第3話 崩れる都市Ⅰ
政府会議(官邸・危機管理センター)
永田町・総理大臣官邸、地下の危機管理センター。壁面モニターに新極北特区の地図が投影され、赤い点滅がじわりと広がっていた。空調の風は一定だが、室内の体温と焦燥で重たく感じる。
「――まず広報の骨子だ」
内閣官房長官・桐生貴仁が資料を指で整え、鋭い声を落とした。「現段階の公式呼称は**『夏季インフルエンザ様疾患』**。『未知のウイルス』という文言は使用しない。致死性の有無は『調査中』で統一。『落ち着いた行動を』――この四点を徹底する」
正面の席で、総理大臣・葛城総一郎が黙って腕を組む。白髪交じりの眉がわずかに寄る。
その隣、副総理・相馬圭介はタブレットを横向きに置き、株価と為替のグラフを指で払った。「市場は敏感だ。『新型ウイルス』と断じた瞬間に海外が扉を閉める。桐生君の方針に賛成だ」
「市場より先に、救急が崩れる」
机を軽く叩いたのは厚生労働大臣・滝沢真紀。目の下に濃い隈ができている。「現場からの報告では、低体温と呼吸不全が急増。人工島の主要病院はほぼ満床、加温機器と酸素が不足。これは季節性インフルでは説明がつかない」
「説明は後だ」
短く切ったのは防衛大臣・大友剛士だった。「事態は拡大中。特区の完全封鎖、海上自衛隊による外周警戒、陸自の人員遮断線。早ければ今夜にも――」
「封鎖は最後の手段だ」
外務大臣・甲斐俊彦が制した。「我が国が発生源とみなされれば国際線は止まり、物資が詰まる。近隣諸国への説明と調整が先だ」
「物流は財政にも響く」
財務大臣・鷲尾玲央が資料をめくった。「緊急支出をするにしても、国会手続きが――」
「国会の都合はあとでいい」
経産大臣・祇園遙は、冷却塔と再生水設備の図面を示した。「特区の産業インフラは連結が密。下水再生水→冷却塔→商業施設・大学という動線でエアロゾルが発生している可能性が高い。工場停止命令を総理権限で」
総務大臣・仁科忍が頷く。「自治体放送は官邸指示に合わせる。住民向けメッセージを一本化しよう」
国交大臣・篠原岳は港湾とヘリポートの配置図を前に眉をひそめた。「封鎖時の退避ルートは海上一本になる。桟橋の強度が足りない。増設は最短でも四十八時間」
環境大臣・九条直樹は小声でつぶやく。「再生水の系統洗浄は? 塩素濃度を上げれば――」
「効かない可能性が高い」
そう告げたのは官邸事務方、内閣危機管理監・海野智也だ。落ち着いた声で資料をめくる。「IPPI――特区の国際研究機構からの内々の報告。低温で感染性上昇、常温でも安定。潜伏は十二時間以下。致死率は――まだ確定値ではないが非常に高い。ただし、稀に生存例があると」
室内がわずかにざわついた。
警察庁長官(官僚)・堀田昌弘が顔を上げる。「治安は逼迫。避難所で暴力事案、銃器使用許可を一部現場に出した。死人が再起動するという風説が回り、群衆心理が最悪だ。自衛隊の可視化で沈静化を」
「再起動、という言葉は使うな」桐生が即座に切る。「医療的根拠が不十分だ」
文部科学大臣・葉山千景が手元のメモを見た。「大学の講義は停止。だが学生の避難が追いつかない。島外の親から問い合わせが殺到している」
法務大臣・朝霧玲子は法的枠組みを確認する口調で言った。「特別措置法の発動は可能。ただし『未知の感染症』と閣議決定する必要がある」
桐生は一枚の紙を葛城の前に滑らせた。骨子には太字で三行――『未知』『高致死』『封鎖』――そのうち二つに斜線が引かれている。
「総理。言葉は兵器です。ここで『未知』を口にすれば、海外メディアは**“ジャパン・アウトブレイク”と見出しを打つ。まずは鎮静化**。封鎖は段階的に。**“制御下”**という印象を崩さないでください」
滝沢が身を乗り出した。「現場は印象で患者を救えません。加温機器、酸素、保護具、そして正しい情報が要る。『風邪』と誤認すれば、避難所は感染炉になる」
海野が続ける。「そして、IPPIからもう一件。月島悠斗、二十歳。感染後三十時間を経て生存。体温は三十五度前後で安定、青白化あり。研究班は保護・移送を求めています」
室内に沈黙が落ちた。
大友が低く言う。「その個体を確保しろ。国家資源だ。軍管理下で」
滝沢の目が鋭く光る。「患者です。倫理を外せば、国は壊れる」
相馬が割って入る。「倫理と国家目的を両立させるのが政治だ。特別管理患者として法的に保護、しかし移送は行う。現場対応は――」
「警察庁と防衛省で共同」堀田が即答した。「特別移送班を編成。病院からIPPIまでの動線を封鎖する。報道カメラは遮断」
外務の甲斐が渋い顔で付け加える。「海外メディアには『治験候補者の保護』とだけ。**“生存者”**という言葉は使うな。『治療可能性』が独り歩きする」
桐生が会議の結びを取りにいく。「では決定をまとめる。
一、特区の部分封鎖。海上外周は海保・海自で監視、空路は国交省が調整。
二、官房主導で広報一本化。『夏季インフル様』『調査中』『落ち着いた行動を』。
三、厚労は医療資器材の緊急配備。経産は再生水・冷却塔の停止勧告。
四、警察・防衛は特別移送班を直ちに編成。対象は月島悠斗。
五、IPPIにはデータの全面共有を要請。ただし公表は官邸承認制」
葛城は長く息を吐き、頷いた。「……異論は?」
誰も手を挙げなかった。上げられない空気が部屋に満ちていた。
総理がゆっくりと立ち上がる。「この国は、恐怖では動かさない。秩序で動かす。桐生、会見の準備を」
「はい」
桐生は視線だけで海野と堀田に合図し、資料を閉じた。
会議が散り、最後に残った滝沢が葛城に低く言った。「総理。『言葉は兵器』です。けれど、沈黙もまた兵器になります」
葛城は目を伏せ、短く頷いた。「わかっている。だが、今は間に合わせる」
地上に出る階段の先で、官邸の空は薄く白い。季節外れの霞か、誰かの吐息か、見分けはつかなかった。
⸻
病院パート(新極北中央病院・準ICU)
新極北中央病院の廊下は、酸素ボンベとストレッチャーの列で塞がれていた。看護師が走るたびに、床に貼られた黄色テープが踏まれ、低い靴音が反響する。救急外来は夜を徹して稼働しており、今も救急車が五分ごとに到着しては搬入されてくる。
斎宮晶は白衣の胸ポケットに記録用のメモ帳を突っ込み、準ICUの小さな個室に滑り込んだ。
ベッドには月島悠斗が横たわっている。額に貼られた体温計の数値は三十五・二。だが、冷たい。人間の皮膚温ではなく、凍結寸前の湖に手を突っ込んだような質感だった。
モニターが一定の心拍を刻んでいるのが唯一の救いだった。
「……晶」
悠斗の唇がわずかに動く。吐息が白く曇り、室内の空気に薄い氷膜を描いた。
「俺、まだ……生きてるよな」
「ああ」
晶は短く答え、彼の手を握る。冷たさに思わず指が震える。
「生きてる。少なくとも、今は」
悠斗は小さく笑った。だが、その笑みの下で瞳が開かれた瞬間、晶は息を呑んだ。
虹彩が青白く、氷片のように光っていた。
「……見えるか?」
悠斗はかすれた声で呟く。
「何が」
「世界が……少し違う色に見えるんだ。明るすぎるほど、冷たい」
晶は答えず、メモ帳に震える手で書き留めた。
《瞳:青白化/光反射異常》
《意識清明 自覚症状あり》
病院の外ではサイレンが続いている。救急車がまた到着したらしい。廊下を走る靴音が連なり、医師の怒鳴り声が混じった。
「ベッドがない! 準ICUも満床だ!」
「急変患者を救急処置室に戻せ! 蘇生班を――!」
晶はベッド柵を上げて立ち上がった。ドアを開けると、ストレッチャーが二台、看護師に押されてすれ違う。どちらの患者も顔色は蒼白で、吐息が白かった。
「学生! 手伝え!」
救急医が叫んだ。晶は反射的に頷き、点滴スタンドを掴んで走った。
処置室では、心電図モニターが警告音を立てていた。若い女性の心拍が三十を切っている。医師が胸骨圧迫を行い、別のスタッフが加温ブランケットを巻き付ける。
「体温三十三度! 酸素低下!」
「温風マット最大! 静脈ライン確保!」
晶は点滴を差し替え、ラインの流量を調整する。汗が額を伝う。
(これは風邪じゃない。インフルでもない。人の体を氷に変える病だ)
救急医の声が飛ぶ。
「だめだ……心静止!」
AEDが作動する。
〈ショック不要〉
「胸骨圧迫続行!」
圧迫のリズムと警告音が処置室に響く。やがて医師が首を振った。
「……時間切れだ。止める」
女性の腕から、白い霧が漂った。
晶は一瞬、その姿に悠斗の未来を見てしまい、背筋を凍らせた。
⸻
処置室を出た晶は再び悠斗の個室に戻った。
ベッドの上で悠斗はまだ意識を保っていた。モニターの数値は安定している。
「なぁ、晶」
「何だ」
「……俺、助かるのか?」
晶は椅子に腰を下ろし、視線を逸らさずに答えた。
「助ける。俺が助ける」
その言葉は医学生としては未熟すぎる。だが友として、唯一できる誓いだった。
悠斗の唇がわずかに震え、微笑が浮かんだ。
「なら……信じる」
その瞬間、瞳の青白い光が一層強くなった。まるで病院の蛍光灯が反射しているかのように。だが晶は知っていた――これは体の変化そのものが発している光だと。
(生き延びている。これは奇跡か、それとも――)
胸の奥で冷たい疑念が広がる。
だが晶はそれを押し殺し、再びメモを取った。
《生存例:進行遅延/変異可能性》
外では再び救急車のサイレンが重なり合った。
都市が崩れていく音が、病院の壁を震わせていた。
⸻
消防パート(北浜地区・集合住宅火災)
昼下がり、北浜地区第七ブロックの集合住宅から黒煙が噴き上がっていた。
消防車のサイレンが連続し、赤い光がガラス窓を照り返す。住民の悲鳴と怒号が交差し、狭い路地は押し寄せる野次馬と避難者で混乱していた。
「ホース展張! 二階から四階を制圧だ!」
三条陸は防火服の面体越しに叫び、ホースのバルブを開いた。水柱が轟音と共に火炎へ突き刺さる。だが、熱風の中で陸の視界に異様な光景が映った。
階段の踊り場に倒れた住民の口から、白い霧が漏れていた。
炎の熱気に晒されているはずなのに、吐息は凍りつくように冷たい。
「低体温……? ありえない……!」
陸は駆け寄り、体を担ぎ上げる。腕は氷嚢のように冷たく、皮膚が青白い。火災現場の灼熱と、患者の冷気が体を二つに裂くようだった。
「搬送班! ストレッチャー!」
無線が耳元で応じる。〈了解!〉
だが搬出口にはすでに十人以上の負傷者が並び、救急車はすべて埋まっていた。
「もう乗せられません!」救急隊員が叫ぶ。
「なら待機だ! せめて加温を!」陸は怒鳴る。
背後で爆発音。キッチンのガス管が破裂したらしい。火炎が廊下を舐め、天井板が崩れ落ちる。
陸は咄嗟に身を伏せ、患者を覆った。背中を熱風が叩き、酸素ボンベが振動する。
「陸隊長!」
部下が駆け寄る。
「奥にまだ三人取り残されています!」
「どの階だ!」
「五階、バルコニー付近!」
陸は歯を食いしばる。
(炎に加えて、ウイルス……ここは地獄だ)
「俺が行く! 二人は水幕を張れ!」
ホースの水流が壁一面に広がり、煙が一瞬薄くなる。陸はその隙に階段を駆け上がった。
⸻
五階。廊下は灼熱で、壁紙が焦げ落ちている。
窓際で母親と二人の子どもが泣き叫んでいた。
「助けて! ここにいる!」
「落ち着け!」
陸は体を低くし、子どもを一人ずつ抱えて背負う。だが、息を吸い込んだ瞬間、違和感に凍りついた。
――子どもたちの吐息が白い。
目の縁には小さな霜がつき、髪も湿気で白く凍りかけていた。
「……おい」
母親の顔も蒼白で、頬に雪の結晶のような模様が浮かんでいる。
炎の熱さの中で、家族全員が冷えていく。
「救助だ! 走れ!」
陸は三人を抱えるようにして階段を駆け下りた。背中に子どもの冷気が伝わり、防火服の中で肌が粟立つ。
⸻
搬出口。
「酸素ボンベ! 加温ブランケット!」
陸が叫ぶが、資器材はすでに枯渇していた。救急隊員が涙声で言う。
「もう残ってません! 搬送もいっぱいで……!」
陸は母親の肩を押さえ、声を荒げた。
「ここで止まるな! 命を繋げ!」
だが母親は弱々しく首を振った。
「寒い……でも、火が……暑い……」
矛盾した言葉を残し、彼女の瞳が上を向いた。
心拍チェック。脈は弱い。
陸は胸骨圧迫を始めた。熱風と冷気が交互に襲い、汗と霜が混ざって面体を曇らせる。
「隊長、これ以上は……!」
部下の声。
陸は叫び返した。
「ここで諦めたら、全部無駄だ!」
しかし、母親の体は硬直し始めていた。筋肉が凍るように動かない。
白い霧が口から漏れ、次の瞬間、彼女の腕が痙攣して陸の手首を掴んだ。
「っ……!」
冷たい。氷の鉤爪で握られたような感触。
母親の瞳が薄氷色に光り、声にならない呻きが漏れた。
周囲の隊員が凍りつく。
陸は即座に腕を振り解き、叫んだ。
「拘束! 毛布でもロープでもいい!」
だが母親の力は異常に強く、部下を弾き飛ばした。子どもたちが悲鳴を上げ、白い息が舞う。
無線が耳に響いた。
〈消防指令室より。北浜地区、感染者の処分を許可。危険行為が続く場合は――〉
「黙れ!」陸は叫んだ。
「これはまだ市民だ!」
その言葉と共に、母親の体を毛布で覆い、仲間と共に押さえつけた。
氷晶が舞い、毛布が白く凍っていく。
陸の胸に重くのしかかる感覚があった。
――救助と処分、その境界線が崩れかけている。
⸻
火災は制圧されたが、集合住宅の前には救急車の列と冷たい霧が漂っていた。
住民の呻き声、子どもの泣き声、消火水の蒸気。
それらすべてが、都市の崩壊の前触れに聞こえた。
陸は防火面体を外し、冷え切った息を吐いた。
「……助けられる命を、助ける」
自分に言い聞かせるように。
だが胸の奥で、誰にも聞こえない問いがこだました。
(この病と戦うのは、もう消防の役目じゃないのかもしれない……)
陸の胸に重くのしかかる感覚があった。
救助と処分、その境界線が、音を立てて崩れていく。
そして――これはまだ、都市崩壊の序章に過ぎなかった。
→ 第4話「崩れる都市Ⅱ」へ続く
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