた”**を作らせない」
大友が腕を組んだ。「治安は?」
堀田が短く頷く。「検問と人流の遮断を即時開始。主要交差点に盾列、夜間外出の自粛を強く要請。射撃基準は維持するが、広報上は出さない」
滝沢が一歩退いて深く息を吸い、言った。「医療回廊だけは確保してください。患者は、数字ではありません」
桐生は一拍だけ目を閉じ、「医療の線は残す」と短く付け足した。「ただし事前許可制。ルートは秘匿。物語にされないためだ」
会議は急速に解像度を上げていく。
甲斐は各国大使館へのブリーフィングを段取りし、祇園は産業停止命令の告示文を整え、篠原は海と空のNOTAM(航空情報)と停泊指示の草案を走らせる。仁科は自治体放送のテンプレートを三行に圧縮し、朝霧は政令案の条文に朱を入れ、九条は下水の遮断手順を箇条書きに詰めた。
そのすべてを、桐生のペン先が一本の線に束ねる。
やがて、葛城が立ち上がった。
「――行こう」
階段を上がる途中、滝沢が小声で総理に並ぶ。「総理。言葉は兵器です。でも、沈黙もまた兵器になります」
葛城は頷いた。「分かっている。今日は、言葉で橋を架ける」
⸻
官邸一階の記者会見室。
フラッシュの光が白く瞬き、電光掲示に時刻が点滅する。
演台に立った葛城は、用紙を一枚だけ置き、正面を見据えた。
「国民の皆さん。政府は本日、新極北特区における時限的防疫措置を実施します」
フラッシュが一斉に弾けた。
「この措置は、人命を守るために必要最小限のものです。政府は医療資機材と生活物資の供給を軍の管理下で継続し、研究機関と連携して科学的検証を進めます。皆さんには、屋内待機、人との距離の確保、飲用水の加熱をお願いします」
記者が手を挙げる。「致死性は?」
「調査中です。しかし、冷静さこそが最も強い対策です」
「生存者とされる青年の扱いは?」
一瞬、空気が変わった。
葛城は間を置き、言葉を選ぶ。
「特定の個人に関する詳細は答えません。ただし、治療可能性を科学的に検証することは、わたしたちの責務です」
会見室の背後で、雨が降り始めた。
夏の雨なのに、音は冬の雨のように冷たかった。
⸻
地下に戻ると、海野が小走りで桐生に耳打ちした。「特区からのライブ映像が……避難所の暴動、病院前の衝突、“俺は生きてる”の切り抜きが再浮上しています」
桐生は短く息を吐いた。「予測の範囲内だ。秩序で上書きする」
桐生は全省庁の広報チャットに固定メッセージを送る。
《要旨は三行で繰り返せ。恐怖の物語に対して、秩序のリズムで返すんだ》
その瞬間、壁面モニターの赤い点滅が一つ、海の方へじわりと伸びた。
封鎖の線が追いつくよりも、物語の広がりの方が速い――誰もが、言葉にせずに理解した。
しかし、決断は下されたのだ。
国家は、宣告した。
⸻
避難所 ― 暴動激化
北浜地区防災センター体育館。
前夜から吹き溜まっていた緊張は、朝の封鎖宣告をきっかけに爆ぜた。
スピーカーから流れた「区域の出入りを一時制限する」という官邸の言葉を、人々は瞬時に「閉じ込められた」と訳した。
「俺たちは見捨てられたんだ!」
「もう終わりだ、どうせ死ぬ!」
「水を寄こせ! 食料を出せ!」
怒号と泣き声が交差し、毛布の上で肩を寄せ合っていた家族の群れが、次の瞬間には互いに押し合いを始めていた。
白川美沙は拡声器を握り、机を叩いて叫んだ。
「落ち着け! 全員分ある、順番を守れ!」
しかしその声は、群衆の恐怖に呑み込まれる。
配給の水箱に群がる男たちが、女性を突き飛ばし、泣く子どもを踏みつけた。
「やめろ!」美沙は走り込み、男の腕を掴む。
「離せ!」男が振り返り、血走った目で唸った。「どうせ死ぬなら、力あるやつが先に飲む!」
背後でガラスが割れる音。誰かが窓を叩き割り、外へ飛び出そうとしていた。
「封鎖なんて嘘だ! 逃げられる!」
出口に人の波が殺到する。
美沙の警棒が虚しく空を切り、部下の若手警官が押し潰されそうになる。
「後退しろ!」
美沙は部下を引きずり出し、盾を前に立てた。だが群衆の力は止まらない。
⸻
その時、体育館の隅から女の悲鳴が上がった。
「やめて! この子は違うの!」
抱きしめられた少年の口から、白い霧が漏れていた。
周囲の避難者が一斉にざわめく。
「また感染者だ!」
「殺せ! 俺たちまで凍る!」
誰かが椅子を掴み、振り上げる。
美沙は即座に銃を抜き、椅子を構えた男に向けて引き金に指をかけた。
(撃つ……? 本当に、撃つのか……?)
頭の中で葛城総理の「人命最優先」という言葉と、桐生官房長官の「秩序で動かす」という冷たい声が交錯する。
銃口が震えた。
「下ろせ!」美沙は怒鳴り、銃身を天井に向けて威嚇発砲した。
轟音と火花に、群衆が一瞬凍りつく。
「この子はまだ生きている! 誰も殺させない!」
叫びは、体育館全体に響き渡った。
だが群衆の目は、もはや警察への信頼ではなく、恐怖と敵意で濁っていた。
⸻
後方で無線が鳴る。
〈こちら県警本部。現場判断で射撃許可を出す〉
美沙の胸が締めつけられる。
(ここでも“処分”を選べというのか……)
銃を握る手が汗で滑りそうになる。
母親が少年を抱きしめ、泣きながら訴えた。
「お願い、見捨てないで……!」
その時、体育館の出入口に黒い影が差した。
防弾ヘルメットと盾を携えた機動隊が到着したのだ。
「制圧開始!」隊長の声。
盾列が一気に人の波を押し戻す。
逃げ惑う住民の悲鳴、床に転がる椅子、飛び散る水。
混乱の只中で、美沙は少年を抱えた母親を背に庇った。
(これはもう、警察の範囲を超えている……。秩序を守るための銃口が、市民に向いている)
体育館の窓の外では、雨が灰色に煙っていた。
都市全体が、封鎖という名の檻に変わろうとしていた。
⸻
消防と医療 ― 陸と晶
北浜第四小学校校庭。
そこは一夜にして仮設の救護所へと変わっていた。テントが並び、ブルーシートの上に毛布をかけられた人々が横たわっている。呻き、咳き、時折白い霧を吐く声があちこちから響いた。
三条陸はホースを肩から外し、防火服を脱ぎ捨てるようにベンチへ腰を落とした。
酸素ボンベはすでに空。仲間の隊員たちも皆、煤と汗で真っ黒になっている。
「隊長、水が……もうタンクも尽きます」
若手隊員が報告に駆け寄った。
陸は口を開きかけたが、声にならなかった。昨日から十数時間、ほとんど休んでいない。
校庭の隅で、ストレッチャーに乗せられた仲間の姿が目に入る。石塚消防士。先の火災現場で感染者に腕を掴まれ、氷結の痕が肩から胸にまで広がっていた。
「……まだ、間に合うんだろうな」
誰にともなく呟く。
だが医師は首を横に振った。
「残念だが……臓器の冷却が始まっている。救命は困難だ」
陸は拳を握り締めた。
(助けられない命が、どんどん増えていく……俺は消防なのに、火も、人も救えないのか)
⸻
一方、新極北中央病院。
斎宮晶は悠斗の病室に詰めていた。
窓の外では、官邸の「防疫措置」が発表された直後の騒乱が広がっていた。サイレン、怒号、ガラスの割れる音。まるで戦場だ。
病室には二人の警備員と防護服の職員が立ち、悠斗のベッドを監視している。
晶は苛立ちを抑えきれず、声を荒げた。
「患者を囲って何になる! 彼は治療を受ける権利がある!」
防護服の男が冷たい声で返す。
「我々の任務は保全だ。治療は研究所で行う」
「保全……? それは研究対象としてだろう!」
「そうだ。彼は特異個体だ。君の感情で扱うものではない」
晶は机を叩いた。
「ふざけるな! 悠斗は俺の友人で――」
「……晶」
掠れた声が遮った。悠斗だった。
青白い瞳が半分だけ開き、晶を見つめている。
「大丈夫だ。俺は……まだ、生きてる」
その言葉に、晶は一瞬呼吸を忘れた。
だが同時に、胸を締めつける思いが湧き上がる。
(生きている――だからこそ、彼を資源として奪われる。助けられる命が、友であることが、逆に鎖になっている)
⸻
廊下の奥から怒声が聞こえた。
「ストレッチャー! 意識レベル3! 冷却が進んでる!」
新たな患者が搬送されてきた。防護服の医師が慌ただしく駆け込み、処置室の扉が閉じられる。
晶は窓の外を見た。
遠くで煙が立ち、消防車の赤い光が瞬いている。
そこではきっと、陸が同じように命を抱え、同じ絶望と戦っているのだろう。
(俺たちは皆、違う現場にいる。けれど……同じ敵と戦ってるんだ)
警備員の背を睨みながら、晶は心の中で固く誓った。
「悠斗は誰にも渡さない。必ず守る」
外では、雨に混じって群衆の叫びがこだました。
都市の心臓が、少しずつ凍りついていく音のように。
⸻
研究所 ― 抗体仮説
IPPI研究棟。
如月沙耶はモニターに映る解析グラフを食い入るように見つめていた。血液サンプルのウイルス量は明らかに異常な挙動を示している。
「……増えていない?」
隣の研究員が呟いた。
「いや、増えてはいるが、一定値を越えると自己抑制がかかっている。まるで体内で“壁”に突き当たるみたいだ」
沙耶の指が震えた。
「悠斗の体内には……抑制因子が存在している」
画面に映し出されたのは、未知のタンパク質の波形。既知の免疫グロブリンとは異なる、氷結ウイルス特有の構造を阻害する分子反応だった。
「……ワクチンになる」研究員が呟いた。
その一言に、室内がざわめいた。
扉が開き、鷹野良介所長が入室した。
「結論を言え」
「悠斗は、氷結ウイルスを抑え込む抗体を持っている可能性が高い」沙耶は震える声で答えた。
「だが、まだ確証は――」
「十分だ」鷹野は遮った。「これでいい。悠斗は人類のワクチンだ。あとは徹底的に解析しろ」
沙耶は食い下がる。
「彼は研究対象じゃない、人間です! 痛みや恐怖を抱える青年なんです!」
「感情を持ち込むな」鷹野の声は氷のように冷たい。「人類が救われるか、滅ぶか。その鍵を握るのは一人の青年だ。ならば人間である前に資源だ」
室内の空気が凍りつく。
沙耶は唇を噛み、視線を逸らした。
(資源……。その言葉で未来を救えるのか……)
⸻
クライマックス ― 都市暴動
夜。新極北特区の街路。
雨に濡れた舗道で、群衆がバリケードを築いていた。コンビニの窓ガラスは割られ、煙草と水の箱が路上に散乱している。車両が横転し、火が上がった。
「俺たちは囚人じゃない!」
「封鎖を破れ!」
怒号と火炎瓶。警察の盾列が押し返し、放水車が水柱を浴びせるが、群衆は怯まない。
銃声が一発。悲鳴が走る。誰かが倒れ、血がアスファルトに広がった。
その騒乱を、病院の病室から悠斗は見ていた。
ガラス越しに、燃える街路と叫ぶ人々。
「……俺のせいなのか?」
掠れた声で呟く。
「俺が生きてるから……みんな狂っていくのか?」
晶が傍らで首を振った。
「違う。お前は希望だ。たとえ世界中が資源だと言っても、俺だけは――友だとして守る」
悠斗の氷色の瞳がわずかに揺れる。
「希望……俺が?」
外で再び爆発音が響いた。火柱が夜空を照らし、病院の窓を赤く染める。
その光景の中で、悠斗は初めて恐怖ではなく、生きる意志を口にした。
「……俺は、生きる。たとえ誰に何と言われても」
晶は強く頷いた。
二人の決意の声は、外の暴動の轟音に掻き消されたが、確かにそこにあった。
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